「ほめれば自己肯定感が高まるというのは幻想にすぎない」「人は「褒められる教育」の下で育ったからといって、必ずしも自己肯定感が増すというものではない」…と、教育心理学者の榎本博明氏は3月15日の東洋経済ONLINEに寄せた論考で指摘しています。(「「ほめる教育」で自己肯定感は高まらない衝撃事実」2022.3.15)
先生がいたずらっ子を注意したところ、叱られたショックでその子が不登校になるというのはよくあること。最近では、さらにそこに居合わせたおとなしい子までがショックを受け、不登校になるといったケースも普通になっていると榎本氏は話しています。
「うちの子は親でも叱ったことがないのに、先生の怒る様子を見てショックを受け、怖くて学校に行けなくなった」などと保護者が訴えてくるという話を聞くにつけ、現代日本人の対人対応力や社会そのものの脆弱化が進んでいることに驚かされるということです。
しかしその一方で、けっして叱らず、ひたすらほめるといった最近の風潮に、不満をもつ子どもも出てきていると榎本氏はこの論考に綴っています。
学級崩壊から立ち直ったクラスで聞くと「前の先生は僕らが悪いことをしても何も言わないから悪いことばかりしていた。今度の先生は、僕らが悪いことをするとちゃんと叱ってくれる。だから先生の言うことを聞くんだ」と答える生徒も多い。
実際、現場からは「しっかり叱らない先生の問題」が指摘されるケースも多く、授業が始まっても騒ぎが収まらない中高生に対し、教員が「ほら、おしゃべりはやめようね!」とまるで小学校の低学年に言うように(やさしく)話しかけても効果は出ないということです。
既に半世紀近く前の私の古い記憶でも、生徒に「舐められている」先生というのは学校に一人や二人はいたような気がします。子供というのは現金なもので、叱られないとなったらいつの時代もとことん増長する。そうした環境の中でも子供たちに尊敬され、どこまで指導力を保てるかが教師の腕の見せ所だ(だった)ということでしょう。
さて、(ともあれ)大人はなぜきちんと叱らなくなったのか。そこに潜む利己的な思いを子どもたちはしっかり見抜いていると榎本氏はこの論考に記しています。
今のご時世、叱ることは何かと面倒くさい。叱るにはエネルギーが要るし、嫌われるかもしれない。良い人と思われたいのが人情だし、先生なら保護者や管理職の目も気になる。よほど気を付けていなければ、(気が付けば)事なかれ主義に走りがちだというのが氏の認識です。
「心が折れる」という言葉があるが、子どもの心は案外柔軟で、(叱られるだけのもっともな理由さえ自覚できれば)叱られてもそう簡単に折れないと榎本氏はしています。むしろ、叱られた経験がない子は打たれ弱く、傷つきやすくなり、きつい状況で頑張れない。現在の若者たちの「生きづらさ」は、こういうところから生まれているのではないかというのが氏の指摘するところです。
「遅刻を叱られたからバイトをやめた」という学生の話をよく聞くが、これでは(いくらなんでも)社会に出てから通用しない。そうした若者が教師や親になり、『叱らない』教育が続く悪循環は避けたいということです。
何があってもほめるばかりでは社会性が身につかず、自分の衝動をコントロールする力もついてこない。大人は必要があれば(敢えて)憎まれ役を買ってでも叱るべきだと氏は言います。
適切なタイミングで社会のルールを身につけなければ、成長しても社会にうまく適応していくことができず、また思い通りにならない現実の荒波を力強く乗り越えていく逞しさも身につかない。もちろん、そうしたままでは真の自己肯定感も高まるわけがないというのが氏の見解です。
理不尽なパワハラを肯定する気持ちは微塵もありませんが、日本人の若者の自己肯定感が低いのは、どうやら「褒められることが少ないから」とか「褒められて伸びるタイプが多いから」というわけではなさそうです。
思えば、自分自身に、そしてこの社会や日本という国に自信がないのは、なにも若者たちに限ったものではないのでしょう。大人であれ子どもであれ、自分自身をしっかり見つめ、自分を大切に思える存在であるために何をすべきかについてゆっくり考える時間がや機会が(もっと)必要なのではないかと、榎本氏の論考を読んで私も改めて感じたところです。
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