水川青話 by Yuko Kato

時事ネタやエンタテインメントなどの話題を。タイトルは勝海舟の「氷川清話」のもじりです。

・We are more alike than we are unalike

2013-10-07 13:31:01 | 日々是日常

昨日「英語にも丁寧表現はあるやい」「英語圏にだって目上を敬おうぜの精神あるやい」で吹き上がったことの補足。これ以上の連投はさすがにうざいと思うので。

 

「Is the glass half empty or half full?」という英語の慣用句があります。「その杯は半分しか入っていないのか、半分も入ってるのか」という。人生観とか世界観の表現として、英語圏でとてもよく使われる(語源は四書五経など中国古典じゃないかと思うんだけど、どうだろう)。

「英語には日本語の◎◎表現がない」と言うのか、それとも「英語では◎◎を日本語とは違う形で表現する」と言うのか。「英語圏の人は日本人とはこんなに違う」と言うのか、それとも「英語圏の人は日本人と色々違ってるけど、でもけっこう似てる」と言うのか。「こんなに違う」か「けっこう似てる」か。

異文化での生活や異文化との接触において、確かに最初のうちは違いばかりがやたらと目につくのは、だって人間だもの。文化が違う、言葉が違う、声が違う、ほくろが違う~、あ、あ、あ、イミテイションゴールド~♪ じゃないけど(古いけど名曲)。でもあの百恵ちゃんの歌の彼女は「去年の人にまだ縛られてる」と自認しているわけです。同じように、「日本ではこうなんだ」に縛られて、日本語とまったく同じ表現が英語にはないから言いたいことが英語で言えないとか、日本と同じように敬語を使ってほしいのに使ってくれないからイライラするとか、「違う違う違う」の考えに縛られている間は、「あ、あ、あ」と軽いめまいを感じ続けるだけじゃないかと思います。ほんとに。

外国語を使うとか異文化で生活するというのは、まさにジョン・ル・カレの言う「To possess another language, Charlemagne tells us, is to possess another soul(カール大帝いわく、言葉をもう一つ会得するのは、魂をもう一つ会得することだ)」。最初のうちは頭の中で日本語を別の言語に置き換える作業をしていたとしても、できることならゆくゆくは英語圏なら英語で考え、英語的な考え方や価値観をも自分のものにできると最高。そういう段階が目指すべき状態としてある。日本人としてそれをやればまさに、日本人の魂にプラスアルファが加わり、より豊かに幅広くなれる。外国語を学んで、外国語を通じて異文化を吸収するとは、そういう「魂をもう一つ」手にする可能性に手を伸ばすことだと、私は思ってます。

だって人間だもの。ちょっと気を抜けば、隣の中学同士や隣村同士で「あいつら俺とは違う」といがみ合いたがるのが。まして使う言葉も見た目もたどってきた歴史も違うのだから、敬意の表し方とかは違って当然。昔はお互いのこと「鬼」や「蛮族」「禽獣」呼ばわりしていたくらいだから。でもどんな社会でも、他人への敬意は社会の基本要件としてある。同じ人類なんだから共通項はいくらでもある。これが、私の世界観です。

帰国子女なのでそう思わなければ楽しく暮らせなかったのかもしれないし、「異質な者との共存」を大テーマとする「スター・トレック」を何十年と見続けてきたからかもしれない(無限の多様性の組み合わせから成る無限の可能性を祝う——というのが、あの世界の基本)。

「スター・トレック」が生まれた時代、アメリカは人種差別とそれに対する反発から国が分断されそうになっていた。その1960年代の公民権運動に参加し有名となったアメリカの歌手で作家で詩人のMaya Angelouという人がいます。93年にクリントン大統領就任式で詩を朗読するなど、アメリカでは国民的な存在です。そのマヤ・アンジェロウが90年に発表した詩集の中に、有名な「Human Family」という詩があります。「私たちはみんな違う。世界中を旅しても、そっくり同じ人になど会ったことがない」と始まり、こう続く。

"We love and lose in China,  私たちは中国で愛し失い
we weep on England’s moors イギリスの荒野で涙する

and laugh and moan in Guinea, ギニーで笑い呻き
and thrive on Spanish shores. スペインの浜で元気になる

We seek success in Finland, フィンランドで成功を求め
are born and die in Maine. メインで生まれ死んでいく
In minor ways we differ, 私たちは小さい形では違う
in major we’re the same." でも大きくは同じ

 

そして最後には、アメリカでは有名になったこのフレーズが繰り返される。

"We are more alike, my friends, than we are unalike.” (皆さん、私たちは、違うところよりはむしろ似てることの方が多い)

 

……なんとなく、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」をも思い出します。中途半端な知識で「あれも違うこれも違う、ダメだダメだ~」と否定ばかりするのか、「違うけど似てるし、違うけどその違いが面白い」と肯定するか。そのコップには飲み物が半分しか入ってないのか、半分入っているのか。コップの中身をどう見るかの違いの方が、日本人かそうでないかの違いよりも大きい、日本語か英語かの違いよりも遥かに大きいと、私はそんな風に思ってます。