こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
中山道鳥居峠(とりいとうげ)を取り上げてみたいと思います
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、
長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高 1,197m
新鳥居トンネルを木祖村藪原方面に抜けて
明治新道を歴史ある鳥居峠へ向かいます
ナビ地図では林道が途中で行き止りとなっていましたが、
古の明治新道が鳥居峠迄伸びているように思え
弟の運転で悪路をひたすら先に進む事にしました(弟は度胸が座っています)
古の車道を200m進むと中山道遊歩道が交差
中山道の古道が見えます 中山道石の道標
この先は中山道遊歩道
鳥居峠とありますが残り1.4km先に本当の鳥居峠があるようです
鳥居峠について記されている案内板周辺
鳥居峠付近まで来ました
路面が至る所で凍結している箇所がありました
1890年(明治23年)の長野県による七道開削事業により初めて
車道として開通した明治新道(馬車が通れる道)
この先は奈良井宿までつながっているようです
古の中山道道標
鳥居峠は右上にあるようです
弟が鳥居峠の場所を探してくれました
中山道遊歩道の案内先に
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑があるようです
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめることを意味しています
古の中山道が残っています
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑の先に鳥居峠
標高 1,197m
鳥居峠
713年(和銅6年)、美濃国と信濃国の境で
東山道の神坂峠(岐阜県中津川市・長野県阿智村)が
危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが
「岐蘇(吉蘇)木曽路」である
吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた
木曾谷地方の信濃国編入以前は、
峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(信濃川水系)と、
西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との
中央分水嶺と境峠(長野県道26号奈川木祖線)
・木曽峠・清内路峠・鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた
平安時代後期、以仁王の令旨を受けた
源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、
八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)
御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り
「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
奈良井宿側より眺める鳥居峠
「鳥居峠の合戦」は伝承が非常に多く
一度の合戦では無理があるので、
ここでは西筑摩郡史・岐蘇古今沿革志等の二度の合戦にて追記する
1549年(天文18年)4月、甘利左衛門を大将とする
武田晴信(後の武田信玄)の軍勢と木曽義康の軍が鳥居峠で衝突
武田軍は敗れ、兵を引く
1555年(天文24年)3月、武田晴信は本隊を分け、
一隊は鳥居峠、もう一隊は奈良井川支流の陣ヶ沢、
別動隊を萩曽(現在の木祖村小木曽)とする3隊で木曽軍を攻める
木曽義康は鳥居峠を下り敗走し、
小沢川の合戦、王滝城(崩越城・鞍馬城)の合戦に負け、
篭城の末に武田の軍門に下る
鳥居峠(とりいとうげ)より奈良井宿方面の峠道を眺める
松尾芭蕉は貞享元年の野ざらし紀行と
元祿元年の更科紀行の2度、鳥居峠を越え、
「木曽の栃浮き世の人の土産かな」、
「雲雀よりうえにさすらふ嶺かな」の句を残した
鳥居峠付近より眺める御嶽山方面の山並
最後まで御覧頂きありがとうございます
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ
中山道鳥居峠(とりいとうげ)を取り上げてみたいと思います
中山道幾多の戦場の舞台となった鳥居峠
鳥居峠(とりいとうげ)は、
長野県の塩尻市奈良井と木曽郡木祖村藪原を結ぶ峠
標高 1,197m
新鳥居トンネルを木祖村藪原方面に抜けて
明治新道を歴史ある鳥居峠へ向かいます
ナビ地図では林道が途中で行き止りとなっていましたが、
古の明治新道が鳥居峠迄伸びているように思え
弟の運転で悪路をひたすら先に進む事にしました(弟は度胸が座っています)
古の車道を200m進むと中山道遊歩道が交差
中山道の古道が見えます 中山道石の道標
この先は中山道遊歩道
鳥居峠とありますが残り1.4km先に本当の鳥居峠があるようです
鳥居峠について記されている案内板周辺
鳥居峠付近まで来ました
路面が至る所で凍結している箇所がありました
1890年(明治23年)の長野県による七道開削事業により初めて
車道として開通した明治新道(馬車が通れる道)
この先は奈良井宿までつながっているようです
古の中山道道標
鳥居峠は右上にあるようです
弟が鳥居峠の場所を探してくれました
中山道遊歩道の案内先に
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑があるようです
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑
天子が行幸の途中、一時乗り物をとめることを意味しています
古の中山道が残っています
明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)の碑の先に鳥居峠
標高 1,197m
鳥居峠
713年(和銅6年)、美濃国と信濃国の境で
東山道の神坂峠(岐阜県中津川市・長野県阿智村)が
危険な為に新たな官道として12年の歳月を掛けて開削されたのが
「岐蘇(吉蘇)木曽路」である
吉蘇路(きそじ)の鳥居峠は、かつて「県坂」(あがたざか)と呼ばれていた
木曾谷地方の信濃国編入以前は、
峠の東側を北に向かって流れる奈良井川(信濃川水系)と、
西側を南に向かって流れる木曽川(木曽川水系)との
中央分水嶺と境峠(長野県道26号奈川木祖線)
・木曽峠・清内路峠・鉢盛峠が信濃国と美濃国の国境であった
中世には「ならい坂」「やぶはら坂」と呼ばれた
美濃国と信濃国の国境に位置しているので、
中世には戦いが何度も行われた
平安時代後期、以仁王の令旨を受けた
源義仲(木曽義仲)は平家追討の旗揚げをし、
八幡宮にて挙兵の奉納をした後、県坂(現在の鳥居峠)
御嶽遥拝所に参拝し、大夫房覚明に執筆させて
ここより出陣をしたとされる 硯水の傍に柳の木があり、
義仲は枝を折り
「我が事ならば、この柳に根を生じて繁茂するであろうと立ち去った」とされ、
この柳はその後見事に根付き、成長したという伝説が残っている
渓斎英泉の浮世絵「木曽街道 薮原宿 鳥居峠」の絵には、
木曽義仲の硯清水の碑と湧き水が描かれている
木曾義元が戦勝祈願のため、峠に鳥居を建てて以来、
鳥居峠と呼ばれるようになったといわれている
奈良井宿側より眺める鳥居峠
「鳥居峠の合戦」は伝承が非常に多く
一度の合戦では無理があるので、
ここでは西筑摩郡史・岐蘇古今沿革志等の二度の合戦にて追記する
1549年(天文18年)4月、甘利左衛門を大将とする
武田晴信(後の武田信玄)の軍勢と木曽義康の軍が鳥居峠で衝突
武田軍は敗れ、兵を引く
1555年(天文24年)3月、武田晴信は本隊を分け、
一隊は鳥居峠、もう一隊は奈良井川支流の陣ヶ沢、
別動隊を萩曽(現在の木祖村小木曽)とする3隊で木曽軍を攻める
木曽義康は鳥居峠を下り敗走し、
小沢川の合戦、王滝城(崩越城・鞍馬城)の合戦に負け、
篭城の末に武田の軍門に下る
鳥居峠(とりいとうげ)より奈良井宿方面の峠道を眺める
松尾芭蕉は貞享元年の野ざらし紀行と
元祿元年の更科紀行の2度、鳥居峠を越え、
「木曽の栃浮き世の人の土産かな」、
「雲雀よりうえにさすらふ嶺かな」の句を残した
鳥居峠付近より眺める御嶽山方面の山並
最後まで御覧頂きありがとうございます
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