面白く、そして下らない

私は批判をして何かを為した気になっている大衆の一人に過ぎないが、何か少しでも波紋を起こす小石になれればと書いている。

元寇に関する二つの疑問

2012-11-09 23:15:41 | 政治
元寇について常々疑問に思っていたことがあった。それは鎌倉武士が蒙古に対し一騎打ちを仕掛けたということと、戦争後の恩賞がなくそれを不満に思った御家人の支持を失い鎌倉幕府が倒れたということだ。

~~引用ここから~~
保元の乱
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
(略)
夜襲
7月11日未明、清盛率いる300余騎が二条大路を、義朝率いる200余騎が大炊御門大路を、義康率いる100余騎が近衛大路を東に向かい、寅の刻(午前4時頃)に上皇方との戦闘の火蓋が切られた。後白河天皇は神鏡剣璽とともに高松殿の隣にある東三条殿に移り、源頼盛が数百の兵で周囲を固めた。

戦闘の具体的な様子は『保元物語』に頼るしかないが、上皇方は源為朝が得意の強弓で獅子奮迅の活躍を見せ、清盛軍は有力郎等の藤原忠直・山田是行が犠牲となり、義朝軍も50名を超える死傷者を出して撤退を余儀なくされる。為朝の強弓は後年、負傷した大庭景義が「我が朝無双の弓矢の達者なり」(『吾妻鏡』建久2年(1191年)8月1条)と賞賛しており、事実であったことが分かる。なお『保元物語』には白河北殿の門での激闘が記されているが、実際には鴨川を挟んでの一進一退の攻防だったと推測される。

攻めあぐねた天皇方は新手の軍勢として頼政・重成・信兼を投入するとともに、義朝の献策を入れて白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。辰の刻(午前8時頃)に火が白河北殿に燃え移って上皇方は総崩れとなり、崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらました。天皇方は残敵掃討のため法勝寺を捜索するとともに、為義の円覚寺の住居を焼き払う。後白河天皇は戦勝の知らせを聞くと高松殿に還御し、午の刻(午後0時頃)には清盛・義朝も帰参して戦闘は終結した。頼長の敗北を知った忠実は、宇治から南都へ逃亡した。
(略)

~~引用ここまで~~

保元の乱は1156年。元寇、文永の役は1274年である。上皇方を攻撃するのに「夜襲」という手段を使っている武士が、「侵略軍」である蒙古軍に一騎打ちなど挑むだろうか。

~~引用ここから~~
元寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
(略)
軍事面
かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎打ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。また元軍は『八幡愚童訓』によれば毒矢・てつはう(鉄火砲)など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われていた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、実際は日本側も集団戦術を取っていたと考えられている。

集団戦法・一騎打ち
『八幡愚童訓』に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎打ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、『八幡愚童訓』は後世に記された宗教書であり、八幡神の神徳によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある。一騎討ちに関しても、『蒙古襲来絵詞』絵五に描かれているように日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、また、平安後期から鎌倉時代にかけて武士に関する文献で一騎打ちの記述があるのは、『今昔物語集』の源充と平良文との騎射による一騎打ちの場面と『前九年合戦絵巻』の一騎打ち直前の絵のみである。このように、特別な場合を除いて一騎打ちは行われておらず、一騎打ちは日本の武士の通常の戦闘方法ではない。

また、元朝の官吏・王は、武士の特徴をその記事『汎海小録』において「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。

『元史』においても、日本の特性について「日本は土地が広く人も多い。日本に上陸した場合、彼の兵(日本兵)は四方より集まり、我が軍(元軍)は孤立無援になる」とあり、一騎打ち戦法ではなく、上陸した元軍に日本軍が集団で襲い掛かることに、元朝政府が警戒している様子が記されている。

てつはう
正式には震天雷や鉄火砲(てっかほう)と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20cm、総重量は4~10kg(約60%が容器の重量、残りが火薬)ある。

2001年、鷹島海底から「てつはう」の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 山形欣哉氏によると、「てつはう」の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、「てつはう」は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばす事ができず、射程の長い長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。

「てつはう」をより遠くに飛ばす手段として、投石機がある。しかし、山形欣哉氏は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、「砲」と呼ばれる投石機は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人(1人は指揮官)も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても「てつはう」が有効に機能したとは考えられず、投石器目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている。
(略)

~~引用ここまで~~

実際ウィキペディアの記述も、一騎打ちを挑んだなどと書かれていない。一騎打ちを挑んだなど正直考えづらい。「一騎打ち」で挑んだことはなく、集団戦法で闘ったと考えるのが妥当だろう。

ではもう一つ「鎌倉幕府滅亡の原因となった」の方はどうだろうか。

~~引用ここから~~
元寇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
(略)
日本側の状況と影響

文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にした。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。

弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、全国から九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。

貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。
(略)

~~引用ここまで~~

確かに元寇が鎌倉幕府滅亡の遠因の一つと書かれている。しかしそれは「自衛戦争」で恩賞が十分に与えられなかったからだとは思わない。
二度目の元寇、弘安の役も1281年であり、鎌倉幕府が滅亡したとされる年は1333年だ。50年以上開きがある。恩賞がなかった不満が溜まったにしては爆発するのが遅すぎる。

徳政令により、借金の棒引きをされているのだから、最悪収支はトントンのはずで、持ち出しもあるか、困窮したとは思えない。貨幣経済の浸透と「悪党」の活発化が滅亡の原因の一つであろうが、元寇が原因とは言えないはずだ。「遠因」というのも弱いように思われる。

そもそも戦時体制ということで西国に対しても支配を強め、当時世界最強の元を退けた鎌倉幕府が、困窮した御家人に倒される?
少々不自然ではないか。

後世の人間が「こうに違いない」と結論ありきで考えた結果ではないか。

以上では根拠としては弱いかもしれないが、「自衛戦争で恩賞がもらえなかったから体制が倒されたわけではない」、とするには十分だと考える。

元寇で一騎打ちはなく、また自衛戦争に勝利したのに恩賞がなかったから体制が倒れたのは間違いだと確信する。

(参考サイト)
三輪のレッドアラード
教科書に書かれている反日
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-802.html

同日23時15分カテゴリ修正。

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