MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#1995 中国は世界のリーダーとなり得るのか

2021年10月19日 | 国際・政治


 GDP世界第2位の経済大国を誇る中国。今や14億人にまで膨張した中国人民を引っ張る習近平政権と中国共産党指導部はその政治体制に自信を深め、米国を中心とする民主主義と自由主義経済を基調とした世界観に挑戦する態度を隠そうともしない様子です。

 もちろん、中国四千年の歴史に思いを馳せれば、「中国こそが世界の中心」という中華思想の復権を願うかの国の人々の気持ちはわからないではありません。

 そのためにも、まずは、西洋文明に接し様々に多様化した国内の思想をまとめ上げ、中国共産党の権力基盤を確固なものにしなければ、世界のリーダーとしての地位を築くことは難しいということでしょうか。習近平政権の中国人民に対する思想的な締め付けは、近年非常に厳しくなっているようです。

 一方、そうした共産党指導部には、彼らなりの危機感もあるのでしょう。少子高齢化などにより経済成長の鈍化が見込まれる中、14億人の国民を前に一党独裁を維持するためには「無謬性」の頸木から逃れることはできません。そのためには、由らしむべき人民を惑わせる不穏で堕落した思想を、逐一排除していく必要があると考えても無理はないでしょう。

 いずれにしても、経済力、そして軍事力も含めた力こそが全てであり、それを国内や世界に示してこそ、初めて(中国の論理は)唯一無二の世界の論理となり得るというのが、中国の基本的な発想であることは間違いなさそうです。

 しかし、問題は、こうしたシンプルな価値観が、成熟した国際社会に受け入れられるかどうかということ。そして、この点については、素人の私にとっても(はなはだ)疑問を感じさせるところです。

 国家としての理念や理想とする世界観を国内外に示すことは、(少なくとも世界のリーダーを目指すうえでは)大変重要な条件と言えるでしょう。多くの国々からそこに共感を得られれば、軍事力以上の力となることも不可能ではありません。

 しかし反対に、そこに示される価値観が、グローバルに共有され、リスペクトされるものでなければ、人々に受け入れられないのもまた事実です。そうした判り切った状況の中で、なぜ、中国共産党はあからさまな「力の論理」に固執するのか。

 振り返れば、中国が現在のような「経済大国」を自認、標榜するようになったのはそんなに昔のことではありません。「経済、経済」とただそれだけを追いかけ、凄まじい勢いで走り続けてきたかの国の社会から「力とは異なる論理」「力への抵抗の声」を得ようとしても、それ自体、無理な相談のような気もします。

 思えば、私が(大学の調査団に紛れ込んで)香港から陸路、中国に入ったのは、今から40年ほど前の1980年のことでした。毛沢東の死去とともに文化大革命が幕を閉じてから2年の月日が過ぎたとはいえ、鄧小平の改革開放の動きは人民の下には届かず、広州の街は小銃を持った少年兵ばかりが目立つ混乱の状況にありました。

 外国人は監視の人民解放軍の兵士を伴わなければ外出できず、街を歩いたら歩いたで、物見遊山の汚れた人民服と人民帽の集団がぞろぞろと後をついてくる。隙を見ては兌換券と人民元の交換をせがんでくる彼らを、銃を向けて追い払うのが兵士らにとっての唯一の仕事でした。

 毛沢東の大きな写真や殴り書きのスローガンが街のあちこちに掲げられてはいるものの、人々は平日の昼間から所在なげにうろうろしているばかりで、仕事をしている様子はありません。商店の棚に商品ほとんどなく、連れていかれるデパートやらホテルやらでは、着飾った売り子さんたちがやたら威張っているのに面食らったのを覚えています。

 丸一日ほど田舎道をジープに揺られて地方に足を延ばせば、農村地帯はそれにも増して荒れた様子で、電気、水道ばかりかトイレすらままならない。人民公社の建物と毛主席の写真ばかりが立派で、肝心の農作業は子供たちが水牛などを追う姿をちらほらと見かける程度でした。

 これを何と言うのでしょう。活気がないというのか、やる気がないというのか。街の暮らしはただ埃っぽいばかりで生気が感じられず、「打倒四人組」の立て看板とあちこちに捨てられている赤い毛沢東語録ばかりが印象的でした。

 さらに訪れた雲南省、それも省都昆明から先の地域はまさに少数民族が暮らす未開の地で、社会の仕組みや風習にずいぶんと驚かされた記憶があります。

 さて、個人的にはその後も現在に至るまで、数年ごとに中国の様々な都市や地域に足を向けてきましたが、そうした経験の中で感じているのは、(誤解を恐れずに言えば)中国は経済成長のために革命の理念を捨て、イデオロギーを捨ててきた国ではないかということ。

 200年にわたる列強の支配に加え、共産党による解放後も大躍進政策や文化大革命で大きく傷ついた人民は、豊かになるためにはなりふり構っていられなかった。禁欲的な革命イデオロギーへの反動もあって、鄧小平の先富論に裏打ちされた彼らの経済的リアリズムが、「結局、勝ったものが正しい」という(手に負えない)「建前」すら生んでしまっているのではないかということです。

 世界経済力への影響力を背景に先鋭化する中国は、この先どこへ行こうとしているのか。人民への統制を強める習近平政権の下、ストレスを貯めているように見える国内情勢も含め、目の離せない状況がここしばらくは続きそうです。