みやびのまなび

インディゴの子をさずかり、幸せなご縁に恵まれ、真実を学ばせていただいている。
みやびと子供の成長のきろく。

みやびの成長  ⑩

2008-02-10 15:18:52 | みやびの成長 ( 親になるために )
私は寛希を治したいと強く思っていました。
普通の子どものようになって欲しいと思っていました。
それは、私の立場を守るためからの欲、思いでもあったことは以前のブログでも書きました。
量子論などを勉強して不思議な感覚を楽しんでいる私ですが、ここにきていろいろと自分の思いが変化しています。

寛希は今でも十分楽しいことがわかりました。
かわいそうだと思っているのは、私が自分の概念にとらわれているからでした。
確かに不便もたくさんあるかと思います。でも、寛希は十分自分の与えられている毎日を純粋に楽しんでいます。

寛希の母親である私は、ただ単に今までの経験や知識によってとらわれ、かわいそうだと決めつけていました。
そのことを気づいたとき、私は、寛希らしく生きていってくれればそれで良いのだとも気づくことができました。
ただ、寛希らしく生きるためには、インディゴが弱い立場であることは、今の社会では事実です。
寛希らしく生きられるために守り、策を講じなくてはいけません。

現代健康研究所で私の書く寛希の問診表を見たことがあるお母さんがいらっしゃると思います。
どんなことを書いていたかといいますと、

・落ち着きがない。多動
・かんしゃくをおこす
・奇声をあげる
・こだわりが強い
・左目(弱視)
・言語識別機能に問題あり
・鼻炎・鼻づまり
・扁桃腺が腫れていて気道が狭く酸欠
・背中、足のかぶれ・カサカサ肌
・歯軋り

こんなに書いていました。
全ての症状、気づいたことを書いていたのです。
全てを報告しなくてはいけないと思っていたのです。

でも、これらの症状は末端の症状です。
問題はこれらの末端の症状にはありません。
脳だというかもしれません。確かにそうです。
でも、本当はなぜ脳なのかという問題になります。
インディゴの子どもをさずかった理由は、追求することはやめ、これからをどう生きていくかが重要になります。

大人の病気の場合は、なぜその病気になったのかを心に問う必要があります。

話を戻し、高橋先生にたくさん書くのは欲だという話をうかがいました。
たくさん書く人は、その症状がなくなっても、他のことが気になりまた書く。
もっと、もっとと次々とそうゆう人は言うとうかがいました。

私はその時、まだ末端の目に見えることにとらわれていたので、正直「親心」じゃないの?とも思いました。

でも、そうです。「欲」でした。貪欲でした。
そんな頭が良くて、何でもよく聞いて、社交的でという何でもできる人に我が子をしようとするのは、「欲」でした。
自分が親にそうあってほしいと望まれて、嫌だと思った経験が誰でもあると思います。
私もその一人でした。

私は寛希に寛希らしく生きていって欲しいと今まで以上に思いました。
それ以外ありません。

最近読んだ書籍に「病気は自分らしく生きていないというお知らせである」という内容がかいてありました。

人は地球の一部分であり、宇宙の一部分であります。
人間はどう科学で創造主である神様に近づこうとしても、所詮手の中にいる孫悟空です。
全ては朝がきて夜がくるように、人の一生も流れにそっています。

今、寛希がこの先どうなるかはわかりません。
親である私たちは、寛希らしく生きていけるように策を講じ、願っているだけです。
毎回の治療を必死で受けていましたが、最近ではそれにも強いおもいはありません。治療中布団から逃げ出そうが、「そうゆう日もあるね~」ぐらいです。
寛希が自分らしく生きられるように最善をつくす。この目標を私が見失わなければ、宇宙の流れにそって、なるようになると思います。
その結果はどうなるかわかりません。
でも、自分の人生もそうでなかったですか?

神様に与えられた自分の役割を大切に、日々精一杯大切に生きる。
その役割が何なのか、私は今はまだわかっていません。
でも、いつかそれに気づくこともできるかもしれないと楽しみにしています。

結局、今まで私が必死になっていたのは、地球の一部分であることを忘れ、自然との調和とかけ離れ、人間社会に限った、愚かな人間の競争社会で勝ち抜くことでした。
私は人間ですが、地球の一部分です。
法律は人間の都合よく時代によって、その時の支配者によって変更されますが、宇宙の法則(重力など)は人間が変更することができないものです。
ですから、人はそのままを受け入れて生きています。

最近、新型インフルエンザの特集がテレビで放送されています。
現代健康研究所でも多くのことを研究されています。
厚生労働省のホームページも個人でできることという内容ではかなり緊迫した状況を想像できるのではと思います。

致死率61%以上の新型インフルエンザにかかって生き延びても、食糧自給率の39%の日本は食糧難で大変な状況となるでしょう。(戦後の食糧自給率が70%あったそうです。)
そして、エネルギー自給率は今では4%です。世界で同時に大流行になったとき、自国を支えることに必死な外国が、日本に食糧やエネルギーを売ってくれるようなことはまずないと思います。

そんな状況がすぐそばにきています。

もうじきくる大変化の時代に、今の人間が作り上げた概念が崩れることでしょう。

私達家族は、みんなが自分らしく、自然と調和できるように、楽しく生きていきたいと思います。
そうなるように私ができることを一つ一つやっていこうと思います。

みやびの成長 ⑨

2008-02-10 11:54:41 | みやびの成長 ( 親になるために )
年始早々、久しぶりにひどい胃炎になりました。
年末からいろいろと考えてしまっていたため、かなりの精神的ストレスがたまっていました。
年が明け、最初の土曜日に治療をうけ、その帰りの車で気分が悪くなりました。(治療により、いらないものがでてきてくれたのだと思います。)
吐き気と胃痛と寒気で九の字になっていました。
家に着き、すぐに横になりました。

私は中学生のころから定期的にきつい胃炎になり、夜通し吐き続け、脱水になり、点滴をうけるということがありました。現代健康研究所でお世話になるようになって、初めて1年間胃薬を飲まずにいられたというぐらいです。
今回は、久々でした。
胃炎ごときで大げさなと言われそうですが、前回の胃炎では、医師から無理しないで早めに救急車で来てくださいと入院を勧められるぐらいきつい胃炎だったりしました。

今回は、同居している母が出かけていましたので、主人は「大丈夫?病院行く?でも、今日は行くなら一人だよ、または、救急車だね。」と。
私も寛希を夜中の病院には連れて行きたくないので、なんとか朝までのりきらないとなぁ・・・と思いました。でも、そんな中でもキツイけど大丈夫そうかなぁ・・・とも思いました。
夜中になって、ますます身体が痛く、寒気と吐き気が強くなっていきました。
主人は、いろいろと優しく看病してくれました。

私はふと、以前ひどい胃炎で、母や姉が夜中まで看病してくれたことを思い出しました。

今回は母が不在だったのもあって、「あぁ・・・お母さんがでかけてなかったらなぁ・・・」と思いました。
すると、「お母さんはお母さん自身が具合の悪いとき、さみしいだろうなぁ・・・」とふ~っと思いました。

寛希が10ヶ月の時に私の母は病気で入院しました。病院への付き添いなどできる限りのことをしました。でも、心がともなっていませんでした。
娘としてやるべきことをやっているという思いがほとんどでした。
当時、姉がウツで不安定なのもあり、「私だけなんで忙しいんだ!」と思っていました。
病気で具合のわるい母をいたわる心ではありませんでした。

つい数ヶ月前かかったインフルエンザの時もご飯を作ったり、看病はしていましたが、正直いたわりの心がともなっていませんでした。

そうあれこれ思っていたら、徹夜で私のそばにいてくれて、ご飯を食べる時間もつくらせないほどに、私は母を呼んで、背中をさすってもらったりしたときのことが急にたくさん思い出されてきました。
それらはすべて、「母親の無償の愛」だったということに気づきました。

主人は夜通し吐き続けて苦しむという予想のもと、夜中にネットサーフィンをしながら私の隣で起きていてくれました。

主人に聞きました。
「こうやって看病してくれるでしょう。どんなこと思う?」
「病気に対してかわいそうとは思わない。なんにも思わない。」と言っていました。

私は母に本当に申し訳ないことをしていました。
同居が始まってから、ずっと面倒をみてやっているというなんとも横柄な気持が心の底にありました。

面倒をみてもらっていたのは、私でした。

このことに気づいたとき、涙が止まりませんでした。
布団の中で泣いている私を、寛希はうれしそうに笑ってみていました。

私は、小さいときから独立心が強く、両親に感謝する気持などありませんでした。
父に関しては、私は小学校のときから、姉のように学校でトップを争うような優秀な子ではなかったので、期待はされていないなぁと感じていました。それを感じていたためかいつか見返してやると思っていました。

でも、これは私自身の勝手な感情による記憶です。
自分も親になって寛希を育てていて気づきました。
子どもに幸せになってもらいたいと思う気持はどの親も同じだと思います。
ただ、人生で何が重要なのかという視点の違いだけだと思います。

私は何の不自由なく、何でも良いものを与えてもらい、多くのことを身につけられるようにと習わせてもらったり、いろいろなところに連れて行ってもらいました。
高校時代には本当にいろいろと心配をかけました。
相当な心配をかけていたと思います。

父からも母からもたくさんの愛情を受けて育ててもらったことに気づけることができました。

あれこれ考えてストレスを勝手に貯め込んでいた時、寛希は私のそばで寝ないで、「パパと寝る」といっていました。私が胃炎で泣いたその時から、いつものように寛希は私のそばで寝るようになりました。

今まで、ある意味自分らしく生きていませんでした。
それにより多くのストレスをため込んでいました。

でも、私も自分らしく生きていた部分は多少あります。
根底ではやっぱり自分らしく生きていたと思います。
自分がやりたいからやっていることに気づかず、しょうがないからやってあげているような思いが増していき、小さな不平、不満につながっていったように思います。

しかし、その環境や物事に取り組むという選択肢を選んだのは自分です。
自分らしく生きていた部分では、頭で考えたのではなく、多くが無意識でした。
ですから、それはやっぱり自分がやりたいからやっていたのだと思います。

私は思うがままに、理由は後付で結構自分らしくやらせてもらってきています。
その事実を私は忘れていました。

自分の心次第で全ては変るということに気づきました。
寛希をさずかり、素敵なご縁を頂き、「親の無償の愛」、何が大切なのかを学ぶことができてとっても幸せです。