その一、その二、その三の続き 70年代と違い、現地調査の実績も乏しく現地語の能力も怪しい中東研究者なら現代ではまず通用しないだろう。例えば1973年生まれのアラブ研究者・池内恵氏は、それまでの日本のイスラム研究学界の抱える性質を批判、親イスラムの多い学界に衝撃を与えている。とかく封建的で、重鎮の学説に服従を求められる日本の学界に置いて、異色の研究者が出てきたのは喜ばしい。それまで殆ど手放しのイスラ . . . 本文を読む
その一、その二、その三、その四、その五の続き 著者・青木健氏はプロローグでマニ教とはズバリ、「人工の宗教、書物中心の宗教、神話的表象の宗教」と結論付けている。他の宗教の場合、はじめに突出した宗教的求心力を持つ教祖が現れ、その没後には何世代もかけて才能ある信徒により少しずつ教義や教団組織が整備されていくのが常なのだ。 対照的にマニ教はマーニーが存命中に教義と教団組織を完璧に整備、念の入ったことに教典 . . . 本文を読む
その一、その二、その三、その四の続き マニ教の信仰の目標は、閉じ込められた光の要素を人間の肉体及びこの世界から解放することであり、この目的に適う行為は善とされ、反する行為は悪となる。そのための禁忌と徳目を著者は9項目列記、解説している。1.殺生・暴力の禁止 2.自殺の禁止 3.肉食の否定 4.飲酒の否定 5.性交の否定 6.商業以外のあらゆる生産の禁止 7.メロン、キュウリ、ブドウの聖餐 8.賛歌 . . . 本文を読む
その一、その二、その三の続き 242年、2年間のインド訪問からペルシアに帰還したマーニーは再び宣教を開始する。折しもサーサーン朝の明君で第2代皇帝シャープール1世の単独治世が始まった年でもあった。マーニーが己の新興宗教を広めるために取った手段は、権力者への接近である。現世全てを否定、死を美化し、「悪の神が支配するこの世から善の神が創造したあの世への帰還」と捉えていた彼の布教活動は、極めて現世的かつ . . . 本文を読む
その一、その二の続き マーニーはエルカサイ教団でユダヤ教的な祭式儀礼の手ほどきを受けたらしい。CMCによれば、全身を水につける洗礼式やパンとワインを使った聖餐式、聖職者の手仕事などに反対し、教団を飛び出す。これら儀式は彼の精神形成に負の影響も与えたらしく、一旦教団の教義に疑問を抱くようになれば、無意味な束縛でしかない。 後年のマーニーがやたら「闇の世界への捕囚」「光の世界への解放」とのモチーフを多 . . . 本文を読む
その一の続き パルティアの貴族なので、マーニーの父パティークはゾロアスター教を信仰していたかと思いきや、セム系民族の多い都市クテシフォン (現イラク)に移住してから感化されたのか、妻が妊娠中にクテシフォン近郊にある「男だけの洗礼教団」に入信してしまう。さらにこの教団が「肉食・飲酒・性行の禁止」という禁欲主義をとっており、そのためパティークは身重の妻マルヤムを捨ててしまった。 マーニーは誕生後、父不 . . . 本文を読む
『マニ教』(青木健(たかし)著、講談社選書メチエ485)を先日読了した。マニ教と聞いても、今では信者もいないため世界史好きの人でも殆ど知られない宗教となっている。ゾロアスター教をベースに、キリスト教や仏教をチャンポンにした宗教というイメージが漠然とあるが、かつては世界宗教だったのだ。この単行本の飾り帯にはこうある。「キリスト教がもっとも恐れた謎の世界宗教の全貌~世界初の包括的入門書」 さらに本の裏 . . . 本文を読む
その一、その二、その三、その四、その五の続き 第一次世界大戦中、再びアルメニア人虐殺事件が起きる。『宗教と民族』というブログ記事から、又も引用したい。 -次いで、第一次大戦中の1915年(世界の関心が、大戦に向けられている隙に)、より大規模に東部アナトリアからのアルメニア人追放が企てられ、約 175万人のアルメニア人農民家族が、根こそぎ、シリア、イラク方面への強制移住を強いられた。移住・移動中のア . . . 本文を読む
その一、その二、その三、その四の続き クレタ島の反乱は欧米諸国ではあまり関心を引かなかったが、イスタンブル市中での虐殺事件は、「憎むべきアブデュル」への世論喚起運動を再燃させた。当時、欧米人が他にも様々な別名をアブデュルハミト2世に付けている。「大殺人者」「ユルドゥズ(宮殿)の怪物」「血染めのスルタン」… 英国の雑誌「パンチ」誌には1896年1月既に、「呆れてものが言えないトルコ人」 . . . 本文を読む
その一、その二、その三の続き 1896年に入ると、東方問題は急速に複雑な様相を呈してくる。同年1月の第3週、サロニカの英国総領事から外務省には、アルメニア人革命家たちがマケドニアのギリシア人の間に社会的不安を掻き立てているとの情報が確かな証拠付きで送られた。アルメニア人活動家は同胞以外にもバルカンの異民族キリスト教徒とも連帯することもあったようだ。それが一層オスマン帝国のムスリム臣民の敵意を駆り立 . . . 本文を読む