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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文849

2023-04-21 15:32:49 | 純文学
『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎 新潮文庫)

 訃報を聞いた数日後、古書店で手にした。
 二十歳くらいまでは食わず嫌いで読まなかった大江健三郎を、自らの偏見を解体するように手にし、広島や沖縄についての著書も読んできた。
 いつかまた、と思って本棚に入れてあるそれらを再び手にするのでなく、未読の本書を求めたのは、訃報と古書店での出会いに導かれてだ。
 表紙裏の解説には“著者会心の連作小説集”とある。短編集なら、多忙の中でも読みやすいと思った。
 1ヶ月かけて読了して、私の見通しの誤っていたことに気づいている。これは連作集であって、短編集ではなかった。集中して連読しなければならない類いの小説たちであった。
 というのも、単品単品で見ては、意図がいまいちわからないのだ(私の読解力低下も一因とは思うが)。
 一見すると私小説風だが、表層を撫でるように読むから、誤読してしまうのだろう。
 で、いったい何を描きたかったのだ? という読後感に惑いながら1ヶ月ぶりに表紙裏の解説を見ると、“「雨の木」のイメージは、荒涼たる人間世界への再生の合図である・・・”という。
 そのような救いのイメージに、私は気づかぬまま頁を閉じてしまっていた。
 アルコールに傾いていったという著者の晩年を、訃報の後の誰かの回想で読み、救いのない老いを老いていったのかと、大江健三郎の死というフィルターを通して読んでしまったせいかもしれない。

読書感想文848

2023-03-21 15:59:34 | 純文学
『教団X』(中村文則 集英社文庫)

 以前から気になっていた。
 同著者のものは『何もかも憂鬱な夜に』しか読んでいなかったが、印象は良かった。
 純文学作家が、現代の問題意識・切り口で、どのようにカルト宗教を描くのか。高橋和巳『邪宗門』との比較という視点でも興味深かった。
 読み比べてみて思うのは、時代の要請が下味になっているということだ。『邪宗門』は“世直し”が根底にあったし、破滅へと向かう現実の“世直し”を、宗教団体の壊滅という形に託して作品中で描いてみせる。一方で本作は、ポスト・オウムの時代に、自然科学と宗教を横断的に捉えながら、その先へと超越するかに見えるポスト新興宗教的なモチーフ。これが各人各様の解釈によって、作中人物らの物語を交錯させる。
 約600頁の大著だが、600頁で描き切れる内容ではなかったと思う。『教団X』を率いる男の内面や、教義や、教団のありようが表現し切れておらず、読んでいてそのカリスマや必然性などが全く感じられなかった。荒唐無稽さに終始し、最後に軽く語られる男の経歴は、補完にも足らず、言い訳じみてさえ見えた。
 根本にある世界への反感、義憤みたいなものは、『邪宗門』に遠くないのだろうと感じる。主要な登場人物たちは、こぞってそれを匂わせている。著者の隠しきれない個人的な想いなのだろうと思う。器用とは言えない手法で溢れさせ、結末にもっていった著者の並々ならぬ力には感服する。
 『邪宗門』とは違い、疑問符を抱えながらも、残された者らは前を向き、生きようとしている。これは、著者の決意でもあろうかと希望的に観測しつつ、今後の作品にも期待したい。

読書感想文845

2023-02-04 09:32:25 | 純文学
『坑夫』(夏目漱石 岩波文庫)

 たぶん、高校生以来で読んだ。漱石らしからぬ雰囲気をまとった作品。印象に残っていて、いずれまた読もうと思い続けていた。
 解説にも書かれているが、主人公が何をしたいのか、どうありたいのか、掴みがたく、小説としてのカタルシスはない。しかし、ある時期の、言うに言われぬ瞬間を描けば、もとより小説らしくならないだろう。作り物めいてない感触が、この作品を新鮮に感じさせている。
 高校生のときに本作を読んで、数年後には、まさに主人公のように私は地の底に下りていった。より多くの日当を得られると思って、警備員になったのだ。
 私の知らない様々な人たちがいた。就職氷河期と呼ばれた時期である。リストラされた人、自営業の赤字を補うため睡眠時間を労働に充てる人、何かを目指している人、就職浪人、訳有りの人・・・人格は無視された。工事現場の作業員にすら下僕扱い。しかし、『坑夫』作中にあったのと同様、知識人もいた。何らかの事情でドロップアウトし、それでも生きていくため、彼らは夜の時間を切り売りしていた。
 底辺を見てきてから本作を読むと、全く異なる輝きを感じる。主人公の揺れ動く心や涙にも感情移入できた。
 とはいえ、ずっと再読しようと思ってきたのが、何故いまのタイミングになったのか。私は今も、否、これまで以上に今、迷っているのかもしれない。
 主人公は「性格なんてものはない」というようなことを言っているが、同じ文脈で私は、「成長なんてない」のかもしれないと思い始めている。
 

読書感想文841

2022-12-27 22:03:00 | 純文学
『風味絶佳』(山田詠美 文春文庫)

 新刊でも古書店でも、よく目にする書き手である。しかし二十歳くらいのころに少し読んだきりになっていた。私にとっては、それほど、また読みたいと思う類の作風ではなかった。
 今回珍しく手にしたのは、ブックオフで久々に、『この棚から一冊を必ず選ぶ』という縛りを課してのことだ。以前、よく図書館で用いた手法である。敢えて、自分の趣味から外れてみて、発見をもたらそうという試みだった。
 目についたのは、おそらく印象的な四字熟語のためだろう。「確か、映画化されていたよな」とも思い出した。
 表題作を含め、六つの短編が収められている。いずれも恋愛を題材にしつつ、中心人物は肉体労働の男性、そういうテーマで連作したものだろうか。
 軽妙で、描写も良い。しかし、やはり好きにはなれない。
 表題作では、最後に祖母の恋人らしき若い男に殴られる場面がある。ドラマチックで、いかにも文学作品を映像化するのに適したようなエンディングなのだが、腑に落ちない。・・・自分の祖母に、得体の知れない恋人がいるだけでも違和感がある。男性読者ならば、自然と語り手の孫の視点で、違和感を共有してしまうのではないか。
 確かに祖母の気も知らずに甘ったれた文句を垂れる孫は鼻持ちならぬだろう。しかし知ったような口を聞き、恋人然としている手前は何者なのだ? と、気持ち悪い読後感に見舞われた。
 中年あるいは初老の女性なら、このラストにカタルシスを得るのかもしれないが。
 私がこの著者の作風に惹かれない理由の一端がわかった気がした。

読書感想文839

2022-12-17 16:35:13 | 純文学

『悲の器』(高橋和巳 新潮文庫)

 この書き手の作品に引き込まれ、立て続けに読んだ時期があった。

 その後、幾つかをときどき再読してきたが、積極的には手に取らなくなった。

 理由は、引き込まれ過ぎると、その気真面目さに伴う破滅的な要素が、少なからず私に乗り移る気がしたからだ。この年になって、今さらそれはあるまいと見くびるとしたら、文学を軽視し過ぎだろう。ただの読み物、気休めとして通り過ぎることのできない作品というものがある。

 と、わかっていながら、再びこの重厚な小説を手にした。

 もとより食欲をそそる話ではない。高橋和巳の代表作と目せられていながら、ほとんど忘れ去られ、少なくとも私は他人の口から『悲の器』と聞いたことは生涯に一度しかない。(私がまだタバコも酒もやっていたころ、東京の場末の飲み屋で知り合った東大哲学科出身のプータローが、唯一、高橋和巳作品について語り合えた相手)

 それでも、再び手にするときがくるものなのだなと感慨深い。若いときは、革命の時代の息吹とその挫折を知りたくて読みふけっていた。いまは、挫折しつつも生きていこうとする中年男の、矜持と名誉と、そして裏腹な滑稽さ。これに向き合ってみなければというところか。

 まるで諭説のように続く重厚な文体。いまの時代、好んで読む者はないだろう。

 しかし意外に読みにくい文体ではない。感情移入できるからかもしれないが、著者の情念、執念のようなものが活字からほとばしり、私を捉える。

 法哲学の権威・正木典膳。弟で司祭の正木規膳。二人の論争はもはや小説の体をなしておらず、往復書簡か対談のようである。しかし、おそらく著者の分身である二人の、不毛で難解で着地点さえない論争は、この小説の核心とさえいえる。

 解説者・宗左近が最後にこう書いているのは印象的だった。

「しかし、同時に、思えば、正木典膳は、いや高橋世界は、滑稽でもあるのです。しかし、それを笑いうる悪魔の視点は、まだ現れでていない。不在の神が、不在であることによって、あまりにもその世界を強く支配しすぎているからです」

 高橋和巳自身は、意図していなかったのだろう。それは意図せずして語ってしまった滑稽さなのだが、救いとる視座は、失われたままだった。

 後に、欠点ばかりが取り上げられ、時代に忘れ去られた高橋和巳作品。とはいえ、ミッシングリンクは、私が再び手に取らざるを得なかった今回の再読のように、異なる視点から読まれたとき、図らずも読む者が埋めていくのかもしれない。消費財ではない、文学という芸術の面白さだと思う。