輪廻の沼 3

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カプエス心理学ーその1

2014年11月30日 19時00分24秒 | CAPvs.SNK2
何が変わったか?
勝てない相手に勝てる様になると、
『一瞬、自分が上手くなった様に
錯覚するのはまだまだケツが青い。』

と私は考える様になってきた。
本当の所は、相手が見えてきただけ。

自分が何かに上手くなったりした
訳ではない。相手の次の行動に
追従できる様になっただけである。

強さで比較すればサガット選択で終わり。
強さを超えるのは、人間性能というより
心の性能というものだろう。


例えば前キャンを否定、肯定するのも人の自由だ。20フレ以上の無敵を肯定するんかと思うのも自由だし。

前キャンなんてゲームは今まで無かった。新しい事がしてみたい、と考える人もこのゲームをしてみてもいいし。クソと捉えるのも、人の自由。

あなたの心が、そうだと考えるから
そうなだけである。


あるものを使うだけと言うのも一考だろう。

ただハッキリしているのは、
毎年、深みだけは増している。

前キャン&Aグルという強力な布陣
に対しても対立候補は、
何かしろの対抗策を講じている。
これが毎年の楽しみでもある。

2014年の全国大会を見たけど、
明らかに最初の2001年の全国大会より
レベルは格段に上だろう。

それはRCがあるか否かではなく、
その環境に適応できたか否かである。
RCがある中でも生き抜いてきた人間は
それが無くても明らかに強い。

ヌキ🆚あきた

の動画をご存知だろうか?
当時の最強スタイルで、
尚且つ、前キャンなし&C、Nグル限定
という圧倒的ヌキ有利ルールで
試合を始めたのに


あきた選手の操るCモリガンの
チェーンダークネスが面白い様に決まり
ヌキ本人、信者が悲鳴をあげたのである。
私は、その動画を見てこう思ってしまった。

『おろかな』
と。

ある一流カメラマンが言っていたが、
もし自分の愛用したカメラメーカー
のカメラにダメな点があったとしても
一流なら『ギャーギャー』言わず、
黙って使わない

というモノであったが。

私も全く持って同意見である。
RCがダメだの、オリコンがクソだの
サガットが強すぎるだのは主観である。

環境に適応できない人間の叫びである。
カプエスは弱者に厳しいゲームである。

努力しても勝てそうで勝てないゲームである。
そう、現実社会がそうである様に、
人生の逆転劇っぽいことが
このゲームには凝縮されている。

何か他のゲームにはあるようで
無い物が詰め込まれている。

私がRC否定、オリコン否定する人間に
サガット否定をするのは、

私の本意として
君にはサガットがいるではないか?
である。

RCが嫌いな人間、
オリコンが嫌いな人間の
行き着く先はサガットである。
勝てる勝てないは現実。
やる事は目の前の相手に勝つ事だ。

例えば、当時のアルカディアに
前キャンのせいで飛び道具としての
価値が全く無くなったという記事が
載っていたが、未だに飛び道具の
機能は捨てられていない。

何せ飛び道具でガードクラッシュさせれば、
その後のジャンプ攻撃がフルコンボで
決まるからである。

あるサガット使いは、
これを美しいと言った。

形容詞には、主観が込められている。
カプエス実況をするなら、

1番気を遣うのは、
この形容詞の
取り扱いである。

形容詞の取り扱いミスは、
観る者に不快感を与えたりする。
動詞の取り扱いミスは、
滑ったパターンで済むが
形容詞の取り扱いミスは、
なかなか難しい。


強い下デヨ、上デヨ、ジャンプ強K
めくり小K、立ちコパ
で、適当にガードクラッシュ値を削り
最後は、下タイガーでガークラして
ジャンプ攻撃からフルコンボを決めることを美しいと言った。

その人間の深層心理にあるのは
ナルシズムである。
自分を美しいという
人間の心の底にあるのは、
他者は醜いである。

サガットが全国大会で結果を出したカプエス最初の年に、Kギースを使っていたが。何も好き好んでKギースを使っていた訳じゃない。

ただ環境が許さなかったからだ。

最初に使っていたのがCギース。
そして、サガットという最大の害キャラ
が登場したことで、Kギースを使う。
それ以外の選択が許されなかった。
環境がそうであった様に。

似たような事が人生にも言える。

親が認めない人以外は結婚できない家庭もあるだろう。
そういう家庭に生まれた事に強く反発しても、社会的な制裁は個人の力を遥かに凌ぐものだ。

公式掲示板で、前キャン否定肯定を始めても前キャンはなくならない。そういう環境はなくならない。

それに主観を盛り込むのは、去るものがすることではない。主観は時として人の行動を縛る。主観は時として人の行動原理にもなる。

しかし、主観は主観であり現実ではない。

サガット対RC対抗馬

の終わりなきチェスゲームはこれからも続いていくんだろう。

ただ、主観と現実は違う。

自分は自分であり、他者は他者である。
それさえも見失うのは、他者の感情に
操られて現実を見失うのと同意である。

闘劇で結果が出せなかったプレイヤーが、このゲームを辞める時に、『RCがいかに糞か』を自分が負けた感情を隠蔽するがごとくブチまけた。

不幸なのは、そこに残されたプレイヤーである。その恨み、憎しみが人に転移する。

あるのはRCがあるという現実ではない。
あるのはRCのせいで負けたという
そのプレイヤーの過去である。

環境に適応できたものだけが、
このゲームを続けている。
それが現実ではなかろうか。

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