goo blog サービス終了のお知らせ 

CubとSRと

ただの日記

松下村塾・吉田松陰 補

2022年01月17日 | 心の持ち様
 「或る先生の思い出」
           2015.04/26 (Sun)

 できの悪い学生で、90分の授業をちゃんと聞く辛抱がなく、聞いている話も私には少々以上に難しい。
 で、当然のように居眠りをする。それも「舟を漕ぐ」なんて芸当はできず、気づいた時は完全に土左衛門状態になっていて、教室の時計を見ると30分近く針が移動している。
 何が情けないといって、それでも授業の時間はまだ三十分くらい残っていると気づいた時の情けなさときたら。
 恥ずかしいのと脱力感と絶望感が大挙して押し寄せてくる。

 まあ、ほとんどの講義(まだ入学したてで、講読も演習もない)がそんな具合で、でも折角高い金払ってもらって来させてもらってるんだからちゃんとしなくちゃ、と殊勝な思いが頭をよぎり、そしてまた、講義についてゆけない頭は睡魔に容易く打ち破られ・・・・。

 そんな中でたった一つ居眠りをしない、全く眠くならない講義があった。「歴史」という講義だった。(何もなし。ただ「歴史」)
 内容はその先生の講演を冊子にしたもので、その本を一年かかって習う、というもの。
 そしてその冊子が「吉田松陰」について講演した(らしい)ものだった。

 たった一回、一時間半かそこらで吉田松陰について概容を述べたものを冊子にした。それを一年かけてやる。何ともはや、な「歴史」、だ。
 「大体そんなもの、一年もかかるわけないじゃないか。これはつまり、あれだな、書店に並ぶこともない本を数百冊だけでも教科書として買わせれば、それなりの収入になる、と。大学の先生の小遣い稼ぎか。」

 いやらしい考えの持ち主である。先生が、ではない。自分が、だ。
 それは最初の講義の時に気付かされた。つい一ヶ月ほど前までは高校生だったといっても、その人の風体、物腰、顔付きを見れば、或る程度のことは分かる。

 年季の入った地味な背広に骨と皮だけのような痩躯を包み、口元には笑みを浮かべながらも小さな目はしっかり見開かれている。決して圧力に屈することのない迫力がある。
 数冊の本をいつも風呂敷に包んで抱え、一方の手には常にコウモリ傘が掛けられている。

 講義で、この松陰のことを書かれた本はほとんど使われなかった。と言うより、数行読んだら後は先生の話を聞くだけだった。
 「話を聞く」と言っても、吉田松陰は滅多に出てこない。先生自身の事、或いは四方山話で、特に「身振り手振り可笑しく」というわけではないのに話が実に面白く、いつも気が付いたら90分が過ぎようとしている。
 別に落語や講談のような、「芸」といった感じの話しぶりでもない。ごく普通の、やや歯切れの良い話し方、程度なのに何故か惹きつけられる。

 「近頃、肩凝りを感じるようになった。それは机に向かう姿勢が悪かったからだと思う。気を付けていたつもりでも、少しずつ悪いところが積み重なって『肩凝り』として出てきたのだろう。段々に気が緩んで来てるんですね」
 「疲れてくるとやる気がなくなってきます。そんな時に、『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです」
 「先生は雨が降ってもいないのに、何でいつも傘を持ってるんですか、と聞かれるんですが、講演などに行くと暴漢に襲われるかもしれない。そんな時にはこの傘で『えいっ』と突いてやるつもりなんです」

 そういう話が面白く、全く講義を受けているという気がしない。
 だからあっという間に時間が経ってしまう。何も習ってないような気がするんだけれど、何となく「やるぞ!」みたいな気持ちになっている。
 それでこの「歴史」の講義は人気があった。

 でも、何故「歴史」なのに「吉田松陰」なんだろう。それにこんな薄っぺらい本一冊で、更にはそれをほとんど使わないで、何で「歴史」、なんだ?

 だからと言って誰も文句は言いません。文句を言わないからと言って、「息抜きの時間だ」、と馬鹿にしているわけでもない。ただその先生の話を聞いて(おそらくは)、元気になって「やるぞ!」と思っている。そんな気がします。

 あれから四十年。(どこかで聞いたフレーズですが)
 今はそれが分かります。何故「歴史」、だったのか。何故「吉田松陰」だったのか。

 ・「暴漢が来たら傘で突いてやる」、って実際にするのではない。「(その)覚悟を以て生きる」ということです。
 「傘で突くこと」ではなく、「覚悟」が大事で、自分はそれを通そうと思っている、と。
 (それを実践し、その姿を見せる。まだ大して目の見えない若者には、だから話して聞かせる。)

 ・『これじゃいかん』と『えいっ』と気合を入れるんです。
 (自分で自分を律するというのは難しいようだけど、こんな簡単なことでもしたことはあるのか。)

 ・「肩が凝るのはこれまでに積み重ねてきた悪い癖の故」
 (普段の生活を見詰めないで(日常の研究作業をしないで)、外を批判するだけで、思う結果が出るだろうか。)

 吉田松陰の生き方と重なって見えるのです。
 そして「歴史」とは、そういう目で、そういう生き方で以て見るのだ、と。
 決して己の都合の良いように解釈したり、酷い場合、書き換えたり、するのではない。今の自分(現体制、現政府)を正当化するためではない。
 「歴史」には「人の生き方」を学ぶべきであり、その実践は己の毎日(日常生活)にあるのだ。その「感性」を、その先生は我々学生に教えて下さっていた。


 「吉田松陰は偉大な教育者」、と評すべきでしょうか?
 彼の辞世の歌(注)を見ると、ただひたすらに歴史に学び、立派な日本人たらんと努めた一級の人、と私には見えます。
 弟子達は「彼の生き方」に感じて自らを育てようと努めただけなのだ、と。



 注
 松陰辞世の歌
 「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一月十七日 (再掲)

2022年01月17日 | 心の持ち様
 「地震の後(本然の日本人)」
              2015.01/18 (Sun)

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1月17日。
 頭から布団をかぶってうとうとしていたら、この狭い住宅地の道を、ダンプカーが走るような「ゴーッ」という音が聞こえてきた。

 寝ぼけた頭で「う~、こんなに朝早くから仕事か」と思った途端、
「ドーン」という音がして、からだが真下からえらい勢いで突き上げられた。寝たまま10センチくらい浮き上がったんじゃないか、と思った。

「あのダンプ、このアパートに突っ込んだ!」とひらめいたが、「ダンプ、下から突っ込むか?」「え?地震?」「縦揺れ、一回だけ?」となるのに0,5秒はかかってない(と思う)。

 待ち時間なんかなくって、今度は強烈な横揺れ。で、やっぱり地震だ!と確信。でも、跳ね起きるどころではない、酔っ払ってひっくり返って、あれ?と思っているところを、「おい!大丈夫か!」と、筋肉マンに両肩つかまれてものすごい力で揺さぶられている状態。

 「天井が落ちてきたら終いだ。これで終わりか。こんなに早く死ぬなんてなあ」などと覚悟を決めようと思っている間中、ゆさぶられている。

 間隔が空くようになって、起き上がろうと思うのだが、身体が思うように動かない。何かの下敷きになっているらしい。
 なのに、不思議と痛みはない。モゾモゾしているうちに、だんだん身体の動く範囲が広くなった。暗い中、目を凝らして見ると、二つある背丈ほどの本棚から飛び出した本が、布団の上から抑え込みにかかっていたのだった。本棚はそこから一メートルは離れているのだが、そのままだ。
 本の下敷きになって「死ぬかも」と覚悟を決めようとしていたのだ。

 あとは、飲み残した牛乳のパックが倒れて炬燵の上にこぼれていたり、天井の蛍光灯がダメ押しみたいに本の上に乗っかっていたりしたくらいで、器物の破損は全くと言っていいほどなかった。食器戸棚はもともとないし、第一、食器そのものが、僅かしかない。

 それまで、地震なんてちっともコワくなかった。「今は2ぐらいだな」「今のは3くらいあったか?」なんて思っていたけど、この日以来、毎日100回前後起こる余震に、緊張するようになった。


 職場に行って、阪神高速道路の高架が数百メートルにわたって倒れているのを「???何?あれ。冗談?」としか、見られなかった。パニック状態、思考停止状態だったわけだ。

 その日のニュースで、「住民はコンビニやスーパーの指示に従って、一列に並んで静かに待っていた」ことを知った。列に割り込む者は一人もなく、一人で食料を買い占めたりする者もなかった、という。
 以降、避難場所では、支給された毛布が全員にいきわたらない事を知った人々が、あとから来た老人に次々と譲っていったことや、不登校だったり引き籠りだったりした生徒が率先してトイレの掃除をしたり支給品の配布を手伝ったりしはじめたこと、などを知る。
(このことがヒントになって、神戸では中学生の「トライやるウィーク」という職場体験学習がはじめられ、今、全国に広まっているのだとか。)

 その一年前の同月同日。ロサンゼルスで大地震が起きている。死者数十名。暴動が起き、略奪も多発した。
 兵庫県南部地震では、結局、6,500人が亡くなった。しかし、暴動も略奪もなかった。続けて起こった鳥取、新潟の地震でも、同じだ。

 勿論、恥ずかしくなるような行動も、同じく、ある。
 「ガソリンは大丈夫」と言われるのに耳を貸さず、せめて自分の家だけは、と長蛇の列をつくってガソリンスタンドを休業させてしまった人々。
 「これは記録のためだから」と被害の大きな街に行って写真を撮りまくり、フィルムの箱やケースをその場に投捨てて帰る人も。                          
                    (2010年1月15日の日記)


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「頑張れ、言うな。頑張っとるんや!」
 十五年前の地震の後、よく聞くようになった言葉です。
 
 成る程なあ、と思う反面、何かしら釈然としないものがありました。

 「戦友」という軍歌の中に
 「しっかりせよと抱き起こし 仮繃帯も弾丸の中」
 という連があります。大怪我をした戦友について歌った箇所です。
 「傷は浅いぞ。しっかりしろ!」
 大怪我をした人には、こう、声を掛けるものだそうです。こう言って叱りつけるようにすると「なにくそ!」という気がわくのだとか。
 反対に
 「ひどい傷だ。かわいそうに」
 とありのままを言うと、大概は気を失って、後はもたない、といいます。

 人の心も同じようなところがあります。
 私は三十代半ば過ぎの頃、母を亡くしたのですが、もうあぶないからとの連絡を受けて勤務地から田舎に帰る時、平静を保てる、と思っていました。
 田舎の駅に着いた時に既に死後半日が過ぎていたことを知りましたが、まだ平静でいられました。
 けれど帰宅し、実際に母の遺骸を見ると、涙を止めることができませんでした。
 なんと情けないと思いながら、でもどうすることもできなかった。
 二日ほどは突然涙が流れ出すのです。
 本当に信じられないことでしたが、感情の制御が全く利かない。

 伯母から、
 「じっとしていてはいけない。次々に色々なことをして気を張っていれば落ち着くものだ」
 、というようなことを言われ、先人は本当によくもまあ見事に智慧を出して乗り切ったものだなあ、と実感し続ける毎日を一週間過ごしました。

 人は助け合って生きています。言うまでもないことです。
 「助けてやろう」という気持ちなんかこれっぽっちも持ってなくっても助けていることに思いを致してみると、同時に、支えてもらっているなんて全く考えず、支えられていることもあることが分かります。
 それが社会です。無意識のうちに助け合い、支え合っている。

 となると今度は、助けたいという気持ちがいくら強くっても助けることができない場合があるどころか、単に迷惑がられるだけということもあるという裏の形も見えてくる。
 支えてもらいたいと思ったって支えてもくれないし、却って迷惑なことばかりされて邪魔なだけ、ということもある。

 しかしそれはそれとして、社会をつくり、その中で生まれ、育って来ていると
 「頑張れ!」というのは人の善意だ、ということは分かっている。
 だから心の中では
 「言われずとも頑張っとるわい!」
 と思ってもそれを言っちゃお終いだから、
 「ありがとう。頑張るよ」
 と言う。それが日本人です。だから、結構ストレスは大きい。

 そこで「頑張れ、言うな。頑張っとるんや!」と怒る。或いは心の中で憎まれ口を叩く。
 かみつく気持ち、怒り。それはそれで意味がある。それが「気を張る」ということですから。言ったら良い。擦れ違ってケンカしたら良い。

 けれど、これ、額面どおり
 「頑張れ、言うな。頑張っとるんや!」
 と言われたからといって、
 「そうか。それもそうだな。気遣いが足りなかったな。これからは二度と『頑張れ』なんて言わないようにしよう」
 となったら、じゃあ、何て言うんです?
 「傷は浅いぞしっかりしろ!何だ!このくらいの怪我で!弱虫め!」
 ここまで罵倒して、頑張らせるのと同じ言葉、ありますか?
 
 我々の先祖は、そこで「おかげさまで」と言ってきた。
 だから我々は「我欲」とまではいかずとも、「我」が出るのを「おかげさま」と言った拍子に少しだけ冷静になり、抑えることができ、謙虚さを取り戻すことをしてきた。

 ちょっと喩えは違いますが、火葬場に来て、死んだ妹を背中に括りつけたまま、涙一つ見せず直立不動で順番を待っていた少年の写真を見られた方、多くあるでしょう。
 彼があれだけ頑張れたのは周囲の大人の、又、あの場所に居合わせた大人の立派な態度があったから、ということも考えなければなりません。
 良い意味で「この親にしてこの子あり」、です。立派な日本人の大人があって、立派な後進が育つ。立派な大人の下で、立派な子は育つ。
                     (2011年3月17日の日記)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 辛抱してここまで読んでいただいてありがとうございます。

 あの地震から二十年。
 はっきり感じるようになったのは、我々日本人というのは、とても繊細で、だから、とてもか弱い心根を持った民族だということです。
 とてもじゃないけれど、大陸の図太い神経(鈍麻した、というべきでしょうか)を持った人々と太刀打ちはできません。彼らは常日頃から死の恐怖に晒されてきたのですから。
 けれどそれが、大陸の人々が我々を侮蔑する理由にはなりません。
 勿論、我々が自身を卑下する理由にもなりません。

 あの地震の際、小学校などに避難した人々には毛布一枚が配給されたところもあったそうです。神戸だって一月半ばの夜は冷え込みます。毛布一枚がどれだけ助かるか。
 でも、本当ならある筈なのに、避難者の中、並び遅れた年寄の分はもうなかった。海外難民は二枚も持っている者がいるのに。
 けど、気落ちし、諦めている年寄に「おれ等は若いから」と配給された毛布を譲った住民が何人もいて、結局年寄は寒い思いをしなくて済んだのだとか。

 「がんばれ」と言われたら「頑張っとるわぃ!」と思う。そう思ったことを「あの人、悪気で言うたんとちゃうのに。ワシ、やな奴やなァ」と反省もし、また頑張るんだけれど、緊張の糸が切れてしまったら一遍に落ち込んでしまう。
 「だから、自分をもっと認めて、ほめてあげなきゃ」と、今日もテレビで言ってました。

 そうかな?ホントにそうかな?
 日本人はか弱い。けど、他人のことになると力を発揮する。
 これは「他を大切にする」という日本人の特質です。
 他を大切にするからこそ、「結局巡り巡って、自分が生きていける、いや、生かされているのだ」、と感じることができる。
 か弱さ・繊細さと思い遣りは表裏一体です。そういうことをこそ、もっと見なければならないのではないか。

 将に「情けは人のためならず」、で、我々日本人は神武創業以来、助け合い、支え合って生きてきたのではないか。
 「忘れてはならない」「語り伝えよう」
 ということ以上に、
 「あの時の深切を忘れない」「次は自分が誰かに返そう」
 となるのが日本人なのではないか、と思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする