水川青話 by Yuko Kato

時事ネタやエンタテインメントなどの話題を。タイトルは勝海舟の「氷川清話」のもじりです。

・『英国王のスピーチ』なぜライオネルと呼ばないのか 本物のスピーチ音声なども

2011-03-01 21:00:17 | エンタテインメント系

『The King's Speech(英国王のスピーチ)』を観たわけです。ネタバレと言えるほど驚き要素のある映画ではないけど一応、観る前に予備知識が入るのが嫌いな人(たとえば私)もいるだろうから、Twitterではなくこちらで書きます。というか、Twitterには長過ぎる、これ。

アカデミー賞の作品賞や監督賞にふさわしいかはさておいて、英国好き、英国史好き、特に20世紀の英国史好きにはかなり面白い作品だった。コリン・ファースとジェフリー・ラッシュのブロマンス(bromance)ぶりも可愛いし。コリン・ファースは確かにオスカーに値する名演だったと思うし(コリンの受賞スピーチはこちら)。それに、そもそもオスカーってああいう作品(愛情や友情に支えられながら、高い使命に向かって困難を克服していくヒューマンストーリー)が大好きだよね、という意味では実にアカデミー賞らしい映画だった。

なのに私が一番好きな台詞は、バーティことヨーク公アルバートが父王に口答えする、「We're not a family, we're a firm(うちは家族じゃありませんよ、会社です)」だった。つい声をあげて笑った。周りの人、ごめんなさい。実に巧みに、英王室を言い表してると思ったので。

さらに、見る予定の映画や芝居についてはなるべく事前知識を入れないようにする習性なので、出ていると知らず、観てびっくりしたのが、ジェニファー・イーリー! ライオネルの奥さん役。最初に出て来たとき、思わず小さく「あ!」と呟いた。ジェニファー・イーリーといえばコリン・ファースの代表作『Pride and Prejudice(高慢と偏見)』の主役エリザベスなので。ダーシー役のコリンとしばらくつきあっていたこともある女優さん。その彼女を久々に見て、わあ!と。彼女がコリン演じるバーティといよいよ対面する場面では、こっちはもう静かな興奮状態だった(もひとつ、ビートルズ・ファン的には彼女は「Backbeat」でジョンの奥さんになるシンシア役だったのだが、それはまた別の話)。

ところで、『眺めのいい部屋』を何度観たか分からない人間にとって、ヘレナ・ボナム=カーターは常にあの映画の「ルーシー」が原点なわけだが、当時の早口は今でも相変わらずで、見るたびに微笑ましい。そしてそのヘレナが今や国際的スターとなったのは喜ばしい限りだし、彼女がジョージ6世の奥さんことQueen Mum役というのはとてもナイスなキャスティングだとは思う。だんだん太っていく様子も描いてたし(笑)、顔の輪郭も似てるし、なんといってもヘレナは自分自身がUpper Middle とUpper 階級の中間くらいの出身(第一世界大戦中のアスキス首相につながる家系)で、あの階級独特の発音が当たり前のようにできるから、説得力がある。その上であえて言うが、「似てる」という意味で言えば、ジェニファー・イーリーがQueen Mumをやっても、かなりいけただろうなと思った。ただし、コリン・ファースと夫婦役というのは『Pride and Prejudice』の因縁がありすぎて、やりすぎ感はあったかもしれないけど。楽しいが(ちなみにこちらに、ヘレナが似ていると思うエリザベス王妃の写真や、映画の二人がよく似ていたなあと分かるウィンザー公エドワードとワリス・シンプソンの写真など)。

役者うんちくを続ければ、マイケル・ガンボンのジョージ5世も良かったっすな。ジョージ5世の崩御場面をドラマや映画で観るのは初めてだったので、そのドラマ性にドキドキした。そしてデレック・ジャコビの老け込みっぷりに驚く。チャーチルは……ちょっとひどかった。似てる似てないというより、チャーチルのパロディになってしまっていて。有名すぎる、巨大すぎる存在なので、仕方がないけど。歴史的にも、あんな好々爺じゃないし。バーティ支持者だったわけでもないし。チェンバレンをあれしか出さないなら、チャーチルはいっそ出さない方が良かったんじゃないか? 「ほら、いますよ」的に時代の記号として出されても、絶対に不満が残るのだから。「第二次世界大戦、イギリス=チャーチル」という記号として、いた方が分かり易いのは分かるが。

まあ、そういう歴史的なあれこれはともかくとして、この映画は「bromance(brother+romance)」なわけだ。最近よく使われるようになった表現だが、恋愛ではない深い男同士の友情ものという古典的な題材を意味する。しかも、国王と平民(しかも「植民地」出身! 「まあお下劣! 囚人の子孫め!」と言わんばかりの見下しっぷりがすごかった)という困難なロマンス。

その階級に隔たれた困難な「bromance」っぷりを語る上での必須要素が、「ライオネルと呼んで下さい」云々。最後まで続いたこの駆け引きが、この映画のかなりなミソだと思う。結局、呼ばなかったよね?(違ったら失礼) 「大事な友達だ」とは言ったけど「ライオネル」とは呼ばず、最後まで「ローグ」と。それに答えてライオネルも最後に心を込めて「Your majesty(陛下)」と。これってけっこう大事なやりとりだと思うので、ちょっと私なりの解説を。

これまたその昔に何回観たか分からない『モーリス』でも(E.M.フォースターの原作でも)、ファーストネームで呼ぶかどうかが、けっこう大事なポイントだった。要するに、戦後いつごろまでか分からないけど(50年代ごろかな)、イギリスの中産階級以上の男同士は家族・親類や幼なじみ以外は、ファーストネームでお互いを呼ばなかったので。どんなに大親友でも、対等な関係の男同士は相手を姓で呼ぶ。あるいは姓をもじったあだ名で呼ぶ。第一次大戦前を時代設定にしている『モーリス』の場合、男同士が恋愛関係になる前は姓で呼び合い、恋愛関係になると名前で呼び合っていたのが、いかにもで、大事だったのだ。

一方で『The King's Speech』はブロマンスではあるが、恋愛ものではない。だからライオネルが「ライオネル、バーティでいきましょう」と言うのにフォースター的な同性愛的な意味はないのだが、1930年代のイギリスの男同士では(相手が王子でなくても)「ええっ、馴れ馴れしい」と思われても仕方がないことだ。「治療の場では対等です」というのが理由だとしても。これはアメリカ人より日本人にとっての方が分かり易いだろう。初めて会った医者にいきなり「じゃあ、あなたのことを太郎と呼ぶので僕のことも秀樹と呼んでください」と言われたら、めんくらうだろう。まして王子なら。そして日本人の男同士がかなり友達になっても、なかなか「やあ、太郎」「うっす、秀樹」とは言い合わないように、当時のイギリスでも男同士は名前で呼び合わないのだ。家族や幼なじみ以外は。

さらに面白いことに、上流(Upper)階級や上流中産(Upper Middle)階級は、自分たちに仕える男性使用人(執事、従者、庭師、猟場番、などなどなど)を姓で呼んだ。「Smith」とか「Jeeves」とか、そういう(女性使用人は、若い内はファーストネームで呼び、年を取るとMrs.Smithなどと呼んだ)。なので、バーティがライオネルを「ローグ」と姓で呼び続けたのは、「対等な友人として」ともとれるし、「使用人として」ともとれる。そのどっちつかずな感じが面白い。

最後にスピーチを無事終えたジョージ6世が、ライオネルを「ローグ」と呼んでから「友人だ」と言ったのは、どういう気持ちを込めていたのか。使用人としてと、友人として、の両方が交錯している気がする。そしてそれにライオネルが「Your Majesty」と答えたのは、「いえ私たちは対等ではありません、私はあなたに仕える者です」と言外に言ったのだともとれる。もちろん「あなたを国王として認めます」も含まれるし。

かくして、なんでもかんでもファーストネームで呼び合う今のアメリカやイギリスの社会は簡単でいいけれども、こうやって呼び方一つにも色々な意味が込められた時代というのは、ドラマが作り易いよねと思うわけだ。


ご参考まで。去年暮れにも紹介したけど、日本公開&アカデミー賞記念で再度。1938年に大観衆を前にしたジョージ6世の演説映像はこちら。そしてこのBBC記事から本物の「英国王のスピーチ」が聴けます。コリン・ファースがいかにこれを研究したか、よく分かる。言葉が出てこなくなるほか「r」音と「s」音が正確に出せない、英語圏の人に典型的な発音障害。どこかでコリンが言っていたけど、ジョージ6世は自分の吃音を隠そうとしていたのだから、障害をあからさまではなく再現するのが大変だったとのこと。それと似た話で、ジェフリー・ラッシュが劇中でリチャード3世やカリバンを「下手」に演じるのが、上手だったな。複雑。ヨーク公爵夫人と会った直後にリチャード3世の「made glorious summer by this sun of York」の台詞を言わせたのも、ニクイね。

さらに、映画にも出てくるエドワード8世の退位演説がこれ。ガイ・ピアースがこれをよく研究したのもよく分かる。


最後に。国王即位が決まって軍服の礼装姿で帰宅したバーティに、娘たちがcurtsey(王侯貴族を前にした女性が片膝をちょっと曲げてする挨拶)をして、パパーのことを「Your majesty」と呼ぶくだり。娘たちに「陛下」と初めて呼ばれたジョージ6世が、長女のエリザベスを見つめるあの表情、抱き締めて頭にキスするあのくだりが、何よりグッと来た。すべての歴史は現代史だという、まさにその瞬間。

(ついでに長年の「My Fair Lady」フリークとして言うと、口にマーブルを入れて本を読ませて「デモステネスには効きました」というくだりや、歌を歌わせながら発音を矯正するとか、朗読させた声をレコードに録音するとか、まるっきり「My Fair Lady」というか「Pygmalion」そのもので、その点でも「おおおおお」と思っていた)。