「電車男」見てきた

2005-06-25 20:12:19 | Weblog
 遅ればせながら、映画「電車男」などを見にいった。
まあ、だいだいの筋書きを知った時点で、たぶん泣く
だろうなァ、と思った。案の定であった。

 「泣ける映画」や「泣ける小説」てのは、監督やライタ
ーの技量によるところが大きいのはもちろんだが、それ
以上に、ストーリーによるところが大きい。いまだに「純
愛」と「難病」がセットになってる映画が多いのがその証
拠。「身近な人間が死を迎え、しかも俺を恨まず、ただ
ただ感謝してくれたらどうしよう」 この場面をうまく想像
させることができれば、たいていの人間は大泣きするだ
ろう。

 ネットに肩までつかって数年たった人間、しかも、他人
に虚勢をはる必要があまりない、どっから見ても敗残者た
る「出世街道ドロップアウト」の中年脂ハゲにとって、「どこ
ぞの馬の骨ともわからない有象無象の書き込みに、善意
をもって励まされる」というのは、涙腺のツボを思いっきり
突いてくるストーリーであった。

 実際、思い切り煮詰まっていた一時期、この手の匿名
掲示板で励まされ、就業時間中会社のパソのディスプレ
ー見ながら、思わず涙ぐんだことも一度ならずある。客観
的に見ればかなりキショい風景だろうが、ああいう時は恥
も外聞もあまり考えないのだ。

 ネットの板といえば悪意ばかりが問題視されていた時期
もあったが、この「電車男」現象によってなにかが変化する
のだろうか。あの手の「善意」は、ちょっとしたことで180度
転換して「悪意」に早替わりする、というのもまた事実だ。
映画では幾人、幾十人、幾百人もの人間が「電車がんばれ
ー!!」と応援していたが、あれが悪意の先導で「氏ねっ!」
にいっせいに変化することもありうるのだ。

 「善意」だからといって全面的に依存するのも誤りだし、「悪
意」だからといって100%排除するのもまた間違い、というこ
となのであろう。「薬は使い方で毒にもなる。その逆もまた可」
使い古された言い回しであるが、ネットを表現するにこれ以上
の比喩はないのかもしれない。

 さて、また今夜も肩までネットの海につかることにする。夜は
まだ長い。