その一、その二の続き 1895年6月末、ソールズベリーが再び首相兼外相となり、直ちに彼は東方問題に注目した。ソールズベリーはドイツにも呼び掛け、フランスやロシアに接触し、オスマン帝国への共通の政策を模索する。だが、英国の意図を疑われ、満足な回答は得られなかった。また、大英帝国十八番の恫喝と砲艦外交も展開、小艦隊を組んだ軍艦をダーダネルス海峡に回航させたりもする。トルコでは英国はレムノスの奪取か、ス . . . 本文を読む
その一の続き アルメニア人全てがアルメニア正教会に属していた訳ではない。東部6州ではローマ・カトリック教徒も大勢おり、彼らは昔からフランスとの繋がりが濃かった。1839年以降、アメリカ人プロテスタント伝道師たちはエルズルム周辺で積極的に改宗者を獲得、彼らに優れた学校教育を施した。これに対し周囲のクルド人族長たちは、宗派を問わずアルメニア人キリスト教徒全員に敵意を抱いていた。30年後、アルメニア問題 . . . 本文を読む
オスマン帝国末期に起きた様々な民族・宗教対立で、最も知られ最も犠牲者数が多いのは、19世紀末と第一次世界大戦中の2度に亘るアルメニア人虐殺事件であり、21世紀もなおトルコはこの問題で欧米から糾弾され続けている。これはギリシアやバルカンの独立運動への弾圧に比べ、遥かに強く欧米人の感情を揺さぶった。これ以降の記事は19世紀末の出来事を中心に書きたい。 アルメニア人の大半は約5世紀に亘り、オスマン帝国 . . . 本文を読む
その①、その②の続き 紀元後3世紀、ペルシア人はまたもサーサーン朝という世界帝国を樹立している。この時代、メソポタミア平原(現イラク)は農業生産力がピークだったと後世から高評価された。それが7世紀以降のイスラム支配に入ると、平原の灌漑設備は破壊され、農業生産力は凋落の一途をたどった。しかし、著者は「地図の上で見る領域の広大さに幻惑されて国家としての実力を過大評価してはならない」と言う。メソポタミア . . . 本文を読む
その①の続き イラン系アーリア人の定住民からは世界帝国を樹立し、東西交易の担い手となる民族も登場する。ペルシア人こそがその民族であり、彼らはアケメネス朝、サーサーン朝と2度に亘り中東に世界帝国を築き上げた。紀元前5世紀の人ヘロドトスの著書にあるペルシア人の文化習慣は興味深い。ペルシア人は古代オリエント世界では新興の民族だったため、先進的な他民族の文化を積極的に取り入れていたという。彼らはギリシア人 . . . 本文を読む
その①、その②の続き 発端はカリフであるアブデュルメジト2世が、自分のイスラム世界における威厳をケマルが尊重してくれないという不満を、インド・ムスリムの地方首長アーガー・ハーン3世宛ての手紙で述べたことだった。ただ、アーガー・ハーンの宗派はニザール派であり、これはシーア派の諸宗派のひとつイスマーイール派の分派に当たる。一般にイスラムの宗派は多数派スンナ派と少数派シーア派に二分されるが、その双方にも . . . 本文を読む
その①、その②、その③、その④の続き 第二の文書は、1918年11月27日、ロンドンで行われた戦時内閣東方委員会の会合を逐語的に報告したものである。座長は枢密院議長を務めるカーゾン卿。委員会はシリアについて論議してから、パレスチナに議題を移そうとした。カーゾンはこう口を切っている。-パレスチナの位置づけはこうなります。もし我々の公約事項を審議するとすればまず第一に、1915年10月に、フサインに与 . . . 本文を読む
その①、その②、その③の続き ファイサルの前では甘言と追従を弄したヴァイツマンだが、英外相バルフォアにはアラブ人について、次のように説明していた。「上っ面は利口で頭の回転は速いが、1つのこと、力と成功―というたった1つのことだけを崇拝している」。そして、「アラブ人の面従腹背的な性質」を強調する。ヴァイツマンはパレスチナでの民主主義体制を望まず、その理由として彼はバルフォア宛ての手紙にこう述べていた . . . 本文を読む
その①、その②の続き1909年夏、パレスチナを訪れたT・E・ロレンス(アラビアのロレンス)は、ガリラヤ湖周辺を見た時の様子を母宛ての手紙に次のように書いている。 -汚れて荒れ果てたベドウィンのテントがあり、住民たちが通過する客に中に入って話をしていくよう呼びかけると、みすぼらしい連中たちが我先にと集まってきました。昔のパレスチナは立派なところで、元通りにしようと思えば簡単に出来るはずです。ユダヤ人 . . . 本文を読む
その①の続き 21世紀になっても解決の兆しすら見えないパレスチナ問題の直接の原因は、全て第一次世界大戦時のイギリスによる三枚舌外交にある。決定的となったのはバルフォア宣言であり、シオニストよる政界工作があったのは書くまでもない。これにはシオニストの大立者ハイム・ヴァイツマンの功績も大きく、優秀な科学者でもあり後に初代イスラエル大統領となった人物である。彼はロンドンでシオニズム思想をイギリス政界に認 . . . 本文を読む