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南英世の 「くろねこ日記」

徒然なるままに、思いついたことを投稿します。

官製相場とユニクロ株

2021年03月22日 | 日常の風景
ちょうど1年前、コロナの影響で世界恐慌にも匹敵する大不況が来るのではないかと予想した。しかし、不況対策として大幅な金融緩和が実施されたため、予想に反して株式市場は活況を呈している。

とくに日銀が相場を支えているのが大きい。日銀の年間の購入額は、一昨年までは6兆円だったが、2020年3月にはコロナ対策として12兆円に増額された。値下がりすると日銀が買い支えるものだから、実体経済と乖離していても資金が株式市場に流入しやすくなっている。
ただし、日銀が個別の会社の株を買うのは流石にまずいでので、たくさんの会社の株がセットになっている上場投資信託(ETF)を購入する。そのセットの中にユニクロも入っており、現在ユニクロの最大株主は日銀で、その持ち株比率は20%にも達している。このほかにも日銀が実質的な最大株主となっている企業は多い。

しかし、日銀が主導して株価を吊り上げるなどという行為は、株式市場の本来の価格形成能力をゆがめるものであり、好ましくないことは言うまでもない。日銀もこの点は自覚しており、どこかで出口(手持ち株式の売却)を作る必要がある。

そうした矢先、2021年年3月19日、日銀は買い入れ対象から日経平均連動型の上場投資信託(ETF)を外し、あわせて年6兆円としてきた購入額の目安もなくすと発表した。今、なぜこのタイミングなのかはよくわからないが、これをきっかけにユニクロをはじめ株式市場は急落しはじめた。

コロナワクチンが普及して、コロナ騒ぎが一段落すれば金融相場は終わりを迎える。今回のETF購入修正はその第一歩か?「株式投資は儲けようなどとは思わず、損をしないことを旨とすべし」。50年の投資体験から得た結論である。損をしないための絶対的方法は? 株を買わないことである(笑)。


武器としての資本論

2021年03月21日 | 日常の風景
「武器としての資本論」 白井聡 東洋経済 2020年 を読んだ。面白かったので以下その概要を記す。

歴史とは自由と理性が実現されていく過程
 ヘーゲルの弁証法を理解する例としてわかりやすいのは、つぼみから花が咲くという生命現象である。つぼみはつぼみであるが、いつまでもつぼみであるわけではない。つぼみ自身につぼみであることの否定が含まれている。つぼみでありながら(正)、つぼみでないものになろう(反)としている。この矛盾が止揚されてより高度な「花」になるのである。
 自由と理性も弁証法的な矛盾・対立を経て徐々に実現していく。ヘーゲルによれば「歴史とは自由と理性が実現されていく過程である」という。そして彼は、ナポレオン戦争はまさしくフランス革命の理念をヨーロッパに広げていくものであると見た。

 自由と理性をめぐる闘争は20世紀に入って東西冷戦という形で現れた。しかし、フランシス・フクヤマはソ連崩壊後「歴史の終わり」として、その決着がついたと述べた。市場経済と民主主義が勝利をおさめ、これ以上の世界史的理念はないと考えたのだ。

新自由主義の本質
 ところが、1990年代以降、新自由主義の名のもとに格差の拡大が露骨な流れになっている。新自由主義の下で資本家は肥え太り、労働者は非正規雇用となり戦後獲得した権利を次々と失っていった。これは資本家階級から仕掛けられた階級闘争である。労働者は「階級闘争なんてもう古い、そんなものはもう終わった」という言辞に騙され、ぼーっとしているうちに一方的にやられてしまった。

 新自由主義とは、資本家階級が自分たちの取り分を取り戻すための「再分配の闘争」であり「上から下への階級闘争」であり、その目的は労働分配率を低下させることである。そしてその手段として、規制緩和、競争、小さな政府、自己責任が強調され、教育や医療すら商品化されてしまった。

資本論が教えるものとは?
 これに対して資本論が我々に教えてくれるのは労働分配率の低下を食い止め、労働者階級がすっかり忘れてしまった「下から上への階級闘争」を取り戻すことである。すなわち新自由主義を打倒することである。

 その際、どのような社会を目指すかが問題になる。ソ連型の社会主義はうまくいかなかった。しかし、社会主義はソ連型だけではない。スカンジナビア諸国のような社会民主主義という形態もある。社会主義とは要するに、「国家による平等化を図る体制」であって、生産手段の国有化という国家の介入の度合いが強いものから、累進課税や労働者保護立法など国家の介入の度合いが比較的弱いもの(これらは一般的に「修正資本主義」と呼ばれる)までさまざまな形態がある。また「社会主義」という言葉が禁句であったアメリカで「リベラリズム」と呼ばれるものも、実質的には社会民主主義である。

新自由主義に取り込まれた労働組合
 戦後、GHQの経済民主化政策によって労働組合運動の合法化が認められた。しかし、冷戦の下で労働組合運動は社会主義イデオロギーを持っていたため「逆コース」が進行する。経営側と保守政治勢力は、戦闘的労働組合をソ連の手先であるとして、労使協調型の労働組合(いわゆる第二組合)を作り、戦闘的な労働組合と対抗させたのである。その結果、戦闘的労働組合の力を弱体化させることに成功する。戦闘的な労働組合の最後の牙城であった国労(国鉄労働組合)も、中曽根政権による国鉄の民営化によってとどめを刺された。1989年に成立した「連合」(日本労働組合連合会)は正規雇用者の権利のみを守り、非正規雇用者の権利を守ろうとしてこなかったという意味で新自由主義に協力する正体不明の労働組合というべきだろう。

 資本の目的は、資本そのものが増えることであり、人々を豊かにすることではない。イノベーションやAIの導入によって労働生産性が上がっても、人々の生活は楽にはならない。江戸時代に比べれば現代のほうが何万倍にも生産力が上がっているが、労働時間はかえって現代のほうが長い。資本論には生きづらいこの世の中を生き延びるためのヒントが隠されている。


(追記)
以下、上記の記述を補強する3つのデータを掲載しておく。

① 累進課税の最高税率の変遷


② 日本における累進課税の最高税率の変遷(所得税)


③ 所得が1億円を超えると税負担率は低下する(日本の例)




件名・結論・詳細

2021年03月16日 | 日常の風景
今から10年ほど前、NHKのアナウンサーによる2日間の有料講習を受けたことがある。すごく有益だったので紹介したい。
教員は話すプロであるにもかかわらず、残念ながら研修のほとんどは授業内容に関するものばかりで、伝え方の基本をきちんと学ぶ機会は全くない。教員の場合、授業のほかホームルームで連絡をしたり、体育館でみんなを集めて話をしたりするなど、大勢の前で話す機会は多い。そういう場合の話し方の基本は、

1.まず、件名を述べる。(~について話します)
2.結論を述べる
3.詳細について説明する

である。後で気が付いたことだが、これはNHKのニュース原稿の基本パターンでもある。
この基本パターンは授業やHRでの連絡に広く応用できる。たとえば、授業の冒頭に、今日の授業は何について話すのか、そして結論=学んでほしいことは何なのかを紹介し、その後で詳細についての説明に入る。

「件名」「結論」「詳細」たったのこれだけのことをきちんと実行するだけで、授業・連絡は全く違ったものになる。件名の例は次の通り。

「~についての連絡です」
「~についての報告です」
「~のお願いです」
「~についての相談です」
「~についてのクレームです」
「~についてのお詫びです」

上司に対する連絡も、件名・結論・詳細ですっきり伝わる。しかし、こうしたノウハウが教員の世界では全く共有されていない。

また、伝えたいメッセージを確実に相手の心に届けるために、いかに情報を精選するかということも大切である。話す内容は詳しければいいというわけではない。絵を描くときに伝えたいメッセージを強調するために余分なものを省略するのと同じ理屈である。

アナウンサーという職業は与えられた原稿を読んでいるだけではない。情報を視聴者の心に確実に届けるために私たちの知らないプロとしての訓練をしている。私も有料講習を受けるまでは知らなかった。

ただし、こうしたスキルは実際に演習の中でトレーニングしないとなかなか身につくものではない。それも少人数でやらないと効果がない。まさに「やって見せ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば人は動かじ」である。教員研修の中にぜひともこういうプログラムを組んでほしいものである。


第二の青春?

2021年03月16日 | 日常の風景
(写真は志賀高原でフランスナショナルチームの指導を受け、スキー雑誌に掲載されたときのもの。右端が筆者)


若いころスキーに熱中した時期がある。時間もお金も情熱も全部注ぎ込んだ。1年間で150万円ほど使った年もある。でも真剣に遊んだおかげで、その後30年間は仕事に没頭することができた。「遊びにすら熱中できないやつに仕事ができるか!」 以後、私の座右の銘になった。

あれから40年(笑)
去年からエレクトーンと日本画に熱中し始めた。この半年間で両方に投入したお金は、かつてのスキーの1年間分くらいになろうか。特にエレクトーンは高額だから、購入に難色を示す妻に北海道旅行をプレゼントして了解を得た。

日本画は平山郁夫や東山魁夷が好きで複製の購入に数十万円使い、家の中を美術館状態にして楽しんでいる。習い始めてちょうど半年がたち、ようやく岩絵具を使えるようになった。
となると、またいい道具が欲しくなる。先日は京都の放光堂まで出かけて岩絵具を買った。初心者としては超高級品を奮発して買ったたつもりだが、如何せん48色しかない。もっとたくさんの色が欲しい。

そう思っていたところ、ヤフオクでちょうどいい岩絵具が出品されているのを見つけた。全部で180色くらいある。ぜひ手に入れたい。そう思ってオークションに参戦した。最後はかなり競り合いになったが7万9000円で無事落札できた。



本日品物が送られてきた。全部点検したところ、思っていた以上に残量が多く状態も良い。落札したときはちょっと高い買い物をしたかなと思ったが、現物を見たらその思いは吹き飛んだ。新品を買えば1色当たり1000円前後はする。だから半値以下で手に入れたことになる。いい買い物をした。ただし、妻にはいくらで購入したかは言っていない。(ばれた時のために、今度は温泉にでも連れて行って買収しておこうか。)

音楽と日本画と囲碁。
ただいま第二の青春真っ盛り(笑)。



民主主義とは何か

2021年03月12日 | 日常の風景
民主主義は簡単には割り切れない。たとえば、民主主義とは多数決だから少数者も従えという考え方がある。その一方で多数派に抑圧されないように少数者の意見も尊重しなければならないとする考え方もある。いみじくもトックビルが看破したように、民主主義には多数者による少数者の諸権利の剥奪という事態を招来する可能性がある(多数者の専制)。

また、現代の民主主義にはいくつかの危機があるとも主張する。そのうちの一つはポピュリズムの台頭でありイギリスのEU離脱、トランプの当選などはその例である。その背景にはグローバルから取り残された人々の不満があった。
グローバル化によって得をしたのは発展途上国、先進国の富裕層であり、先進国の中間層は取り残された。彼らはそこを上手に掬い取った。



そのほかにも独裁的指導者の増加という危機が指摘されている。プーチン、習近平、金正恩、ドゥテルテ(フィリピン)、エルドアンン(トルコ)といった人物である。

火垂るの墓

2021年03月12日 | 日常の風景
(「火垂るの墓」のモニュメント)


2009年5月3日に描いたブログを、一部修正して再掲する。

今日は憲法記念日である。急に思い立って『火垂るの墓』(野坂昭如原作)の舞台となった神戸市御影に行ってみたくなった。阪神電車に乗って、御影で鈍行に乗り換え一つ目の石屋川駅で降りる。石屋川はきれいに整備された小さな川である。

川のすぐほとりに、「火垂るの墓」のモニュメントがあった。アニメに出てくるシーンの一つが描かれている。長い間、空に光っているのは蛍だとばかり思っていたが、あるとき、それが蛍ではなく焼夷弾だということを知って衝撃を受けた。



1945年6月、神戸は空襲にあった。焼け出された清太、節子の兄妹が親戚に身を寄せるが冷たい仕打ちに合い、防空壕付近の池のそばで二人で暮らし始める。しかし、食べるものもなく節子は衰弱死。清太も戦争が終わった1945年9月に三ノ宮駅構内で野垂れ死にして原作はここで終わる。

野坂昭如は語っている。「火垂るの墓は、ぼくの手の中で餓死した妹について書いた。ぼく自身の体験がもとになってはいる。妹が餓死したのは玉音放送から1週間後の8月21日。ぼくにとっては14歳の夏の出来事。実際の妹はまだ1歳4か月、喋れなかった。火垂るの墓を書くことで、戦争を伝えられるとは思っていなかったし、それは今も同じ」(2012年3月14日 朝日新聞夕刊)

あの本を読み、あるいはアニメを見て涙を流した人は多いだろう。
しかし、それでも戦争を伝えることはできないという野坂の言葉が心に刺さる。


京都画材店巡り

2021年03月11日 | 日常の風景
(放光堂)


日本画を習い始めてちょうど半年がたった。春の陽気に誘われて、今日は京都の画材店巡りをした。まず向かったのが烏丸御池にある「放光堂」。店内は撮影禁止だったので玄関だけ撮ってきた。

ここの岩絵具は日本一ともいわれている。発色がいいので、かつては横山大観や梅原龍三郎、現代では千住博氏ら一流の画家がひいきにしていると聞いた。私のごとき日本画の初心者が、恐れ多くもこういう日本一のブランドの岩絵具を購入するのは、バイエルを習っている人間がグランドピアノを購入するようなもの。100年早いといわれても仕方がない。でも、一つ気に入ったのがあった。

次に向かったのが、今習っている日本画教室の先生が30年来ひいきにしているエビスヤ画材店。移転前の京都市立芸術大学があったすぐそばにある。


(正面が昔、京都市立芸術大学があったところ)



(店内には色とりどりの岩絵具が並んでいた)


通常、岩絵具は1両(15g)単位で買う。天然物と人工物(新岩絵具)があり、天然物のほうが高価である。一番高い天然物の「群青」と呼ばれる色は1両5000円以上はする。特に貴重なラピスラズリを原料とする青は1両約2万円する。一般的な岩絵具は1両数百円から1000円前後が多い。

お店の人との雑談も勉強になった。日本画初心者は一般に値段の比較的安い水干絵具(すいひえのぐ)から入る。水干は原料が土だから別々の色を混ぜてもきれいな中間色が出る。しかし、岩絵具はもともとの岩の性質が異なるため、混ぜると色が濁って汚くなることが多いという。そうか、知らなかったあ。だからあんなにたくさんの色の種類があるのだ。

さあ、どこで買おう?
値段が張るだけに、簡単には決められない。
鴨川でコンビニ弁当を食べながらしばし考える。
ヤフオクにも買いたい岩絵具が出品されているし、今日は何も買わないで少し頭を冷やして出直そうか。




私は昔からブランド志向が強い。理由は苦い思い出があるから。
50年近く前、父がレストランを始めるとき、見積もりが安かった名もなき建設会社と契約を結んだ。ところが、石油ショックのあおりを受けて、業者が途中で倒産してしまった。ン千万円という我が家の全財産が絡んでいる。最後は債権譲渡を受けたという暴力団が乗り込んできて非常に怖い思いをした。父が入院していたこともあり、私はその交渉の矢面に立たされた。組長の自宅に行って交渉したこともある。

それ以来、買うときはブランドを重視するようになった。今住んでいるマンションも施工が竹中工務店だから買った。正解だった。

やっぱり日本一の岩絵具がいい!
すぐ、放光堂に戻ってお目当ての岩絵具を買った。
ン万円が飛んだ(笑)。
まあ、いっか。





最近描いた薔薇F6号(右)





学問で一番大切なこと

2021年03月10日 | 日常の風景
知っていることと本当に理解していることとは全く異なる。生徒の論文指導をしていると改めてそのことを強く感じる。
論文を書かせると深いところまで理解しているか、それとも表面だけをなぞって覚えただけなのかがすぐわかる。メリハリの利かせ方が全然違うのだ。「覚えすぎ」の弊害かもしれない。

例えば人権保障の歴史について1200程度でまとめよという課題を出すと、市民革命がなぜ起きたのか、19世紀に労働運動がなぜ激しくなったのかという当時の社会状況をきちんと受け止めた答案になっていない。他人の痛みを自分のこととして受け止める感性が全く育っていないのだ。

「貧困」と聞いて、人はそれが何を意味するかは一応理解する。しかし、本当の貧乏は個人の話を聞いたり、自分が体験したりしないと分かるものではない。「失業」という言葉もしかりである。失業率が3%、200万人と聞いても単なる数字として記憶するだけである。ましてや戦争で何百万人が死んだと聞いても「ふーん」の一言で片づけられてしまう。

学問で一番大切なことは「他人の痛みを自分のこととして受け止める想像力」ではないか。そうした想像力を働かせる力が、今の高校生には乏しい。共通試験で9割以上の高得点を取っている生徒も例外ではない。いや、共通試験で9割もとれるような勉強をしているからこそ、想像力が身につかないのかもしれない。

また、カリキュラムの問題もある。日本史は小中高と3回学ぶのに、世界史は高校で2単位だけというところも少なくない。2単位では時間数が足りないから、古代・中世までやってそれでオシマイにする。その結果、世界史を選択科目として選ばない限り、近現代を全く学ばないまま大人になっていく。そもそも近現代をやらないで大学の法学部やら経済学部へ行ったって困るだろうにねー。

今から40年以上も前、教員免許を取るときにたまたま読んだ渡辺洋三(東大法学部教授、当時)の言葉が、強烈に印象に残っている。

「私が大学で一年生の教養課程の法学の講義を受け持ってみての感じでは、極端に言うと、高校以下の社会科教育は絶望的な気がします。高校までの社会科教育の中で、法律とか政治等の社会現象をどういうふうに見てきたのだろうかといえば、まるっきり知らないと言ってもいいのではないかと思います。」(『教育学全集、第八巻』小学館)

おう、よう言うてくれた。「高校の授業がどういうものか。いっちょ、やったやろやないか」。

教員になって以来、私の授業は渡辺洋三との戦いであった。物事の本質を見る目をいかに養うか。細かな知識などどうでもよい。他人の痛みをどこまで自分のこととして受け止めることができるか。それが学問の出発点である。だから、生徒には「抽象語で分かったつもりになるな」と口癖のように言い続けてきた。

しかし、最近は新自由主義の影響で、学校も競争、競争のオンパレードである。共通テストの点数で学校間の比較をし、0.1点刻みで大阪トップ10校の第何位であったかを争わせる。しかも、その結果が人事評価の対象になる。それでは生徒に点数を取らせること自体が目標となってしまい、本来の教育目標からはずれてしまう。1本の物差しだけで比較する。こんな有害なことはない。こんなことになるくらいなら「10校会議」なんて作るのではなかった(注)。

(注)「10校会議」とは、大阪の進学校のトップ10校の進路指導部長が情報交換をする会議である。実はこの会議を1997年に最初に立ち上げたのは何を隠そう私である。当時は進学校同士が集まることは「平等教育」に反するとしてタブーだった。しかし、各学区ごとのブロック会では就職の情報交換はなされても、進学の情報交換はほとんどなされなかった。そこで、勇気を出して大阪のトップ校だけが集まり情報交換しませんかと呼びかけたのである。それが「10校会議」へと発展し現在に至っている。当初は、進学校の悩みを話し合う場であったが、いつの間にやら変質してしまった。残念なことである。


インセンティブの経済学

2021年03月07日 | 日常の風景
インセンティブ(incentive)とは、人々の意思決定や行動を変化させるような要因のことをいう。企業では報奨金を出したり、表彰や人事評価へ反映させたりすることによって、やる気を引き出すための「動機付け」という意味でつかわれることが多い。

最近では、マラソンで日本新記録を出したら1億円もらえるというのがあった。インセンティブには金銭的なもの以外に、楽しさ、快・不快、名誉、優越感、社会的地位、友情恋愛といったものもある。実社会ではさまざまな場面でインセンティブが働いている。

 マクロ的に言えば、近代市民社会では利潤動機がインセンティブとなって発明や起業を促し、資本主義が発達した。ただし、公共財についてはこのようなインセンティブは機能しない。むしろ人々にフリーライダーになろうとするインセンティブを与える。そのため公共財は税金を徴収し供給する。

20世紀に登場した社会主義国家は利潤動機に基づく生産活動を否定して所得分配の平等を追求した。そのため生産活動に対する人々のインセンティブが失われ、経済活動は停滞した。一般に、市場における競争は企業の効率性を高めるインセンティブとなる。効率性を高めるため、日本では21世紀になって公営企業の民営化が推進された。

一方、ミクロの分野では、たとえば、夕方デパートの刺身売りコーナーに行けば値下げが行われている。この場合「値下げ」が購入意欲を引き起こすインセンティブとなっている。かつては携帯電話やスマートフォンの販売において、NTTドコモなどの携帯電話事業者が販売代理店にたいして、契約実績に応じて報奨金を出すことが盛んにおこなわれた。
これとは反対に、社員にノルマを課しノルマを達成できなかった場合には罰を与えことによって社員のやる気を引き出す「負のインセンティブ」もある。この手法は今なお多くの企業で採用されている。

ガソリン価格が高騰すれば、自家用車を低燃費の自動車に買い換えを促すインセンティブとなる。それだけではなく、行楽などの不要な外出を控えることを促すインセンティブにもなる。さらに、ガソリンの価格上昇を受けて政府が低燃費の自動車に対して税制上の優遇措置をとれば、その税制優遇措置が車の買い換えを促すインセンティブとなる。また、日本がバブル経済で沸いた1980年代の後半、土地や株の値上がりは企業の投機のインセンティブとなった。

 こうしたインセンティブを応用して、社会を一定の方向に誘導しようとする試みも盛んにおこなわれている。たとえば、1970年から日本では減反政策が展開されたが、減反に協力してくれる農家へのインセンティブとして補助金が交付された。

また、公害のような外部不経済がある場合、市場メカニズムだけでは最適な状態を達成できなくなる(市場の失敗)。そのため公害を発生させた企業対して課税をしたり、PPP(汚染者負担の原則)を徹底させたりすることによって、負のインセンティブを与えている。

最近では、地球温暖化を防止するために炭素税(環境税)を導入したり、太陽光発電の開発・導入に政府が補助金を出したりして、供給曲線や需要曲線に影響を与える試みも行われている。地球温暖化を防止するために、電気自動車の購入者に対して補助金を交付することもインセンティブを用いた例である。

やっと合格

2021年03月05日 | 日常の風景
45年ぶりにエレクトーンを習い始めて5か月がたった。
今日、バッハの「G線上のアリア」にようやく合格した。
これまでは2週間に1曲ずつこなしてきたが、G線上のアリアは1か月以上かかった。難しかった。でも、苦労した分、得たものも大きかった。



いくつになっても、ほめられるとうれしい。
次は、カノンに挑戦する。




小論文指導

2021年03月04日 | 日常の風景

「書くことの90%は調べることだ。ろくに本も読まずに中身のない抽象論をただこねくり回しているだけで、何の説得力もない答案を「はい、添削してください」と安易に提出してくる生徒に、ただいま勉強の仕方をトレーニング中。

ようやく書くということの大変さが理解されたみたい。
今日は午前中1本だけ添削した。