Moritareiko2000の美術探訪

美術(絵画、工芸品)と美術館に関する探訪を主体に、
芸術に関する個人的な考えも発信する。

60年代の映像アヴァンガルド

2018年11月19日 | 美術館

60年代映像アヴァンガルドとは何だったのか

 

1 始めに

 ここでは、1960から1970年代の松本俊夫を中心に、当時の前衛が如何に敗れ、現在の不安と共存する繁栄の時代に、どのように生き延びているのかを、技術の進歩と社会の変化を考えて再評価する。 

この50年を振り返って、社会の変化と技術の進歩が、アヴァンガルドの精神、美学を打ち砕いてきているからである。 

UTuberの時代から振り返ると、如何に幼いことを前衛として自己満足していたのかと当時のアヴァンガルドにたずさわった人間は自己批判が必要である。しかし、21世紀に入って、このような動きは見られない。

 

2 社会の変化

2-1 共産主義の破綻

 共産主義への夢が、幻想と判明し、先進国における反対体制は、持てる者の自己満足にすぎないことが分かった。

 2-2 弁証法から妥協へ

 先進国の労働者を含め持てる者は、新地平線より、現状の改善を好むため、弁証法的論理に興味を失った。 

2-3 物質より精神へ

 持てる者は、物質に対する執着より、精神性へ、貧しいものは宗教にすがるということで、疑似的満足を得ようとする。脱イデオロギーが定着した。 

2-4 いかれる若者の減少

 この理由は、管理社会が完成したためと推定される。60年代と比べると、如何に、現在の社会が、今と将来の可能性を管理することで、若者の未来と可能性への夢を奪っていることは明白である。このため。若者はおとなしくなっている。

 

3 映像の技術的側面

3-1 デジタル化

ヴィデオテープがもはや存在を失い、映像の加工可能性が人間の想像よりも先に行く時代に、60年代のデジタル技術は何ら感動をもたらさない。この様な現代から見ると、60年代の映像加工技術は滑稽である。 

3-2 モンタージュ、映像論

 松本俊夫、あるいはそれ以前の映像作家が主張したモンタージュや、映像技術は。破棄されつつあるマルクス的弁証法によるところが多く力を失った。 

3-3 エリート意識

 U-Tuberが画像を種々制作する時代から見ると、60年代の映像作家には選民意識がプンプンとしていて嫌味である。 

 

4 松本俊夫への批判

4-1 主体客体論

 芸術は主体論に基づくものでなく、普遍性に基づくべきである。 

4-2 技術的無知

 60年代はコンプーター技術として、アセンブラー、フォートラン、コボルと劇的に変化している時代であったが、その認識、技術の変革への認識がなかった。 

4-3 古い映像論への過度のこだわり

 モンタージュ論に対抗しようとして、その足かせの中でもがくだけで、新しい創造がない。特に、「薔薇の葬列」などを見ると、そのカット割りの異常さに驚く。 

 

5 松本俊夫へのレクイエム

 一時期、人を熱狂させた松本俊夫も、現在では、全く評価できない。これは、芸術に、技術と政治と弁証法を持ち込んだ咎である。さらに言えば、ある意味で、インテリかもしれない大衆に迎合していたためと思われる。芸術に永遠性を求めるなら、松本俊夫の方向性は間違っている。 

 彼の冥福を祈ります。

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大和絵の空間認識

2018年11月19日 | 美術館

1 始めに

 倭絵は独自の発展を遂げ、独特の空間認識を持つ風俗画となった。この空間認識を、源氏物語絵巻と南蛮屏風で分析する。

 

 

 

 

 

2 大和絵の空間

2-1 ユークリッド空間と写像

 大和絵では、実空間を3次元ユークリッド空間と認識し、ユークリッド平面(画面のこと)へ線形写像を行っている。

ここで、あえて、3次元ユークリッド空間という用語を使うのは、1つの絵の同じ画面に過去と現在を描きこむ手法(3次元でない)や、本来見えないもの(あるものの後ろで通常は見えないもの)を1つの画面に描く事があるからである。特に、後期ビザンチン絵画では、細分化された画面に、複雑な三次元空間が創出されていると評価されることがあるが、数学的に見ると混乱以外の何物でもない。

パンタナッサ修道院のフレスコ画「キリストのエルサレム入城」でみると、いたるところに異なる空間、時間が出てくる。

 

 

線形写像とは、空間の点を画面のどこに位置させるかを、ある法則に則って決めることである。デッサン(平面)で、対象物をどう書く(空間の点を画面上のある場所にどう決める)かという決まりである。

さらに、数学的用語で書くと、3次元直交座標系の線と点が持つ重要な性質の角度と距離を損なうことなく2次元空間に移している。

幾何学的にいうと、平面は、⓵直線と点、②2本の平行線、③交わる2直線によって決まる。このとき、線の方向と距離が決まれば平面が決まる。つまり3次元空間の重要情報である方向(角度のこと)と距離が決まれば3次元空間で物体が決まる。この角度と距離の関係が、2次元空間(画面のこと)でも同等の関係を保てることになる。

 

 具体的に絵巻では、廊下の板の長い側面は平行であり(角度)、その幅は一定(距離)である。建物の外観も同様で、角度と距離が保存されているのが分かる。

 

 

2-2 無限遠を視点とする一点投影法

 投影面を基準面(地面や床など)に垂直とし、視点を無限遠(遠近法の消失点を非常に遠くにすることとほぼ同じ意味である)ではとしている。これは機械製図と同じで、線形写像の関数が最も簡単な場合である。即ち、3次元空間の点を2次元空間(画面)に移す方法のうち、変換方法の演算が最も少ないものを採用している。例えば、1枚の板を平面に移すとき、前方の辺も遠方の辺も同じ長さにし、側面は平行に描くと、角度と距離の計算をする必要がない。つまりもっとも簡単な計算(演算)である。この演算が関数である。

消失点のある遠近法だと前方と後方の辺の長さが異なる。つまり距離を計算する必要がある。また辺は平行ではない。即ち、角度を計算する必要がある。つまり、消失点のある遠近法は複雑な演算(関数)を必要とする。

 

 一方で、絵巻では、遠近にかかわらず人物がほぼ同じ大きさである。これは、無限遠に対して、人物の位置の差が有意でない(人は距離にかかわらず、同じ意味、同じ重要さを持つという意味)からである。遠近法の消失点が存在しないのもこの理由である。

 

 

2-3 大和絵の遠近法

 遠近を示すために、視点を中心線からずらし、X-Y直交座標系からY軸を傾けさせている。基準面に対して視点の高さを固定し、視点の位置を水平にずらす、つまり、大きくずらすほど遠景とすることで、遠近感を表現している。

 具体的に絵巻で見ると、遠景の時はY軸の傾きが35~40度であり、近景では50度以上、特に室内では60度近くになっている。

 

絵巻では、これ等の法則を厳密に当てはめ、一つの場面で変換関数を変えることはない。このため、破綻のない空間構成となっている。

 

 

3 伝狩野山楽の南蛮屏風での検証

 平行関係を見てみると、前の階段、2つの岸壁線、船の横に突き出している小屋、一番近い建物の梁等がすべて同じ平行線である。

 人物の大きさが、ほぼ同じで、背の高さの差の方が大きい。

 Y軸の傾きは前景で45度、同じ画面ではあるが雲の前の建屋が40度、雲の向こう(異なる画面)では25度である。

 このように、大和絵の手法を使い風俗画として描かれている。

 

 

4 空間認識の由来

4-1 海外の空間表現

 16世紀頃までの絵画の空間認識を簡単に纏める。

 中国では、遠方のものは小さく表すという遠近法をとっている。軸の傾きの変化・平行線の交わらないこと注意していない。

 西洋では、古いフラスコ画や、ビザンチンの絵には空間表現に混乱があり、この矛盾はルネッサンスの消失点を持つ遠近法で解決された。

 イスラムの細密画では人の大きさは一定であるが、場面内のX-Y軸が統一されておらず混乱がある。

 

 大和絵の空間認識は海外には見られない数学的に統一のとれた空間である。

 

4-1 なぜ独特の空間認識が生まれたか

 この空間認識の成立には以下の2つがかかわっていると想像している。

*  風俗画として、遠方の人間も重要で、人物をすべて同じ大きさで示したかった

*  廊下や、床の構造が長方形の板でできていて、板を書き込む必要があった

 

 

 

 

用語説明

*  ユークリッド空間

我々の住む空間は3次元ユークリッド空間である。ここで、あえて、3次元ユークリッド空間の用語を使うのは、多くの絵に同じ画面に過去と現在を描きこむ手法(3次元でない)や、本来見えないもの(あるものの後ろで通常は見えないもの)を一つの画面に描く事があるからである。

「芸術教養シリーズ 5 西洋の芸術史 造形編1 古代から初期ルネッサンスまで」のP.96に、「後期ビザンチン絵画では、細分化された画面に、複雑な三次元空間が創出され」とあるが、数学的に見ると混乱以外の何物でもない。

 

*  ユークリッド平面

画面のこと

 

*  線形写像

空間の点を画面のどこに位置させるかを、ある法則に則って決めること

 

*  点と線の持つ重要な性質、角度と距離が保存

幾何学的には、平面は、⓵直線と点、②2本の平行線、③交わる2直線によって決まる。このとき、線の方向と距離が決まれば平面が決まる。つまり3次元空間の重要情報である方向(角度のこと)と距離が決まれば3次元空間で物体が決まる。この角度と距離の関係が、2次元空間(画面のこと)でも同等の関係を持っていること

 

*  視点を無限遠

遠近法の消失点を非常に遠くにすることとほぼ同じ意味である。

 

*  投影面

   画面のこと

 

*  線形写像の関数が最も簡単

3次元空間の点を画面に移す方法のうち、変換方法の演算が最も少ないもの。例えば、1枚の板を平面に移すとき、前方の辺も遠方の辺も同じ長さにし、側面は平行に描くと、角度と距離の計算をする必要がない。つまりもっとも簡単な演算である。この演算が関数である。

消失点のある遠近法だと前方と後方の辺の長さが異なる。つまり距離を計算する必要がある。また辺は平行ではない。即ち、角度を計算する必要がある。つまり、消失点のある遠近法は複雑な演算(関数)を必要とする。

 

*  X-Y直交座標系

X軸とY軸が直角に交わる座標軸での距離と角度の決め方。北へ2キロ、東へ2キロで位置が決まる。Y軸が45度傾いていると北へ2キロは、直交系では北東へ2キロとなる。

 

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インドの美術概観

2018年09月24日 | 美術館

 

1 社会と美術の概観

 インド美術は、宗教の盛衰と、異民族による被征服の歴史とは切り離せない。インドの歴史はハラッパ・モヘンジョダロに始まるが、ここではヴェーダ―時代から始めることとする。

 

2 ヴェーダ―時代 (BC1500~BC600)

 寒冷化と食糧不足によるインド・アーリア民族の大移動(侵略)で、インダス文明は終焉を迎え、インドにおけるアーリア人の支配が確立し、バラモン教の聖典ヴェーダ―が完成し、マハーバラタ等の神話が成立した。

 

3 宗教改革期(BC500~BC300)

 バラモン教の四姓制度が現実に合わなくなり、宗教改革の一環として、仏教・ジャイナ教が起こった。また、バラモン教も土俗の宗教を取り入れヒンズー教へと変化した。まだ、仏像は存在しなかった。

 

4 仏教興隆期(BC300~AD400)

 北西部ではギリシャや中央アジア民族による征服王朝が勢いを持ったこともあるが、土着化したアーリア人のマウリア朝がインドを統一した。

 マウリア王朝の保護もあり、仏教は全盛時代を迎える。石窟寺院を含む多くの寺院が建てられ、クシャーナ朝で、仏像が誕生した。

サーンチの彫刻、ギリシャ的な釈迦の苦行像・菩薩像、土着的なマトゥーラ仏、アジェンタ・エローラ等の石窟寺院の石像・壁画、サールナート等の仏教遺跡と、黄金期であり、この時代の代表作を1つに絞ることはできない。

 

5 ヒンズー教の隆盛と仏教の衰退(AD400~AD1200)

 北インドでは、外部勢力の度重なる侵入と小国乱立の戦乱の時代である。仏教は支持基盤の商人階級の脆弱化、教義研究への傾斜などで衰退傾向であり、イスラム勢力の征服により姿を消した。バラモン教は土俗の宗教と習合してヒンズー教として変化し、大きな勢力となった。

 ヒンズー教文化の黄金期であるが、北部では偶像崇拝を禁じるイスラム勢力の影響で寺院や神像は破壊された。これは仏教も同様である。しかし、デカン高原以南はこれが当てはまらず、石窟寺院を含め、ヒンズー・仏教・ジャイナの遺跡が残っている。カジュラホの遺跡群がすべてのものを飲み込むヒンズー教の土着性を示している。

 

6 イスラム支配(AD1200~AD1850)

 当初、イスラム勢力はインド在来の文化に対して敵対的であった。ムガール帝国になって、融和へと方針が変わり、土着の勢力もマハラジャとして共存していた。

 イスラム建築の花としてのタージマハール廟、イスラムとしては例外的に人物を描いたムガールの細密画はこの時代の代表である。

 

7 最後に

 インドの美術を概観すると、ヴェーダ―時代以前を除くと、宗教とのかかわり、あるいは束縛が、イスラム文化圏に次いで強いと言える。

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ブルッセルの美術館 1

2018年09月13日 | 美術館

王立美術館は、グランプラザから、ブルッセルセントラル駅を通り越して、公園を登ると、数分で到達する。入り口は控えめだが、規模と内容はピカイチである。

 

美術館は、大きく3つに分かれている。

 オールドマスター  イタリア、北方ルネサンスの良い作品

 世紀末  ドイツを中心とした1900年前後の表現主義を主体

マグリット 今となっては、古典となったが、マグリットを中心とする20世紀初頭のコンテンポラリー(現代の意味)アート、シュールレアリズム中心

 

マグリットが素晴らしかった。第二次世界大戦前までの西洋現代美術の良い意味での、

概念が確立できた。

これから、ウイーンにも行くので、世紀末の意味がもっとはっきりわかると思う。

 

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アントワープの美術館 3 マイエル ヴァン デル ベルグ美術館

2018年09月11日 | 美術館

ルーベンスハウスから歩いて数分のところにある。

個人の邸宅を、彼の蒐集したび美術品、主として絵画を展示する美術館にしたものである。このため、入口が少しわかりずらい。

個人の邸宅としては驚くほど立派である。

日本の印籠、根付、薩摩焼が恥ずかしそうに展示されていた。

訪問しても損はない美術館だと思う。

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アントワープの美術館 2 ノートルダム大聖堂

2018年09月11日 | 美術館

ノートルダム大聖堂を美術館と呼ぶのはおかしいが、アントワープ王立美術館の協力で、ギルドごとに祭壇画を飾るという試みをしている。多くの、異なった画家の祭壇画を見る良い機会であり、また、祭壇画の背面の絵をじっくりと見ることができるチャンスである。

実際の展示方法は、副陣と本陣との間にある各大柱の前に祭壇画を置くという方式である。

これは、中世のオリジナルな祈祷方式に戻すという試みである。各ギルドの祭壇画の中で、ルーベンスがひときわ目立った。これは、単に絵が大きいだけで無く、光の使い方が、劇的であることが大きい。

個人的には、このような配置は大聖堂の、荘厳さを損なうように感じた。

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アントワープの美術館1 ルーベンスハウス

2018年09月09日 | 美術館

毎年、ヨーロッパの美術館巡りをしている。今回も、速報的に感想をまとめる。詳細は帰国後に投稿する予定です。

 

ルーベンスハウス

アントワープといえば、ルーベンスということで、ルーベンスハウスを訪ねました。アントワープセントラル駅から、目抜き通りを、ぶらぶら10分程度歩くとすぐに着きます。

大きな工房で、庭も立派です。当時のギルド製の絵というものがわかります。

展示は豊富で、解説書を無料で配布してくれるので、便利です。

アムステルダムのレンブラントハウスと比べると教会から注文を受けるルーベンスの豊かさがわかります。

 

 

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中国の美術史概観

2018年08月04日 | 美術館

1 始めに
 中国の美術史を、王朝の区分に従い8つの時代に分ける。それぞれの時代の特色を一言で纏める。
  
2 先史時代から前/後漢 
 造形技術の確立期。
 金属加工の蝋型鋳造法・彫金・象眼、陶芸の高温焼成・釉薬、漆器の技法等が確立した。書道では紙の発明と筆の進歩があった。絵画も発展を見たが、現存する作品は少ない。また、仏教がインドから伝わり仏教美術も生まれた。
 青銅器で曾候乙墓の編鐘は大きさと精巧さで類を見ず、青銅器の完成形である。

3 三国・南北時代
 芸術の芽生え。
 技法の確立と社会の生産性が高まりによる貴族層の誕生を遠因とし、作者を特定できる作品が生まれた。絵画の顧愷之と書の王義之は、芸術性を確立した。
 王義之には臨模本しかないが、現在も書の手本である。

4 唐
 各分野の芸術が花咲く。
 大唐帝国と呼ばれ、世界帝国としの繁栄、農業・商工業の隆盛による貴族以外の富裕層の出現、西アジアを中心とする胡人との交流、仏教の繁栄などがこれに貢献した。。
 仏教美術は成熟期を迎え、仏像、仏画に傑作が多い。絵画では山水画が評価を受け、書は個性を主張する書道家が生まれた。工芸品は精巧になり、唐三彩、金属工芸品、漆器に傑作が多い。
 明器である唐三彩には写実性の高い作品が多い。
 
5 五代・北宋
 古典として規範となる作品が多く誕生。
 唐滅亡後の混乱の後、宋が中国を統一した。この間に貴族層は没落し、封建地主層が力を持ち、科挙による士大夫が芸術の主要な担い手となった。仏教美術は爛熟期で、仏像は写実的となり、石窟寺院も多く営まれた。墨による自然主義の山水画が確立した。中国を代表する青磁・白磁が作られた。
 郭煕「早春」に、山水画の様式や手法の確立を見ることができる。

6 南宋
 多様な様式の饗宴。
 北宋を受け継いだ南宋では華南の特色を取り入れ、宮廷用の画院や官窯が充実し、地主・裕福階級、士大夫、僧侶なども芸術を担った。陶磁器は、輸出品としても繁栄し、名品も多い。絵画も同様である。
 建窯の窯変天目碗は、日本にしか残っていない銘品であるが、何万という碗を作っていた中で奇跡的にできた銘品である。

7 元
 復古主義の時代。
 異民族支配時代で、前の時代に芸術を担った人々は低く見られた。文人画家の台頭が特記されるが、見るべきものは少ない。
 黄公望の富春山居図などがある。

8 明
 日本に影響を与えた唐、宋と同じく、芸術が花開。
 明は経済的に豊かな華南から興り、この豊かさにより、芸術が市民階級にまで及んだ。科挙に伴い朱子学が盛隆を極めた。文人画と陶磁器は宮廷の保護も厚かった。
 絵画では「明の4大家」、陶磁器では景徳鎮が有名で、五彩穿花龍文大盤は爛熟の美を持つ。

9 清
 伝統美術の終焉。
 明の美術を引き継ぎ、後半には西洋の影響もある。絵画に輝きを見せ、次の時代を予感させるが、異民族の王朝の衰退と共に美術は衰えた。
 郎世寧の松鶴図の写実、琺瑯彩西洋人物図瓶の琺瑯技法に、西洋の影響が濃い。
 

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興福寺阿修羅像

2018年08月04日 | 美術館

 

1) 印象


 興福寺国宝館で本像を見た時、空がないと嘆く智恵子を見た。愁いを持ちながらも、きりりと未来を見つめる若い女性を感じた。極彩色の像が、時の作用(色褪せ)で精神性を得て、嘆きと祈りを具現化している。

2) 時代的背景
 仏教は鎮護国家の色合いが濃く、藤原氏に権力があり、興福寺は莫大な費用をかて、準国家的事業として営まれた。

3) 技術・技能的側面
 脱活乾漆像で、この技術は東晋に始まり、7世紀に唐から伝えられた(朝鮮では10世紀に始めての作例)。この技術の特色は、手間と費用が掛かるが、細かい細工が可能な点である。この技法の像の大部分は日本にしか残っていない。
 仏像の和様化に伴い写実主義が完成した奈良時代前期(8世紀)に作られた。

4) 鑑賞
 仏像が女性ということはあり得ないが、本像が光明皇后御願いにより作られ、皇后が深く仏教に帰依されていたことを考えると、仏師が皇后に似させたのではないか。阿修羅がペルシャでは光明の神であったのは、光明皇后の名と一致するのは偶然か。 男との言い訳で、小さな髭を書いたのではないか。
 古色に落ち着いた像は、精神性を帯び、天平のロマンと写実が蘇り、男女の別を超越し、現代女性の憂いを感じさせる。



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縄文火炎型土器

2018年08月04日 | 美術館


1 時代的背景
 火焔型土器は、5000年前頃(縄文中期)、信濃川流域に出現し、僅か500年で突然姿を消した。出現時は縄文海進が終わり、現在とほぼ同じ気候になり、消滅時は寒冷化が進んだ時である。
 遺跡数が最大に達した時(生活に余裕ができる)に出現し、遺跡数の減少(生活の困窮化)と共に消滅している。

2 技術的側面
 本土器の粘土は現在と大差なく、竪穴・横穴窯で十分に焼ける。即ち、縄文土器の歴史から見て、造形に手間はかかるが、少しの訓練で、誰でも制作可能といえる。
 ほぼ突然、信濃川流域のみで、独自に発展したものである。

3 鑑賞
 造形芸術品は単体でも素晴らしいが、その背景等の付加価値により、更に想像を膨らませる。

 自然の豊かさに依存し、アニミズム的に神・精霊を畏れる生活であった。畏れは写実的な
土偶がないことで暗示される。
 食物は豊富になり、越冬は怖くない。雪深い地域で、冬に時間的な余裕が生まれた。薄暗い竪穴住居で、春の来るのを祈りながら、土器を作る。春に、動植物が生まれ出るように、また、料理に重要な火に感謝しながら、その思いを日常使う土器に飾り付けていく。望みが叶うよう隙間なく模様で埋める。しかし写実的なものは憚れる。
 この呪術的な祈りが、現代日本の心の奥の「万物みな仏」、「縁起担ぎ」に繋がり、我々の心を動かす。


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