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Moritarei2000の美術探訪

美術(絵画、工芸品)と美術館に関する探訪を主体に、
芸術に関する個人的な考えも発信する。

中国の美術史概観

2018年08月04日 | 美術論

1 始めに
 中国の美術史を、王朝の区分に従い8つの時代に分ける。それぞれの時代の特色を一言で纏める。
  
2 先史時代から前/後漢 
 造形技術の確立期。
 金属加工の蝋型鋳造法・彫金・象眼、陶芸の高温焼成・釉薬、漆器の技法等が確立した。書道では紙の発明と筆の進歩があった。絵画も発展を見たが、現存する作品は少ない。また、仏教がインドから伝わり仏教美術も生まれた。
 青銅器で曾候乙墓の編鐘は大きさと精巧さで類を見ず、青銅器の完成形である。

3 三国・南北時代
 芸術の芽生え。
 技法の確立と社会の生産性が高まりによる貴族層の誕生を遠因とし、作者を特定できる作品が生まれた。絵画の顧愷之と書の王義之は、芸術性を確立した。
 王義之には臨模本しかないが、現在も書の手本である。

4 唐
 各分野の芸術が花咲く。
 大唐帝国と呼ばれ、世界帝国としの繁栄、農業・商工業の隆盛による貴族以外の富裕層の出現、西アジアを中心とする胡人との交流、仏教の繁栄などがこれに貢献した。。
 仏教美術は成熟期を迎え、仏像、仏画に傑作が多い。絵画では山水画が評価を受け、書は個性を主張する書道家が生まれた。工芸品は精巧になり、唐三彩、金属工芸品、漆器に傑作が多い。
 明器である唐三彩には写実性の高い作品が多い。
 
5 五代・北宋
 古典として規範となる作品が多く誕生。
 唐滅亡後の混乱の後、宋が中国を統一した。この間に貴族層は没落し、封建地主層が力を持ち、科挙による士大夫が芸術の主要な担い手となった。仏教美術は爛熟期で、仏像は写実的となり、石窟寺院も多く営まれた。墨による自然主義の山水画が確立した。中国を代表する青磁・白磁が作られた。
 郭煕「早春」に、山水画の様式や手法の確立を見ることができる。

6 南宋
 多様な様式の饗宴。
 北宋を受け継いだ南宋では華南の特色を取り入れ、宮廷用の画院や官窯が充実し、地主・裕福階級、士大夫、僧侶なども芸術を担った。陶磁器は、輸出品としても繁栄し、名品も多い。絵画も同様である。
 建窯の窯変天目碗は、日本にしか残っていない銘品であるが、何万という碗を作っていた中で奇跡的にできた銘品である。

7 元
 復古主義の時代。
 異民族支配時代で、前の時代に芸術を担った人々は低く見られた。文人画家の台頭が特記されるが、見るべきものは少ない。
 黄公望の富春山居図などがある。

8 明
 日本に影響を与えた唐、宋と同じく、芸術が花開。
 明は経済的に豊かな華南から興り、この豊かさにより、芸術が市民階級にまで及んだ。科挙に伴い朱子学が盛隆を極めた。文人画と陶磁器は宮廷の保護も厚かった。
 絵画では「明の4大家」、陶磁器では景徳鎮が有名で、五彩穿花龍文大盤は爛熟の美を持つ。

9 清
 伝統美術の終焉。
 明の美術を引き継ぎ、後半には西洋の影響もある。絵画に輝きを見せ、次の時代を予感させるが、異民族の王朝の衰退と共に美術は衰えた。
 郎世寧の松鶴図の写実、琺瑯彩西洋人物図瓶の琺瑯技法に、西洋の影響が濃い。
 


興福寺阿修羅像

2018年08月04日 | 美術論

 

1) 印象


 興福寺国宝館で本像を見た時、空がないと嘆く智恵子を見た。愁いを持ちながらも、きりりと未来を見つめる若い女性を感じた。極彩色の像が、時の作用(色褪せ)で精神性を得て、嘆きと祈りを具現化している。

2) 時代的背景
 仏教は鎮護国家の色合いが濃く、藤原氏に権力があり、興福寺は莫大な費用をかて、準国家的事業として営まれた。

3) 技術・技能的側面
 脱活乾漆像で、この技術は東晋に始まり、7世紀に唐から伝えられた(朝鮮では10世紀に始めての作例)。この技術の特色は、手間と費用が掛かるが、細かい細工が可能な点である。この技法の像の大部分は日本にしか残っていない。
 仏像の和様化に伴い写実主義が完成した奈良時代前期(8世紀)に作られた。

4) 鑑賞
 仏像が女性ということはあり得ないが、本像が光明皇后御願いにより作られ、皇后が深く仏教に帰依されていたことを考えると、仏師が皇后に似させたのではないか。阿修羅がペルシャでは光明の神であったのは、光明皇后の名と一致するのは偶然か。 男との言い訳で、小さな髭を書いたのではないか。
 古色に落ち着いた像は、精神性を帯び、天平のロマンと写実が蘇り、男女の別を超越し、現代女性の憂いを感じさせる。




縄文火炎型土器

2018年08月04日 | 陶芸


1 時代的背景
 火焔型土器は、5000年前頃(縄文中期)、信濃川流域に出現し、僅か500年で突然姿を消した。出現時は縄文海進が終わり、現在とほぼ同じ気候になり、消滅時は寒冷化が進んだ時である。
 遺跡数が最大に達した時(生活に余裕ができる)に出現し、遺跡数の減少(生活の困窮化)と共に消滅している。

2 技術的側面
 本土器の粘土は現在と大差なく、竪穴・横穴窯で十分に焼ける。即ち、縄文土器の歴史から見て、造形に手間はかかるが、少しの訓練で、誰でも制作可能といえる。
 ほぼ突然、信濃川流域のみで、独自に発展したものである。

3 鑑賞
 造形芸術品は単体でも素晴らしいが、その背景等の付加価値により、更に想像を膨らませる。

 自然の豊かさに依存し、アニミズム的に神・精霊を畏れる生活であった。畏れは写実的な
土偶がないことで暗示される。
 食物は豊富になり、越冬は怖くない。雪深い地域で、冬に時間的な余裕が生まれた。薄暗い竪穴住居で、春の来るのを祈りながら、土器を作る。春に、動植物が生まれ出るように、また、料理に重要な火に感謝しながら、その思いを日常使う土器に飾り付けていく。望みが叶うよう隙間なく模様で埋める。しかし写実的なものは憚れる。
 この呪術的な祈りが、現代日本の心の奥の「万物みな仏」、「縁起担ぎ」に繋がり、我々の心を動かす。