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ただの日記

「市民」とは何か (再掲2)

2021年07月12日 | 心の持ち様
「市民運動」(後)
                 
  2011.04/08 (Fri)

 「市民のために命をかける覚悟」と渡部昇一氏は書いておられる。
 それには
 「命をかけて遂行するという覚悟が必要なのである」
 「市民は命をかけて守り抜くべき存在なのだ」
 という意味が含まれている、と捉えた。

 「国のために命を捧げる」と同じく、「市民のために命を捧げる」?
 愛国心と同じく「愛市民心」?
 語呂が悪いけれども、とにかく「命をかけて守るべきなのが市民」ということになる。そうなると、この市民、「労働者、プロレタリアート」ではない、と見た方が良かろう。
 それでやっと「市民」というのは、「市に居住している者ではあるけれど、「農民」とか「村民」に対する「市民」ではない、と気がついた。
 市民とは「市」に住んでいる者だけれど、対するのは「市に住むことを許されない者」なんです。農民ではない。ましてや、村民ではない。市の外に村なんか、ない。そんな「市」。そこの「民」。
 「市民のために命をかける覚悟」という場合の「市民」とは、「市」、即ち「都市国家(ポリス)」の住人を言っているのです。
 つまり、「市民のために命をかける覚悟」というのは、「国民のために命をかける覚悟」という意味だったのです。
 そうすれば、前回に挙げた渡部氏の一文も納得できる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  「~ところが菅さんら『市民運動家』が、これまで主張してきた『市民』なるものは、無責任極まりないものでした。『市民のために命をかける覚悟』もなく、ただ、何となく『市民』という言葉を使っている。~」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「~これまで主張してきた『市民』なるものは無責任極まりないものでした。」

 市民運動家の言う『市民』とは、市民運動家が都合の良いように扱う「労働者(無産階級)」のことなのか、「ポリスの主人たる市民」のことなのか、はっきりさせずに来た、と渡部氏は言っているのです。そして、これは故意にやって来たことだ、わざとはっきりさせなかったのだ、と。

 わざと「国民」とは呼ばずに「市民」と呼んで来た。「主役」ととれば、ポリスの住人。自ら武器を持って戦う。戦われたら、功は手柄を立てた者にいくから、市民運動家の立場も目的も横取りされてしまう。
 反対に「労働者、プロレタリアート」ととれば、戦うことはないけれど、市民運動家が「善導」しようとしたら、「同じ人間だ!バカにするな」と騒ぎ出す。(この場合の「善導」は、結果として市民運動家がトップに立つことを目的としています。「善導」という言葉でそれを隠蔽しているわけです。だから、これも言い換えれば「陰謀」、ですね。)

 ポリスの市民は自立しており、言うことを聞かない。近代の市民は人権に目覚め、言うことを聞かない。(目覚めさせたのは市民運動家です)
 だから、これまで「市民」の意味を曖昧なままで、やって来た。つまり、基本、根底の部分に真実を隠す体質が「プロ市民」にはある、ということです。
 些か煽情的な表現をすれば、陰謀を旨とする体質を元々、持っている。

 「何故、市民運動と言うんだろう」
 本当はプロ市民主導による社会変革工作なんだけれど、表立っては言えないからです。
 「何故、市民運動家と言うんだろう」
 本当は革命のための活動家なんだけど、表立って言うと、みんな退いてしまうからです。
 「何故プロ市民、と言うんだろう」
 これは、単に「プロの活動家」、だから。でも、これは、彼ら自身が言い始めたのではありません。



 渡部氏の一文から「市民」の本意を隠してやって来た彼ら活動家、そして、彼らの活動には基本的に都合の悪いことは隠す、又は曖昧にしたまま流す、という体質がある、と分かりました。
 「国民」を否定したいがために、「市民」という言葉を曖昧にして使い続けていた彼らに、国政を委ねた結果、今、日本は大変な国難に遭遇しています。

 「史上最低の宰相」
 ものすごい題名、と初めは思ったものの、いや、確かに、そうかもしれない、そのままかもしれない、と今、思っています。



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