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Moritarei2000の美術探訪

美術(絵画、工芸品)と美術館に関する探訪を主体に、
芸術に関する個人的な考えも発信する。

大和絵の空間認識

2018年11月19日 | 絵画

1 始めに

 倭絵は独自の発展を遂げ、独特の空間認識を持つ風俗画となった。この空間認識を、源氏物語絵巻と南蛮屏風で分析する。

 

 

 

 

 

2 大和絵の空間

2-1 ユークリッド空間と写像

 大和絵では、実空間を3次元ユークリッド空間と認識し、ユークリッド平面(画面のこと)へ線形写像を行っている。

ここで、あえて、3次元ユークリッド空間という用語を使うのは、1つの絵の同じ画面に過去と現在を描きこむ手法(3次元でない)や、本来見えないもの(あるものの後ろで通常は見えないもの)を1つの画面に描く事があるからである。特に、後期ビザンチン絵画では、細分化された画面に、複雑な三次元空間が創出されていると評価されることがあるが、数学的に見ると混乱以外の何物でもない。

パンタナッサ修道院のフレスコ画「キリストのエルサレム入城」でみると、いたるところに異なる空間、時間が出てくる。

 

 

線形写像とは、空間の点を画面のどこに位置させるかを、ある法則に則って決めることである。デッサン(平面)で、対象物をどう書く(空間の点を画面上のある場所にどう決める)かという決まりである。

さらに、数学的用語で書くと、3次元直交座標系の線と点が持つ重要な性質の角度と距離を損なうことなく2次元空間に移している。

幾何学的にいうと、平面は、⓵直線と点、②2本の平行線、③交わる2直線によって決まる。このとき、線の方向と距離が決まれば平面が決まる。つまり3次元空間の重要情報である方向(角度のこと)と距離が決まれば3次元空間で物体が決まる。この角度と距離の関係が、2次元空間(画面のこと)でも同等の関係を保てることになる。

 

 具体的に絵巻では、廊下の板の長い側面は平行であり(角度)、その幅は一定(距離)である。建物の外観も同様で、角度と距離が保存されているのが分かる。

 

 

2-2 無限遠を視点とする一点投影法

 投影面を基準面(地面や床など)に垂直とし、視点を無限遠(遠近法の消失点を非常に遠くにすることとほぼ同じ意味である)ではとしている。これは機械製図と同じで、線形写像の関数が最も簡単な場合である。即ち、3次元空間の点を2次元空間(画面)に移す方法のうち、変換方法の演算が最も少ないものを採用している。例えば、1枚の板を平面に移すとき、前方の辺も遠方の辺も同じ長さにし、側面は平行に描くと、角度と距離の計算をする必要がない。つまりもっとも簡単な計算(演算)である。この演算が関数である。

消失点のある遠近法だと前方と後方の辺の長さが異なる。つまり距離を計算する必要がある。また辺は平行ではない。即ち、角度を計算する必要がある。つまり、消失点のある遠近法は複雑な演算(関数)を必要とする。

 

 一方で、絵巻では、遠近にかかわらず人物がほぼ同じ大きさである。これは、無限遠に対して、人物の位置の差が有意でない(人は距離にかかわらず、同じ意味、同じ重要さを持つという意味)からである。遠近法の消失点が存在しないのもこの理由である。

 

 

2-3 大和絵の遠近法

 遠近を示すために、視点を中心線からずらし、X-Y直交座標系からY軸を傾けさせている。基準面に対して視点の高さを固定し、視点の位置を水平にずらす、つまり、大きくずらすほど遠景とすることで、遠近感を表現している。

 具体的に絵巻で見ると、遠景の時はY軸の傾きが35~40度であり、近景では50度以上、特に室内では60度近くになっている。

 

絵巻では、これ等の法則を厳密に当てはめ、一つの場面で変換関数を変えることはない。このため、破綻のない空間構成となっている。

 

 

3 伝狩野山楽の南蛮屏風での検証

 平行関係を見てみると、前の階段、2つの岸壁線、船の横に突き出している小屋、一番近い建物の梁等がすべて同じ平行線である。

 人物の大きさが、ほぼ同じで、背の高さの差の方が大きい。

 Y軸の傾きは前景で45度、同じ画面ではあるが雲の前の建屋が40度、雲の向こう(異なる画面)では25度である。

 このように、大和絵の手法を使い風俗画として描かれている。

 

 

4 空間認識の由来

4-1 海外の空間表現

 16世紀頃までの絵画の空間認識を簡単に纏める。

 中国では、遠方のものは小さく表すという遠近法をとっている。軸の傾きの変化・平行線の交わらないこと注意していない。

 西洋では、古いフラスコ画や、ビザンチンの絵には空間表現に混乱があり、この矛盾はルネッサンスの消失点を持つ遠近法で解決された。

 イスラムの細密画では人の大きさは一定であるが、場面内のX-Y軸が統一されておらず混乱がある。

 

 大和絵の空間認識は海外には見られない数学的に統一のとれた空間である。

 

4-1 なぜ独特の空間認識が生まれたか

 この空間認識の成立には以下の2つがかかわっていると想像している。

*  風俗画として、遠方の人間も重要で、人物をすべて同じ大きさで示したかった

*  廊下や、床の構造が長方形の板でできていて、板を書き込む必要があった

 

 

 

 

用語説明

*  ユークリッド空間

我々の住む空間は3次元ユークリッド空間である。ここで、あえて、3次元ユークリッド空間の用語を使うのは、多くの絵に同じ画面に過去と現在を描きこむ手法(3次元でない)や、本来見えないもの(あるものの後ろで通常は見えないもの)を一つの画面に描く事があるからである。

「芸術教養シリーズ 5 西洋の芸術史 造形編1 古代から初期ルネッサンスまで」のP.96に、「後期ビザンチン絵画では、細分化された画面に、複雑な三次元空間が創出され」とあるが、数学的に見ると混乱以外の何物でもない。

 

*  ユークリッド平面

画面のこと

 

*  線形写像

空間の点を画面のどこに位置させるかを、ある法則に則って決めること

 

*  点と線の持つ重要な性質、角度と距離が保存

幾何学的には、平面は、⓵直線と点、②2本の平行線、③交わる2直線によって決まる。このとき、線の方向と距離が決まれば平面が決まる。つまり3次元空間の重要情報である方向(角度のこと)と距離が決まれば3次元空間で物体が決まる。この角度と距離の関係が、2次元空間(画面のこと)でも同等の関係を持っていること

 

*  視点を無限遠

遠近法の消失点を非常に遠くにすることとほぼ同じ意味である。

 

*  投影面

   画面のこと

 

*  線形写像の関数が最も簡単

3次元空間の点を画面に移す方法のうち、変換方法の演算が最も少ないもの。例えば、1枚の板を平面に移すとき、前方の辺も遠方の辺も同じ長さにし、側面は平行に描くと、角度と距離の計算をする必要がない。つまりもっとも簡単な演算である。この演算が関数である。

消失点のある遠近法だと前方と後方の辺の長さが異なる。つまり距離を計算する必要がある。また辺は平行ではない。即ち、角度を計算する必要がある。つまり、消失点のある遠近法は複雑な演算(関数)を必要とする。

 

*  X-Y直交座標系

X軸とY軸が直角に交わる座標軸での距離と角度の決め方。北へ2キロ、東へ2キロで位置が決まる。Y軸が45度傾いていると北へ2キロは、直交系では北東へ2キロとなる。

 


ブルージュ ピーター・ポーバスの最後の審判とジェラード・デイビットのカンビュセスの審判

2017年05月10日 | 絵画

グリーニング美術館あるPieter Pourbusの最後の審判は有名である。

この絵に関して、図象的に

 北方ルネッサンスでは一般的である魂の重さをはかる大天使ミカエルがいない

 画面下中央の裸の女性が目立ちすぎて、何かの象徴のようである

との疑問を持ったので、また、同じ絵が自由ブルージュ博物館にも展示されているため、美術館に問い合わせをした。

答えは以下であった。

Thank you for your email and interest in our collection.

The work of art is painted by Pieter Pourbus (1523/4-1584), an artist from Gouda, that worked in Bruges from 1543 onwards.

The naked woman in the foreground is not a portrait. Except for Christ in the middle and the saints in the clouds, nobody specific can be identified.

The arch angel Michael is sometimes depicted to weight the souls to decide if they have to go to heaven or hell. In this painting Christ makes this decision himself. It is visualized by his arms pointing to the sky. Pourbus took Michelangelo’s fresco in the Sistine chapel as an example for this painting.

 

 

The painting in the Brugse Vrije is a copy of the painting in the Groeningemuseum. It is displayed in the Brugse Vrije because that is the original location.

 

 

 

With kind regards

 

これによると、ヴァチカンのミケランジェロの最後の審判を参考にしたと書かれている。

 

 

大天使がいないことは同じだが、ずいぶんと印象が異なる。

 

一方、自由ブルージュ博物館の絵は、元々はこの絵の有った場所であるが、今ある絵はグルーニング美術館のコピーで、絵は小さい。

自由ブルージュ博物館の最後の審判の隣にはジェラード・デイビッドのカンビュセスの審判が飾られている。

これも、グルーニング美術館に下に示す本物がある。

 

この2つを比べると、レプリカ(上の絵)の背景が簡略化されているのが分かる。

 


エル・グレコとムンク

2017年02月28日 | 絵画

        

マニエリスムのエル・グレコ「福音書記者聖ヨハネの幻視」と、表現主義のエドワルド・ムンク「叫び」を比較する。ムンクの作品は、明らかに、デッサンよりも色彩のリズム、更にはデフォルメを使用した人物表現など、現代の抽象画につながるものである。

この様な絵がないかと探していて、エル・グレコの絵が同じ印象、デッサンよりも色彩のリズム優先、マニエリスムによる人体比率のデフォルメなどに気が付いた。

 この2つの絵を比べてみた。

 

 

福音書記者聖ヨハネの幻視(エル・グレコ)
 エル・グレコの最晩年の作(1610年頃)で、マニエリスム様式の最後期の作品である。天を仰ぐ聖ヨハネを強調する異常に長い手足、非現実的な空間構成、原色を多用した表現などが特色である。色に注目すると、聖母マリアの象徴の赤と青、イコンで使用される色の意味を感じる白、緑、黄、茶等から、宗教的図像の影響が分かる。
 画題が珍しいので、図像的な制約が少ない、言葉を変えると自由に構成できることになる。このため、画家の心が宗教に縛られているとはいえ、この絵は作者の自由な心象風景である。
 多少の矛盾はあるが、中央から当たっている光、人物の動き、一瞬間を切り取った画面等はバロックを予感させる。

 絵画はルネッサンスを境に、大きく変化する。即ち、貿易等により豊かになった市民階級、王侯貴族が芸術としての美を求め始めたこと、対抗宗教改革の影響、ヨーロッパ内の交流が盛んになったこと等で、絵画表現が大幅に進化し始めた。さらに、油彩とキャンバスが発明されて、技術的制約が取れたことも、これにおおきく貢献している。
 簡単に、この変化を見ると、自然な進展と感じられるが、静的であったダ・ビンチ(15世紀末)から、人間表現の美を求めたミケランジェロ(16世紀初頭)の人体比率、光と色の美を求めたティツィアーノ(16世紀中葉)等の自然な発展があった。

ミケランジェロや、ティツィアーノの彫刻や絵から、人体表現の美を求めた人体比率、多様な美の表現を求めてマニエリスムが起こってきた。17世紀初頭、ヨーロッパ諸国では、マニエリスムは耽美的で奇妙な絵へと変化し、終焉を迎えた。しかし、カトリックの影響が強かったスペインでは上記の傾向は少なく、写実と美を両立させたエル・グレコの絵は、批判はあったものの、宗教画として受け入れられた。

 
叫び
 ムンクの29歳の作(1893年)で、表現主義様式の最初期の作品である。遠近法の消失点まで伸びる欄干、歪み盛り上がった海、赤くリズミカルな空、喜びとも驚きとも取れる人物、すべては写実と色彩から自由になり、画家の感情を表すことを中心にしている。デッサンよりも、色と構成による心の表現に重点を置いている。

「福音書記者聖ヨハネの幻視」から300年後の作品である。マニエリスムやベネチア派の絵は、次のバロック絵画を予感させた。しかし、その重さを克服するため、軽快でリズミカルなロココ様式がフランスを中心に生まれた。
 ロココ以降は宗教的桎梏はさらに緩くなり、画家が自由に自我と美を求め始めた。光の追求、形の追求、空間の追求等、画家が芸術的良心に基づき美と感性を具現した。

一方で写真が出現し、その写実性と物の存在感を示す能力の高さに対抗するため、形の本質、色の本質を表現しようとする試みが出てきた。印象派やポスト印象派などである。画面に立体感や質感を表す必要は、必須のものではない。浮世絵の色使いが、ポスト印象派に影響を与えたのは、このような理由からである。さらに、この表現法を追求したのが、その一例として、ムンクである。


エル・グレコとムンクの比較
 人物表現を見ると、エル・グレコは人体比率を伸ばしているが、ムンクは、デフォルメを行い、はるかに表現の自由度が高い。前者の空間構成は人物の大小によるが、後者は遠近法と濃い青色の使用により、空間の奥行きを自由にコントロールしている。また、後者は色の種類は少ないが、感情表現は豊かである。この様に、詳細に見ると、300年の間に絵画表現の自由度が大幅に向上した。


エル・グレコの聖ヨハネの幻視

2017年02月15日 | 絵画

福音書記者聖ヨハネの幻視   エル・グレコ

  

 印象

 非常に印象的な絵で、一見して、エル・グレコの絵とわかる。大胆な色の使い方、遠近法と身体比率を超越した画面構成、躍動感のある人物、そこには、リズムと、願いの成就を願う熱意が感じられる。

 

背景

エル・グレコは1541年にクレタ島で生まれ、1567年に、ヴェネチアにわたり、ルネッサンス期のヴェネチア派の巨匠ティツアーノに学ぶ。1570年にローマに移りミケランジェロなどの作品を学ぶ。1576年にスペインにわたり、スペイン・カソリックの本山であるトレドで宗教画家として活躍する。この作品は彼の死の前の、1610年ごろに制作された最晩年の作品である。

政治的に見れば、当時ヴェネチア領であったクレタ島は、ギリシャ正教とカソリックの衝突があり、オスマン帝国の圧力を受けていた。このような状況下で宗主国のヴェネチアに移住するのは自然な流れかもしれない。スペインは、ハプスブルグ家のもと神聖ローマ帝国の一部であり、海外植民地経営により、莫大な富を得ていた。プロテスタントとの宗教戦争ともいえるオランダ独立、スペイン無敵艦隊の敗北などで衰退に向かいつつあるとはいえ、依然として、カソリックと美術の中心であり、芸術家の憧れの地であった。

社会的に見れば、ルッターの宗教改革に対する対抗宗教改革のさなかであり、まだ、魔女裁判が実際に行われていた時代である。さらに、黒死病は14世紀の大流行から比べると、小康を得ているとはいえ、依然大きな脅威であった。

一方、私的に見れば、フィリペ2世に、その個性の強い絵が着哀れ、宮廷画家になることができず、

更に、借金に苦しみ不遇な晩年を過ごしたといわれている。この絵はその最晩年に書かれたものである。

 

 

様式

 異常に引き延ばされた聖ヨハネの体、遠近法を無視したような蘇った殉教者たちの作る空間、自然の色を離れた大地と空、原色の山、短縮法を使用した天使など、マニエリスムのひとつの典型である。

 画面構成は、黄色を背景とした白い肉体の男女3人が特に目立つ印象を受ける。これは、ルネッサンスのヴェネチア派の技法を使っている。 光が中央上面より当たっているように見えるが、必ずしも統一されていない。イマジネーションを重要視するティツアーノの手法を発展させたものである。

 画面構成は動きがあり、ミュージカルの舞台を見るようであり、バロック的なものを予感させる。

 

図像(イコノグラフィー)

この絵は、聖ヨハネの黙示録の第5の封印が解かれた時である。キリスト教の宗教画は、最後の審判を除けば、大部分は過去に起こったことをとりあげていて、図像的(イコノグラフ)に、約束事が多い。しかし、この画題はほとんど書かれたことがなく、そのため、この制約が少ない。即ち、自由に絵を描ける可能性が高い。

クレタ島でイコンを学んでいたという目で、使用されている色を見てみると、聖ヨハネの青い服と赤い布は、聖母マリアの象徴の色である。マリア信仰の強かったスペインで、聖ヨハネにこの色を使っているのは、画家の心象が、宗教画の伝統から自由でないためか、色そのものの持つ意味が心象として画家自身のものとなっていたためと推定される。さらに、ギリシャ正教のイコンからは、正義を示す白い布、自然を示す緑の布、聖女マグダナのマリア(正教とカソリックでは評価が一致しない)の服の色ともいわれる黄色、さらに、大地と流転を示す茶色などがそれぞれの意味を持ちながら使われている。