Moritarei2000の美術探訪

美術(絵画、工芸品)と美術館に関する探訪を主体に、
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エル・グレコの聖ヨハネの幻視

2017年02月15日 | 絵画

福音書記者聖ヨハネの幻視   エル・グレコ

  

 印象

 非常に印象的な絵で、一見して、エル・グレコの絵とわかる。大胆な色の使い方、遠近法と身体比率を超越した画面構成、躍動感のある人物、そこには、リズムと、願いの成就を願う熱意が感じられる。

 

背景

エル・グレコは1541年にクレタ島で生まれ、1567年に、ヴェネチアにわたり、ルネッサンス期のヴェネチア派の巨匠ティツアーノに学ぶ。1570年にローマに移りミケランジェロなどの作品を学ぶ。1576年にスペインにわたり、スペイン・カソリックの本山であるトレドで宗教画家として活躍する。この作品は彼の死の前の、1610年ごろに制作された最晩年の作品である。

政治的に見れば、当時ヴェネチア領であったクレタ島は、ギリシャ正教とカソリックの衝突があり、オスマン帝国の圧力を受けていた。このような状況下で宗主国のヴェネチアに移住するのは自然な流れかもしれない。スペインは、ハプスブルグ家のもと神聖ローマ帝国の一部であり、海外植民地経営により、莫大な富を得ていた。プロテスタントとの宗教戦争ともいえるオランダ独立、スペイン無敵艦隊の敗北などで衰退に向かいつつあるとはいえ、依然として、カソリックと美術の中心であり、芸術家の憧れの地であった。

社会的に見れば、ルッターの宗教改革に対する対抗宗教改革のさなかであり、まだ、魔女裁判が実際に行われていた時代である。さらに、黒死病は14世紀の大流行から比べると、小康を得ているとはいえ、依然大きな脅威であった。

一方、私的に見れば、フィリペ2世に、その個性の強い絵が着哀れ、宮廷画家になることができず、

更に、借金に苦しみ不遇な晩年を過ごしたといわれている。この絵はその最晩年に書かれたものである。

 

 

様式

 異常に引き延ばされた聖ヨハネの体、遠近法を無視したような蘇った殉教者たちの作る空間、自然の色を離れた大地と空、原色の山、短縮法を使用した天使など、マニエリスムのひとつの典型である。

 画面構成は、黄色を背景とした白い肉体の男女3人が特に目立つ印象を受ける。これは、ルネッサンスのヴェネチア派の技法を使っている。 光が中央上面より当たっているように見えるが、必ずしも統一されていない。イマジネーションを重要視するティツアーノの手法を発展させたものである。

 画面構成は動きがあり、ミュージカルの舞台を見るようであり、バロック的なものを予感させる。

 

図像(イコノグラフィー)

この絵は、聖ヨハネの黙示録の第5の封印が解かれた時である。キリスト教の宗教画は、最後の審判を除けば、大部分は過去に起こったことをとりあげていて、図像的(イコノグラフ)に、約束事が多い。しかし、この画題はほとんど書かれたことがなく、そのため、この制約が少ない。即ち、自由に絵を描ける可能性が高い。

クレタ島でイコンを学んでいたという目で、使用されている色を見てみると、聖ヨハネの青い服と赤い布は、聖母マリアの象徴の色である。マリア信仰の強かったスペインで、聖ヨハネにこの色を使っているのは、画家の心象が、宗教画の伝統から自由でないためか、色そのものの持つ意味が心象として画家自身のものとなっていたためと推定される。さらに、ギリシャ正教のイコンからは、正義を示す白い布、自然を示す緑の布、聖女マグダナのマリア(正教とカソリックでは評価が一致しない)の服の色ともいわれる黄色、さらに、大地と流転を示す茶色などがそれぞれの意味を持ちながら使われている。



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