MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯48 日本を見つめる歴史家

2013年08月22日 | 社会・経済

 8月20日の朝日新聞に「安倍政権と戦争の記憶」とのタイトルで、アメリカ・コロンビア大学のキャロル・グラック教授へのインタビュー記事が掲載されていました。

 このインタビューの中で、グラックさんは現在の国際社会における日本の立ち位置、状況に関していくつかのコメントを行っているのですが、インタビュアーによる安倍政権に対するかなり意図的な(見方によっては悪意のある)質問に対し、アメリカで長年日本を研究してきた歴史家という立場で、非常にクールな視点から興味深い回答を残されているのでその内容を要約(メモ)しておきたいと思います。

Q アメリカのメディアでも安倍政権の右傾化を懸念する声が聞かれるが、これをどう思うか?

A 日本に関する海外メディアの報道は常に極端で浅いものだ。以前から感じているが、海外では日本はいつも「極端な言葉」で形容されている。海外における多くの報道には「ナショナリズム」や「軍国主義」といった言葉が多用されているが、日本国内の世論調査などを見ればそんな心配はないことがすぐに分かる。メディアとは安易にラベルを貼るものだと理解する必要がある。

Q 安倍首相が「憲法改正」を目標に掲げていることについては? 

A 憲法改正を目指すことは、自民党政権として別に目新しいことではない。アジアの地政学的要因や防衛費負担を求めるアメリカの圧力があるからやっているだけのこと。仮に今憲法改正に着手したら、政治のエネルギーをそれだけで吸い尽くしてしまうことになる。中・韓や東南アジアとの関係改善(そして経済の立て直し)など、その前にしなければならないことがたくさんあるはずだ。

Q 安倍首相の掲げる「戦後レジュームからの脱却」についてどう思うか?

A これを言い出したのも別に安倍首相が初めてではない。そもそも「戦後」という概念は、アメリカに守られている安定した快適な時代として日本人の間に生き続けている。現状において、安倍首相が日米関係(戦後体制)を本質的に変えたいと言っているとは思えない。

Q 安倍首相が「終戦の日」の式典でアジア諸国への加害者責任に触れなかったことについては?

A 自民党右派の政治家たちは、これまで歴史認識に関することを国内政治として内向きに話をしてきた。しかし、加害者責任を否定することで国内の支持を得ようとした言葉はそのまま海外にも届いているということを彼らは理解していない。これは一種の「地政学的無神経」と言える。

Q なぜ日本ばかりが謝罪し続けなければいけないのか、という意見もあるが?

A 戦争の記憶に関しては、この20年ほどの間に「グローバル記憶文化」というようなものが国際規範となっている。日本人もここを理解しなくてはならない。ホロコーストを発端として、グローバル記憶文化の共有が求められるようになっており、これが昨今の「謝罪ポリティクス」につながっている。一方で、これらが政治利用されるケースも増えているので十分注意する必要がある。

Q その「新しい規範」がアジアにも広がったということか?

A 戦争の記憶に関しては、日本政府は戦後の長い期間、強固な日米関係に守られ何もする必要がなかったし、中国は共産主義国で相手にする必要もなかった。しかし、そんな(日本がアジアの外にあるかのような考えに慣れきった)中で、90年代以降東西冷戦が崩壊し日本政府もアジアと向き合うことを余儀なくされ、突然「戦争の記憶」(そして「グローバル記憶文化」という新しい常識)と対峙しなくてはならなくなった。こうした中、自民党がいくらこの問題を「国内政治」として扱おうとしても、そこには既に別種の国際環境が歴然と存在しているということを日本政府は十分認識する必要がある。

Q 安倍首相が靖国参拝を見送ったことについては?

A いまや歴史問題は簡単に安全保障に結びつくようになっている。慰安婦問題や南京事件など歴史問題が他国に利用されている面もあるため、「靖国」の取り扱いには非常に「巧妙」な手腕が必要とされる。靖国参拝は少なからぬ国民が支持していることは理解しているが、一方で自民党にその対応が上手く出来るとは思えない。もしも安倍首相が(何の策もなく)参拝していたら、取り返しの付かない事態になっていた可能性が高い。

Q「地政学的無神経」以外に気にかかることと言えば?

A 在日コリアンなどへのヘイト・ナショナリズムは安倍首相よりはるかに危険だと思っている。同じ東アジアで若年層がいがみ合う形になっているが、軽率な愛国心は祖国に対する誇りとは違うことを理解しなければならない。ポスト冷戦期、日本にもたらされた最も大きな変化はアジア諸国の成長であり、特に中国の台頭にある。地政学上の大きな変動が緊張をもたらしていると冷静にとらえるべきだ。

Q その他に

A 日本は、もっとグローバルプレーヤになるための努力をすべきだ。非核国で有数の経済大国という立場から、他国がしない「隙間」の役割を見つけるべきと思う。日本の持つ多面的なソフトパワーを武器に何かが出来るはず。それは「台頭する中国にどう対処するか」という問いへの答えでもある。軍備に軍備で対抗するのは馬鹿げたことだ。

さて、昨今の海外メディアによる「日本の右傾化」に関する報道は国内の感覚と微妙にずれているのではないかと感じていたところ、こうした「ヒステリック」とも言うべき評価に流されない、戦後日本を冷静に観察してきた歴史家らしい落ち着いた論評に改めて意を強くしたところです。

 一方で、「グローバル記憶文化」を巡る議論については、いわゆる「謝罪ポリティクス」に関する新たな論点として、今後十分な検討を行ったうえで必要があれば外交分野において適切な(戦略的な)対応をとっていく必要があると改めて認識した次第です。

 先の戦争に対する歴史認識に関しては、日本の外交姿勢に関する本質的な問題点を突いた厳しい指摘がなされています。これは、「どちらが正しいのか」とか「なぜ一方的に非難されるのか」といった感情的な問題ではなく、日本政府として、国際環境の中でどのように各国の理解を得ていくべきかという「方法論」の問題であることを指摘されたものと理解しました。

(1) 戦後何十年かの間、日本はアメリカの傘の下でアジアと向き合うことをしてこなかった。

(2) 冷戦の終結や東アジアの経済成長を契機に戦争の記憶に突然向き合うこととなったが、結局、それまでの国内向けの言葉でしかこれを語っていない。

(3) そしてこうした国内向けの言葉で世界に歴史認識を垂れ流し続けるということが、どれだけ無神経なことなのかについて十分理解していない。

 これらの意見は、閉塞感のある現状を打開するためにも傾聴すべき(そしてある意味ではかなり耳の痛い)指摘だと思います。

 いつも「極端な言葉」で語られる国、それが日本だということでしょうか。日本が国際社会にデビューして150年。海外メディアも含め世界の人々のこの極東の島国に対する理解は、実はその間、さほど進んでいないのかもしれません。

 いつまでも、「何を考えているのかわけのわからない(特別な)国」というレッテルを貼られ、未だに「ちょんまげ」のイメージで語られる日本。そして「特別な国」であることを誇る国民。確かに、歴史認識の問題も含め、海外の人々に(特に海外メディアに)自国の立場や考え方への理解を深めてもらうための努力が、歴史的に見ても日本にはまだまだ足りないのかもしれません。

 日本人ではないからこそ「見える」ものがだぶんあるのだろうと思います。耳を傾けることの大切さについて、いろいろと考えさせられたインタビューでした。



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