MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1999 認知症を受け入れる社会に

2021年10月24日 | 社会・経済


 最新の発表によると、2021年9月現在の我が国の高齢者(65歳以上)人口は3,640万人で、高齢者人口率は29.1%となっています。 

 超高齢社会が進むことと、切り離すことのできないテーマのひとつが認知症です。世界保健機関(WHO)が発表した報告書によれば、世界の認知症有症数はおよそ3,560万人。これが、2030年までに2倍の6,570万人に、2050年までに3倍の1億1,540万に膨れ上がると予測されています。

 私たちの暮らす日本はどうでしょうか。「日本における認知症の高齢者人口の将来推計に関する研究」の推計では、2020年現在の65歳以上の高齢者の認知症有症率は16.7%(概ね6人に一人)で、有症者数はおよそ602万人とされています。平成29(2017)年度高齢者白書によると、2012年時点でおよそ462万人、高齢者人口の15%を占めていた有症者は2025年には730万人まで増加し、概ね5人に1人、20%が認知症になるという推計もあるようです。

 また、統計上、高齢になるにつれ認知症を発症する割合は増加することが判っており、現在でも85歳以上の人の実に55%以上が、認知症の症状を見せていると言われています。今は大丈夫だと思っていても、加齢による認知機能の低下は誰にやってきてもおかしくないもの。平均寿命が延び、長寿化が進むこと自体は結構な話ですが、(少なくとも現在のところ)我々が「認知症」という頸木を逃れることは依然として困難なようです。

 とはいえ、科学技術や医療の進歩が目覚ましい現在、認知症を予防するためにできることはあるはず。実際、90歳になろうという私の母親なども、(寝たきりになって周囲に迷惑をかけないようにと)一生懸命ボケ防止に良いという体操をしたり、パズルを解いたり、脳トレの本を読んだりするのを日課にしています。

 そうした中、9月27日に配信された「PRESIDENT ONLINE」に、高齢者精神科専門医の上田諭(うえだ・さとし)氏による「認知症にならないためにはどうすればいいのか」と題する論考が掲載されているのを目にしました。

 自身が認知症になるのを心配する人は多い。そうした不安に応えるため、認知症を減らす「数値目標」なるものが2019年5月に政府から発表されメディアにも大きく取り上げられたと、氏はこの論考に綴っています。これは、70歳代での認知症の人の数を、2025年までの6年間で6%減少させるというもの。認知症に関する国家戦略となる認知症対策の「大綱」に新しく盛り込み、様々な対策を講じて計画的に削減していくということです。

 しかし、上田氏はこの報道を耳にし、「これは何かの間違いではないか」「エイプリルフールのニュースではないか」という考えが一瞬頭をよぎるほど驚いたとしています。大部分の認知症は、医学的になぜ起こるのか原因は明らかではない。それゆえ、根治療法はなく確かな予防法もない。それをどうやって減らすというのか。

 報道によれば、運動不足解消の活動や保健師らの健康相談、予防の取り組みガイドライン作成などを通じて削減を目指すのだということです。これまで「大綱」では認知症の人との「共生」を柱にしていたが、今後は「予防」との2本柱にするということ。しかしそれ自体が奇妙でおかしなことで、そもそもの原因がわからず、医学的な予防法もないのにどうやって「予防」を柱にするというのか。これでは、国民を安心させるためだけに、幻想やイメージに頼って政策を決めているとしか思えないというのが氏の見解です。

 予防策の一つとして具体的に言葉にあがった「運動」についても、現時点の医学的常識では、認知症の予防とはならないことがわかっていると氏は説明しています。2018年1月に米国で発表された世界の医学論文の大規模データ分析で、運動の予防効果には医学的根拠がないとされた。2019年には、運動不足は認知症の危険因子(病気を引き寄せる要因)とはいえないという英国の大規模研究も発表され、認知症を避けるために運動を続けても意味がないと結論付けられているということです。

 結論から言えば、高齢になれば誰もが認知症になる可能性があるということ。超高齢社会となって、その可能性が益々増えているとすれば、予防ではなくその備えこそ第一に重要ではないかというのが、認知症の専門家としての上田氏の見解です。

 こうして、医学的根拠が乏しいままに認知症にならないための方策を掲げ、減らす目標数値を世間に公表するのは、政府に「認知症になってはいけない」「認知症は予防しなければいけない」という思想が根底にあるからでではないかと氏はこの論考に綴っています。そして、これらがさらに推し進められれば、「予防の努力をしていない人が認知症になる」というメッセージにもなりかねない。しかし、認知症とは元来そういう「努力で何とかなる」ようなものではない(もっと自然なものだ)というのが氏の認識です。

 誰もが認知症になってよい。高齢になれば、顔にしわが増えるのと同じように、どんな人でも認知能力は落ちてくる。90歳を過ぎたら、認知症の人の比率が認知症でない人を上回るのだから、超高齢の年代では認知症の状態が「ふつう」だと受け止られる社会を作ることが重要だということでしょう。

 そして、もし認知症になったとしても、悲観したり卑下したりする必要はないと上田氏はこの論考の最後に記しています。

 もちろん、健常な人と同様に堂々と生きていけばいい。世の中の人々がそう感じ、互いを思いやって暮らす社会を作っていく。それが政府の目指すべき目標でなくてはいけないし、その姿勢が今の政府には欠けているのではないかとこの論考を結ぶ上田氏の視点を、私も大変興味深く受け止めたところです。