アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

11/1 リッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団京都公演

2009-11-02 16:04:00 | 演奏会評
さすがに連夜の演奏会に運ぶのは穏やかなことではない。先のN響のようないい加減な演奏もあるが、聴き手の襟を正さずにはおかない熱演の前には、尚更のことである。しかしまたそれは、とても心地好い充足感でもある。今回の演奏会は、まさにそうした一夕となった。マチネーにしなかったのも、シャイーの気概を現したものであったろう。

初めに告白しておくならば、私はシャイーという指揮者を好きではなかった。コンセルトヘボウの、「あの響き」をまるで変えてしまったイタリー人の指揮者-そうしてまた、微に入り細に穿ったアプローチも、私には煩わしいものであった。きっと彼はまた、ライプツィヒのこの古いオーケストラの響きも、すっかり変えてしまうのだろうと思っていたのである。

確かに彼は、またしてもオーケストラを自分好みのそれに変えてしまっていた。そのことの是非は、別に問いたいところではあるが、それが全く不満とならないほどの素晴らしい演奏会となった。

まずモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番。独奏は、アラベラ・美歩・シュタインバッハーという若い女流である。私はこの人のことを皆目知らないのだが、これからが楽しみな才能と思われた。線は太くないが、とても美しい音色、高音に至っても実にしなやかに響く。艶やかというよりは、もっと清廉な印象である。曲想にそれが、とても合っている。
シャイーの指揮は、冒頭の極端な強弱や間合いなどは些か過剰であったが、明るく爽快な響きが持ち味である。シャープでありながら、とても柔らかな風合いと言ったらいいだろうか。第2楽章が、とてもよかった。ピッツィカートひとつにも、表情がある。優しい気持ちにさせられる、そういうモーツァルト。

マーラーは、作曲者の細かい指示を更に上回る、濃厚な表情を初めからおしまいまで聴かせた。シャイーの執拗なまでの要求に、完璧に応えていくオーケストラ。この緊張感は、なかなか聴けるものではないし、かかる刺激的な関係が、名オーケストラを次々と渡り歩くシャイーの手腕であるのだろう。とにかく惰性というところが皆無の演奏であり、それでいて煩わしさを感じなかった。

冒頭の「カッコウ」の甲高い強調に始まるそれを、一々指摘するつもりは無いが、白眉は終楽章である。あの胸の詰まるような弦のメロディーから、金管の阿鼻叫喚まで、指揮者とオーケストラが一体となって描き出す。殆ど忘我の境地で、私は聴かずにはいられなかった。それでいて、シャイーはバランス感覚を少しも失わず、各パートが実に精緻に鳴り切っているのである。

夏のティルソン・トーマスとPMFに続いて、忘れ得ぬマーラー演奏を聴くことが出来た。久しぶりに、根底を揺さぶられる音楽体験であった。

10/31 プレヴィン/NHK交響楽団京都公演

2009-11-02 14:23:55 | Weblog
今年N響の首席客演指揮者に就任したプレヴィンが、京都へ来た。私事ながら、週末3日、全日コンサートホールに運んだ中日である。

プレヴィンは、2年前だったか、前回の来日の折、東京へ出向いてラフマニノフを聴いた。上半身が随分肥えて、指揮台の行き来がやっとという有様で、随分老けたという印象が強く、もう来日は最後かなどと思ったものだった。

今回は、立ち居は危なっかしさを増して、音楽自体もいよいよ老いたということを痛感せずにはいられなかった。

曲目は、モーツァルトの38・39・40番。往時のスウィトナーを思い出させる選曲である。アプローチは極めて温雅な、フレーズの終わりを弱めるなど昔風のものである。私はこういうモーツァルトで育ったし、こういうモーツァルトが好きである。
ただ今回はテンポばかり遅く、音楽がまるで生き生きした表情を持たない。リズムに弾力が無い。それでいて、リピートをすべて実行するのだから、すっかり退屈してしまった。確かに管楽器のバランスなど、いくらか面白いところもあったが、これを中庸などと言うのは、あまりに過大な評価という思いがする。

プレヴィンの老化はともかく、N響のぞんざいな演奏に私は不快感を覚える。指揮にはよく従っていたが、決して「献身的」ではない。切り詰められた編成であるのに、vnを中心に甚だ雑なアンサンブルを聴かせる。ホルンのピッチも不安定である。ティンパニの打ち込みは、突出して安っぽい。
まるでプロ意識に欠けた、言葉を選ばないならば、手抜きの演奏であった。

このオーケストラの根本的な問題を目の当たりにした。プレヴィンも、晩節を汚さぬほうがよい。