MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2621 「自己責任論」は都合のいい責任転嫁

2024年08月15日 | 社会・経済

 厚生労働省の発表によれば、今年4月の生活保護の申請件数は全国で2万796件。前年同月と比べ1163件、率にして5.9%増加したということです。そのうち、4月に新たに生活保護の受給を始めたのは1万8833世帯で、前年に比べて982世帯、率にして5.5%増えている由。結果、生活保護を受給している世帯は全国で164万7853世帯に及ぶとされています。

 報道によれば、生活保護の申請件数は直近10年の同じ月で見ると、コロナ禍の令和2年に続いて2番目に多くなっているとのこと。こうした状況に厚生労働省は、「生活に困っている人はためらわずに自治体の窓口に相談してほしい」と話しているということです。

 さて、この報道を耳にして、先日テレビで「若い世代の生活保護申請が増えている」旨のニュースを見ていた(昭和一桁生まれの)私の母親が、「最近の若い人たちは努力が足りない。仕事もせずに引きこもったりするのは、苦労を経験していないからだ」というような話をしていたのを思い出しました。

 自分たちの若い頃は、生きていくので精いっぱいだった。でも、頑張ったから今がある。五体満足な「いい若いもん」が、生活保護なんかをもらって恥ずかしくないのか…という趣旨のようでした。

 生活保護を受けている人は「頑張っていない人」…というのも随分極端な意見ですが、それ自体、戦前の軍国教育を受け、戦後の高度成長をがむしゃらに引っ張ってきた彼女たちの世代の感覚なのかもしれません。

 そもそも、物事が上手くいかないのは(その人が)頑張っていないからなのか。さらに言えば、人は生きていくうえで頑張らなければいけない生き物なのか。そんなことを漠然と感じていた折、3月20日の経済情報サイト「東洋経済ONLINE」に作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏が「自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ」と題する一文を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 「責任」という言葉は英語でresponsibilityと訳され、古代ローマにおいては法廷で訴えられた人物が、自分の行為について説明したり弁明したりすることを指す言葉だったと、佐藤氏はこの論考で説明しています。

 こうしたことから、近代の市民革命によって市民が自由を獲得した際、「自由」の行使には「責任」が伴うとされた。「自由なきところに責任なし。責任なきところに自由なし」と言われ、「自由」と「責任」は常に表裏の概念だったということです。

 つまり、責任とは、「自由意思に基づいて行動した結果に対して、その本人が他者に対して説明し、しかるべき対応をすること」というのが、近代以降の「責任」の考え方。なので、欧米で責任(responsibility)と言えば、他者とのコミュニケーションが前提とされるというのが氏の認識です。

 説明義務が生じるのは本人であることは自明のこと。なので、改めて「自己」をつけたりしなければならない状況自体が、すでに不自然でおかしなものだと氏は話しています。

 しかし、日本では、ある時期からこの不自然でおかしな「自己責任」がやたらと使われるようになっている。例えば「ワーキングプア」の問題。非正規雇用者の増大などに対ししきりに論じられたのが、この「自己責任」という言葉だということです。

 彼らは職業選択の自由の中であえて非正規雇用を選んだのであり、その結果に対する責任は当然彼ら本人にあるとされた。あるいは、正社員になれなかったのは自由な競争の中で彼らが努力することを怠り、しかるべき能力を身に付けてこなかったからで、それも自己責任だという論調もあったと氏は振り返っています。

 さらに、その「自己責任」とともに頻繁に使われるようになったのが、「努力」という言葉。先ほどのワーキングプアも、結局彼らの「努力」が足りないために招いた結果なので、それは「自己責任」だという論理だったということです。

 こうして「自己責任」は、いつしか「自助努力」とパラレルで語られるようになっていった。いかにも新自由主義的な発想だと考えるが、ここには大きな問題のすり替えがあるというのが、この論考で氏の指摘するところです。

 そもそも「責任」という概念は、「自由」という概念とはつながっていても、「努力の有無」とはまったく関係のない概念のはず。もちろん、「努力しなかった結果はしっかりと受け入れなければならない」という道義的な理屈は成り立つにしても、そこに他者への「責任」が生じるという理屈は、あまりにも飛躍があるというのが氏の見解です。

 努力は本人が自主的、主体的にするものであって、第三者が努力しろと強制する権利は本来どこにもないはず。努力しなければいけないという義務など存在しないのだから、当然そこに責任など生じるものではないということです。

 一方、「責任」が「自由」と表裏だとしたら、雇用者と被雇用者ではどちらの自由度がより高いと言えるのか? マルクスは、資本家は生産手段を持っていて、だからこそ労働者よりもはるかに有利で自由な立場に立っているとしている。つまり、自由と責任が表裏一体だとするならば、自由度の高い雇用者のほうがより責任が大きくなるのは当然の論理的帰結だと氏は指摘しています。

 そう考えるならば、正規雇用と非正規雇用の二極化によって起きるさまざまな出来事に対して、本来責任を持つべきは雇用者であり、資本家の側だという結論になるはず。非正規雇用者に向けられた「自己責任論」は、雇用者側が本来取るべき責任を、自由度の少ない弱者に転嫁する「責任転嫁論」にほかならず、「責任」を追及されるべきはむしろ雇用者側にあるというのがこの論考における氏の結論です。

 流動性が高く、いつでも辞めさせることができる安い労働力を必要としていたのは、雇用者のほう。自分たちの都合で仕組みを変えておきながら、その責任を被雇用者に押し付けるというのは二重の意味で厚かましいと、氏は改めて指摘しています。

 こうして、(強いものによる)厚かましい論理が、あたかも正論のようにマスメディアに乗って流布されていった。この転倒した世の中で、「人生が上手くいかないのは自らの責任」と押し付けられた(弱い立場の)人々が、自ら心を折り、心を病んでしまっているケースも多いということです。

 ですが、世の中の構造やカラクリを解きほぐし、その欺瞞や嘘を知ることで、少しは心が軽くなるのではないかと、佐藤氏はこの論考の最後に綴っています。まず、努力は(そうした)誰かもわからない第三者のためにするようなものではないということ。そして、少なくとも自己責任論のようなめちゃくちゃなロジックに振り回される必要などないということがわかってもらえればと話すその指摘を、私も興味深く読んだところです。