アルチューハイマー芸術エッセィ集

音楽批評を中心に日々見聞した芸術関係のエッセィを、気が向いた時に執筆してゆきます。

ノートNr. 1マーラーは美しいか

2009-10-11 01:42:27 | ノート
「ノート」では、ふとした思いつき、まだ論としてまとめられない今後の課題を、いわば備忘録的に記すことにします。
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久しぶりに、亡くなった若杉さんの指揮したマーラーを聴いた。東京都交響楽団を指揮したチクルスのうち、9番と10番のアダージョを収めたもの。私は、このシリーズは、これしか持っていない。現在は廃盤で、追悼企画のような再発もないと聞いた。

これは、初めて聴いた時からとても素晴らしいと思った。最晩年にN響を指揮した9番を、以前テレビで見たけれども、これはあまりに穏やか過ぎる演奏で、感心しなかった。
けれどもこの録音では、そういう若杉さんの中庸をゆくバランス感覚と、何か鬼気迫る緊張感とが調和している。

今日はまず、10番を聴いた。マーラーを些か専門的に取り組んでいるが、この曲は滅多に聴かない。どこかステレオタイプ的な感覚を、捨てきれずにいる、と言ったら十分だろうか。

ただ、今日は痛切に私の心に訴えかけるのである。9番で生と死との間で葛藤し、最後には浄福されていったマーラーが、ここではもう、過去を振り返っている。美しい思い出として。

若杉さんは、この長い一楽章に散りばめられたたくさんのモメントを、実に丁寧に、精緻に捌いてゆく。それでいて、それは少しも機械的なところがない。そうして、あの印象的な第一主題を、美麗に歌い上げて、しかも過度に耽溺することはしないのである。

あまりに美しい曲の、美しい演奏だ。やがて9番の終楽章を聴き終えて、そう嘆息するしかない、名演奏。と同時に、私の頭をかすめた言葉。

マーラーの音楽は美しいのか?

これは主に緩徐楽章を指して言うのだが、私は本当に美しい旋律を、マーラーは書いた人と思ってきた。あんなに苦しみ悶えた人が、確かに甘美な旋律を書いた。けれども、本当にあれは、美しいのだろうか?

美しいとは?というきわめて根源的なところに立ち返らねばなるまいが、恋い焦がれるように、甘く美しく歌い上げて、いいのだろうか?

マーラーは、例えばあのアダージェットを、6番のアンダンテを、それに3番の終楽章を書いた時、どんな思いでいたのか。つかの間の解放であったのか、やはり闘いは続いていたのか?

私はマーラーの音楽は、最終的にいつも肯定に終わると信じてきたが、本当にそうだったのか?最後までNeinの叫びをやめはしなかったのだろうか?

若杉さんの、あまりに美しい響きを聴きながら、却って不安になり始めたのが、この思考の発端なのである。


読者諸賢は、どう思いますか?