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ただの日記

次は日記だ

2024年04月18日 | 日々の暮らし
 4月2日(火)

 日記のことだが、最近、数日分まとめて書くことが多い。
 いやいや、これは以前からの癖になっていることで、ちょっと何かあるとすぐ顔を出す怠け癖。それがおそらくは95%以上の原因になっているのだと思う。
 要は「だから怠けないように気を付ける」、で95%までは回避できるわけで。
 問題は残りの5%だ。不可抗力の、或いは自分ではどうすることもできない理由からそうならざるを得ないところをどう乗り越えられるか、と言う部分。

 別にまとめて書いたって良いじゃないか。
 実際、日記というものは宮中で公家が様々な行事を例年と同じく完璧に実行するために録ったメモなんだそうだ。
 それぞれの職に在って、それぞれの行事にどういった作法で臨んだか。どんな衣服で、どんな式次第で、どんな料理が並べられていたか等々を事細かに書いたのだという。
 だから有職故実(どんな職に在ってどんな実行動をしたか)を記録した物として大きな意味がある。後世の学者が研究するために、ではなく次回の行事のために記された。
 その分、そこに筆者の感情は全く述べられていないのだから、あんまりおもしろいものではなかったろう。
 
 それが紀貫之の「男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり」と、自分は女であるという設定の書き出しで始まる「土佐日記」から、行事の記録ではない、心の記録(思ったことや感じたこと)を録ることで「考え」というものが深まることに気づいた日本人が爆発的に増えた。
 三十一文字(和歌)で考えを表すよりももっと深く、もっと繊細なことも表現できる。それが「新しい」日記の形となる。
 スケールの大小を考えなければ、桑田佳祐から「英語訛りのある日本語」が市民権を得たと言えるかもしれない。近年では能く聞くと日本語だが英語にしか聞こえない歌なんかもあるそうな。岡崎体育辺り。

 また脱線した。
 「別にまとめて書いたって良いじゃないか」、だった。
 しかし、数日分まとめて書くとやっぱりただのメモになる。基本、有職故実に近くなる。自分で読み直してみても全く面白くない。
 まあ、本来の日記が仕事や行事を記録して置いて後の役に立てるためのものなんだから、別にそれで問題はない。
 しかし「ただの日記」から発展して、仕事・行事に留まらず、考えたことや感じたことを記録し、後に読み直して思いを新たにしたり、深めたりという用の方が大きくなったのが今の日記だろう?
 「あまりにもエラそうなことや大言壮語ばかり書いていてひたすら赤面するしかないから、日記なんて書かない」という言い訳もあるけど、自身を赤面させるのは過去の自分なんだから、外で恥を晒すより何百倍も良いじゃないか。過去の自分にまでいいカッコしてみせる、なんてことはしない方が良い。過去の自分は今の自分から何か言われたって畏れ入ったりはしないんだから。何しろ自分がいなきゃ未来の自分は存在できない。

 で、それならと毎日きちんと書く日記について思い返してみると、その日の小さな出来事に目が留まり、特に用もない、埒もないことをグダグダと書いて終わり、と言うのが大半だ。それって意味があるのか?ただの時間潰しじゃない?

 これまではそう思っていたけど、「その日の小さな出来事」に目が留まり、「埒もないことをグダグダと」、「ああでもないこうでもないとダラダラ書くこと」こそが大事なのでは、とここまでを読み返して思った。
 
 つまり「神は細部に宿る」、だ。
 小さな出来事が目に留まる。「それ」を「小さな出来事」と捉えるレベルが今の自分の精神(思い遣りの精髄)だ。それをグダグダ(ああでもないこうでもない)と書くことで「そのレベルなり」に思索を深めようとしていることは間違いない。その姿勢は、まとめ書きからは見出すことは出来ない。

 
コメント
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