3回目です。
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(読者の聲6)
「『反日レイシズムの狂気』、その3」──ジャパンズ・ホロコーストの正体を暴く
第2章 歴史事実が示す「日本軍が勇敢で強かった理由」
リッグの日本人観は「まさに自分たちは神の許しがあると信じていたからこそ、近代の如何なる権力も行ったことがないような最もグロテスクな残虐行為を喜んで行う国民を生みだした。」(p. 25) というものであることを第2章でご紹介しました。
このとんでもない反日偏見の極みであるレイシスト的な観方がいかに根拠のない虚説であるか、ということを示す歴史的な事実を見ていただくことにします。
1900年に、義和団の乱が起きました。極端な排外主義、反キリスト教主義を掲げる宗教結社である義和団が、山東省でイギリス人宣教師を殺害し、キリスト教会襲撃、殺害を行いながら北京に迫ってきました。
北京における8カ国の公使館会議は各国30名ずつの海軍陸戦隊隊を招致し、公使館と居留民の安全を守ることを決議しました。6月2日総数442名が北京に入城し、民間有志も加えた籠城軍を結成して義和団軍の襲撃に備えることにしました。
しかし、圧倒的多数の義和団軍との戦いは困難を極めました。さらに、何と清国が義和団を支持して、8か国に宣戦布告してきたのです。8か国は救援軍を派遣しましたが、清国軍に阻止され、なかなか北京に到達できません。
籠城から、2か月後の8月14日、ようやく連合軍は北京入城を果たしました。その日の午後第1回の列国指揮官会議で、イギリスのマクドナルド公使が冒頭あいさつで「武器、食料の窮迫、守兵の不足、しかし将兵の勇敢さと不屈の意志、不眠不休の働きによって、ようやく救援の連軍を迎えることができた」と述べ、そして「北京籠城の功績の半ばは、特に勇敢な日本将兵に帰すべきものである」と付け加えたのでした。
連合軍は占領地区を分担して治安の維持を図りましたが、その中いち早く治安を回復し日常が戻ってきたのは、内城の北畔、即ち日本軍の占領地区でした。
そのため、他国軍の占領地域から日本軍の占領地域に移り住む北京市民も少なくなかったのでした。連合軍の間でも評判となり、アメリカ軍指揮官はわざわざ視察を行い、「治安の方法について教えを乞いたい」と芝中佐に依頼しているのです。
このように、義和団の乱における日本軍の在り方を見ることに依って、リッグの前提となっている冒頭に述べた日本人観は、独断と偏見、日本人蔑視に満ちたレイシズムに基づく虚論であるということが完全に証明されたということです。
何しろ、世界の主要8カ国によって、そして北京市民によって日本軍の勇敢さと規律正しが立証されているのですから。リッグの日本人観は根底から覆された、ということです。
・日本語原本『反日レイシズムの狂気』(ハート出版) :https://amzn.to/4jydD5N
・第2章(英訳文): https://www.sdh-fact.com/CL/antij3e.pdf
(茂木弘道)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和七年(2025年)7月30日(水曜日)
通巻第8890号 より
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