瀧澤美奈子の言の葉・パレット

政を為すに徳を以てす。たとえば北辰の其所に居りて、衆星の之に共(むか)うがごときなり。

Chat GPTの登場に思う

2023年02月14日 | ひとりごと
昨年11月にリリースされてから大きな反響を呼んでいるAIチャットロボットのChatGPT。
各界でさまざまな議論を巻き起しています。たとえばニューヨークの教育局は公立の中学校、高校での使用を禁止しました。教室での課題の出し方をどうするべきかは、確かに頭の痛い問題です。

私に近い業界では、サイエンス誌が昨年の「10大ニュース」の一つとして位置付け、ネイチャー誌が最近、「科学研究への活用の可能性」を論じています。

では、私のような物書きが、この新しいツール(あるいはAI描画ツール)と、どう向き合えばいいのでしょうか。
ここで思い出すのが、19世紀、絵画の世界を撹乱した写真技術の登場時のエピソードです。

見たものを「正確に・早く・安く・写しとる」ことにおいて、写実的な絵画よりも写真の方がはるかに勝るのは、誰の目にも明らか。

その時の反応はいくつかありました。

①既存の肖像画家の仕事を奪いかねない、新しい技術に対する拒否反応が、緊張を生み出しました。

②「絵画という芸術は死んだ」として肖像画家の職業を捨て、写真家に転向して成功した人もいました。

そして、
③人知れず、写真を「絵画の表現に活用」する画家も現れました。
それまでは想像するしかなかった、動く対象物の本当の姿(たとえば馬が走るときの脚の位置など)や光の加減などを写真画像から学んだのです。

時代はちょうど、新しい絵画表現を求めて試行錯誤していた若い画家たちが、「印象派」を確立していく時期と重なります。新しい絵画表現が写真表現と競合しないものとなったのは偶然ではないでしょう。印象派の成功は、人間の創造性が、写真という技術イノベーションの荒波を見事に乗り越えた事例、とも感じるのです。

くわえて面白いのは、この「人知れず」というところです。

踊り子の絵で有名な印象派のエドガー・ドガは、写真技術に対して積極的な姿勢を公言していました。
しかしそれでも、彼の描いた踊り子のポーズとそっくりの写真は、彼の死後になって初めて、アトリエから見つかったのでした。

つまり、新しい技術は新しい芸術表現の出現を後押ししただけでなく、作品の「正当性」をも揺さぶり、それは時代と共に移ろってきた、ということなのです。

(写真)
写真はマガモの水浴びの直後、羽根の間の水を一瞬で振り払うのに、全身を水面より上に持ち上げている様子。シャッタースピードは4700分の1秒でした。これぞ写真のなせる技です。

『人新世』平朝彦著(東海大学出版)を読んで

2023年02月01日 | ひとりごと
 現在、人間活動が活発になり、あらゆる意味で地球全体を揺るがすようになっています。現代を「人新世」とする呼び名が、ある種の危機意識とともにすでに定着しつつあるのは、多くの人が同様の感覚を持っているからともいえます。

 数年前に海洋研究開発機構(JAMSTEC)の理事長を退かれた平朝彦先生が昨年、400頁にもおよぶ著作『科学技術史で読み解く 人新世』を上梓されました。

 本書は、理学・工学・医学・歴史学・経済学などの分野を俯瞰的に記述し、その根底に流れるダイナミクスを統合的に理解することで、未来への指針を導き出そうとした大作です。
 「人新世を特徴づける人間活動の大きな原動力は何であったのかを問うために」現代を規定するのに重要な役割を果たしている、科学技術の「現在地」を理解し、広範な分野の科学技術史を紐解いていくのです。
 
 話は2000年にメキシコで開かれたある国際研究会議で「人新世」という言葉が生まれた瞬間から始まります。次いで、米国が主導した20世紀の科学技術が経済活動を発展させ、さらにシリコンバレーを中心に起きたパラダイムシフトが、イノベーション駆動型の経済を成立させ、社会のあり方を変えていったことを示します。

 情報技術のパラダイムシフトは情報の民主化を実現しましたが、一方でイノベーション駆動型経済は社会に光とともに影をもたらし、世界を不安定化させる危険も孕むとし、これからは「集中した富と情報をどのように生かしていけるのかに地球と人間の未来がかかっている」と指摘します。

そしてそのためには、
①社会経済政策に地球・人間・機械の理解や定量分析、予測手法を取り入れること
②アダム・スミスの人間倫理の復権に加えて、生命の星たる地球と人間の共感を社会基盤とすること
③科学技術の知的体系と人間的共感を基盤として「人間と地球の大きな物語」を創造すること
の必要を述べています。後半には、著者が考える「人間と地球の大きな物語」が「アース・ソサイエティ3.0」として具体的に示されます。
 アース・ソサイエティ3.0は、「エネルギー、食料、水、都市におけるイノベーション」の上に成り立ち、支えとして市民のリベラルアーツと人間力が不可欠であるとしています。そして厳しい自然環境のなかで生きてきた日本こそが、リーダーシップをとるのにふさわしいと提言しています。
 
 ここに書いたのはあくまで私なりの理解です。400頁のなかには、気候変動や海洋科学、惑星の生命居住可能性、ヒトの発生、人工知能・・・など、現代に生きる私たちが教養として知っておきたい科学知識が平易に解説されており、それだけをとっても有意義な内容になっています。膨大な数の参考文献と、そこに書かれた平先生の肉声もまたさらに深い知識の世界への案内状として読書を楽しませてくれますので、その意味でもお勧めの一冊です。

 平朝彦先生といえば、四国などに見られる四万十帯とよばれる地質が付加体であるという概念を世界で初めて提案・実証し、日本の深海研究のメッカである海洋研究開発機構(JAMSTEC)の(名物)理事長として地球深部探査船「ちきゅう」の大親分もつとめられた著名な地質学者です。ひとことで言えば、学者として超一流ながら、後半はその枠を超える能力と人間的魅力を、日本の海洋研究の発展のためにいかんなく発揮されました。
 私も何度もお会いしており、頭脳明晰、語りは機知に富み、お酒と冗談がお好きで、老若男女を問わず、初対面のときから必ず相手を古くから知っている友人のように思わせてしまうのです。
 
 最終章で、「ミスター・トイレ」ことジャック・シムの言葉を紹介しながら平先生の考えを述べるくだりがあり、とくに先生らしいと感じ、印象に残りました。

「シリコンバレーで私が感じるのは、イノベーションとテクノロジーに対する異常なまでの執着心だ。人や社会、環境に及ぼす潜在的なリスクに対する深い考慮と規制よりも、圧倒的にイノベーションやテクノロジーが優先されている」
シリコンバレーは巨大になった。あのカウンター・カルチャー運動やWhole Earth Catalogで表現された個人、自由、環境といった開拓精神にあふれた創成期から、今や苛烈で、競争の恐怖とパラノイアに突き動かされるビジネスの舞台となった。アース・ソサイエティ3.0の世界では、(略)「人間的な深い共感と共有の意識をもって関わり、社会の不平等や弱者などを、社会の重荷と見るのではなく、新たな創造の力と見るおもいやり」が必要だ。

膨大な量の知識が統合されて、このような深い洞察へと導かれる過程は心地よい体験であり(内容は深刻ですが)、折にふれて何度も読み返したい一冊です。


 

先の見えない時代こそ

2021年06月16日 | ひとりごと


しばらく間が空いてしまいました。
季節がめぐり、条件が整ったのでしょう。アスファルトの間から、いつのまにかビオラがこぼれ種で芽を出し、花を咲かせていました。

この花には見覚えがあります。
毎年、冬になる前に玄関先にビオラを植えていますが、この花は昨年ではなく、たしか一昨年の花。2年越しの芽生えと開花です。



ちょうど先日、訪れる機会のあった鎌倉の円覚寺にて巡り合った一幅の書に目が釘づけになりました。横田南嶺管長の筆による、詩人・坂村真民さんの詩です。

誰も見ていないかもしれないけれど、信じて咲こうとする姿勢。
先の見えない今のような時代にこそ、大切な心のあり方なのではないかと感じます。


アカデミーが正常に機能するには、政治にも責任がある

2020年10月17日 | ひとりごと
日本学術会議が推薦した新規会員6人の任命を菅総理が拒否した問題で、自民党内ではすでに日本学術会議のあり方の議論が始まっている。しかし、その議論がこのまま進むなら、日本の将来にとって決して先行きの明るいものとはならないだろう。

日本学術会議は、かつては左派に偏向した学者が優遇される形で会員が多く決められていたこともあり、国は一貫して学術会議の権限を減らす方向で動いてきた。国と学術会議との冷えた関係のなかで、国民からしてみるとアカデミーの最も大事な役割である「諮問」の機能が不十分であったことは大きな問題である。この点は、党派性によらず賛同できる点ではないかと思う。

だから今回の件で、学術会議自体の持つ課題や、政府との位置づけについて議論が喚起されたのは歓迎すべきことだ。しかし、今後の学術会議のあり方を話し合うなら、まずはアカデミーというものが、国民にとって必要不可欠な存在であることを、政府も国民も理解するところから再スタートしなければならない。
 
そういう思いがあって、私が所属する日本科学技術ジャーナリスト会議で、何かしなければならないという話が出たときに、『JASTJ みんなの広場「学術と社会の関わりを考える」
』(https://note.com/jastj2)というnoteを立ち上げることに賛同した。

「理想的なアカデミーとは何か」「科学と政治のいい関係を構築するにはどうしたらいいか」「そもそも学問とはなにか」を考えるには、前提となる知識が必要であり、一般の方々にも役立てていただけると考えたからだ。

ところが、現実にはいまも想像以上のことが起きている。本日(10月16日)の報道によれば、菅総理と梶田隆章会長がわざわざ会談の機会をもったが、菅総理はそこでも「任命拒否」の理由を明らかにしなかった。なぜ、これが問題か。この状態が続くと、アカデミーと政治との関係の健全性に、将来に渡って暗い影を落とすことになるからだ。

たとえば今後の改革論議なかで、日本学術会議を米国の科学アカデミーズのように政府から独立した助言機関にするという選択肢も俎上にあがることになるだろう。アカデミー は政府とコントラクト(契約)を結び、自らの行動に責任を持ち、科学的な根拠に基づいた質の高い政策助言の報告書を作成する。

しかし、これを実現するには大きな前提条件が満たされなくてはならない。科学的助言をするアカデミーや、アカデミーを構成する科学者に、スポンサーである政治は介入をしてはならないということである。そうでなければ、いわゆる「忖度」が働いて、アカデミーは政府にとって都合のよい助言しかできなくなる。科学的助言そのものの質が保てず、アカデミーは簡単に毀損してしまう。

この「政治と科学」の関係における暗黙の了解は、ヨーロッパ文明が何世紀もかけて培ってきた知恵であり、先進国ではコンセンサスとなっている。1983年の中曽根元総理の答弁もこの通念を踏まえたものだっただろう。国際的な科学雑誌として知られるネイチャーも10月6日の社説で、菅総理の任命拒否の件を取り上げ、「研究者と政治家の間には、それぞれが約束を守るというある程度の信頼が必要だ。この信頼が衰え始めると、システムが脆弱になってくる」と憂慮を示した。

つまり、アカデミーが正常であるためには、政治の側にも大きな責任がある。
菅総理は「任命拒否」の理由を明らかにしないのは当然と思っているようだが、政府が介入する姿勢をこのまま正さない場合、どうなるか。仮に学術会議の側が理想的なアカデミーに生まれ変わったとしても、早晩、その機能を果たせなくなることは明らかだ。

さて、日本の政治は責任が果たせるのか。
まずは、菅総理が任命拒否の説明をするのかどうか、信頼関係を構築できるのかどうかということに注目したい。

(この原稿は上記noteページに「会員からの意見」として投稿した原稿を加筆修正したものです)

3つの鏡

2020年10月03日 | ひとりごと
 2020年10月1日、菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した同会議の会員候補者105名のうち6名の任命を拒否したことで波紋が広がっています。会員候補者を政府が拒否した事例は今回が初めてです。

 「とにかく驚いた」「学問の自由を保障する憲法23条に反する」「制度の解釈が発足時と矛盾しており違法である」「コミュニケーション不足」「赤狩りが始まった」「為政者としてみっともない」「科学者が国会や政府から独立性を維持するための制度が必要」など、左右の政治的ポジションを超えて、さまざまな批判の声が上がっています。

 古今東西、社会や国家から野蛮、不寛容、恣意、不条理をなくすために、多くの工夫が重ねられてきました。それを制度の構築によって克服するのか、人間(とくにリーダー層)の徳性教育で克服するのかといえば、そのどちらかで良かったことは一度もありません。

 今回の件は、日本学術会議自体のもつ課題や、政府との位置づけについて議論を喚起する機会になると予想され、そのことは歓迎すべきことといえます。

 しかし、そのことを議論の主軸にするのは、今回起きたことの主要論点のすり替えであり、まず先に解決すべきなのは、今回の政府の態度そのものです。
 為政者としてこれは良い意思決定につながる決定かどうか、そもそも為政者にふさわしい態度かどうかということです。

 為政者が良い意思決定をする上で必要な心構えについては、すでに先人が答えを出しています。7世紀の中国、唐の時代に生まれた『貞観政要』では優れたリーダーの要諦として「『銅の鏡』『歴史の鏡』『人の鏡』の3つの鏡を持て」と述べています。
 一番目の「銅の鏡」は自分が部下からどのように見えているかを常にチェックすべきということ。二番目の「歴史の鏡」は過去に学ぶということです。そして三番目の「人の鏡」とは、裸の王様にならないように、自分を客観的に見てくれる他人の意見が重要だということです。
 たとえ自分と異なる意見であっても、その言論を封じることは厳に慎まなくてはなりません。自由にものを言えない空気を生み出すことになり、回り回って、為政者自身が良い意思決定をすることを妨げてしまうからです。

 自由で闊達な議論ができる環境を一日も早く作るために、いま政権が為すべきことはあまりにも明らかではないでしょうか。



困難な選択のとき、歴史上の人物の声が耳元で聞こえる。今回の件でその人物とは杉浦重剛でした。

2020年02月16日 | ひとりごと
 日本医療研究開発機構(AMED)の窮状を訴えるブログを書き始めてから一週間がたちました。この間に起きたことや心の揺れは、これまでの人生の数年分に匹敵するほどだったかもしれません。新型肺炎のこともありますから、これからどうすれば私たち国民一人一人にとって一番メリットがあるのかという最適解を探さなくてはなりません。

 今現在は、科学ジャーナリストの仲間や諸先輩の協力のおかげで、20日にAMEDの末松理事長を日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)に迎えての「緊急講演会」を開催する準備が進んでおり、落ち着いてこの投稿を書くことができています。本当にありがたいことです。
 まずは、20日に末松理事長が語る言葉に耳を傾け、日本の医療研究をめぐる問題解決の糸口となることを願っています。

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 ここから先は、個人ブログらしく、私の心境を綴らせていただきます(長いです)。

 なにか困難な選択をしなくてはならなくなったとき、歴史上の人物の声が耳元で聞こえるような経験をしたことのある方は多いと思います。今回の件で、私にとって、その人物とは杉浦重剛(1855-1924)でした。

 杉浦は20代前半で科学者を志してイギリスに留学し、化学で大変優秀な成績をおさめますが、神経衰弱で帰国。その後は東京で私塾・称好塾を開き(のちの英語学校および日本中学校)、政財界から文化人まで、優れた人材を多く育てました。のちには昭和天皇の倫理学のご進講役を務めたことでも知られます。
 科学者の関係でいえば、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎の父や湯川秀樹の父も、英語学校の出身でした。

 海外留学で欧米列強の圧倒的な力を目の当たりにした杉浦は、イギリスに終生の友を持って国際的な視野に立ちながらも、欧米社会の限界も理解していました。

 ◯私は日本を世界第一流の国にすることを以て自分の任としている。これまで種々のことをやってきたが、帰するところはこの一点にほかならんのである。日本はそうならなければならん訳がある

 ◯わしのすることは一つとして国家のためでないことはない。国家を離れて杉浦重剛は存在せんのじゃ

 ◯縁の下の力持ちをする人がなくなると国がもたんよ
 
などの言葉を残しており、帝国主義が勢力を延ばし、「力を正義」としていた当時の世界で、いかに日本が独立国でありつづけ、発展できるかということに心を尽くしました。
 しかし、昭和10年代になると、彼の主張には「国粋運動」という名前がつけられて、戦意を高める教材として利用されます。戦後、杉浦重剛が語られなくなり、忘れられたのはここに理由があるのでしょう。
 
 現在から見てそのような大きな限界はあるとしても、やはり彼の国士(=自分のことは顧みずもっぱら国のことを心配する人)としての言動、教育者として残した言葉には学ぶところが多いと感じます。

 ◯人間は克己ひとつ
 ※人間は動物と同じように、欲望、本能、衝動的な動物性を持っている。人間らしく生きるには、本能や衝動を制御して、節度をもって行動する理性が必要である、という意味。

 ◯人物をほめるのに、あの人は頭がいいというが、あんなことはやめるがいい。人は徳行の如何によるのみじゃ。もしわからんように盗みしたら、やっぱり頭がいいのじゃろう。

 ◯徳の人を才の人の上に置かなけりゃいかん。

 などです。

 「富めば仁ならず、仁なれば富まず」を信条とした杉浦は、終生貧乏で、彼が息をひきとった部屋の天井には星が瞬いて見えたといいます。

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 昨年の暮れのこと。
 大切な友人の紹介で、縁あって杉浦重剛の直系のひ孫の方にお目にかかる機会がありました。コーヒーを片手に、いろいろな話を聞き、私が杉浦のどのような面に感化されているのかを伝えました。
 すると最後に彼はこう言いました。

「結局、私の曽祖父は、終生、『武士道』を貫いた人だったのだと思います」
 
 私などとてもとても足元にも及びませんが、歴史上の人物から力をもらうことはあります。杉浦は金銭的な財産こそなかったが、「生き様」という大きな財産を残したのだと、そういう考えが、あのAMED審議会の前夜に頭に浮かんでおりました。

 
  
 
 
 
 

 

来るべき世代の歌

2017年10月17日 | ひとりごと
 ホメロスの『オデュッセイア』に次のようなくだりがある。

 ”神々は、来るべき世代が何か歌うことをもてるように、人間たちに不幸を用意する”

 いろいろな解釈ができる一文だと思うが、ふだん漠然と感じていることを言い当てているようで心に響く。「来るべき世代」という言葉から、変化する時代環境を想像し、私などはどうしても科学技術の進展の負の側面のことを思ってしまう。

 天地(あめつち)のわかれし時に成りしとふ原子ふたたび砕けちる今
 雨降れば雨に放射能雪積めば雪にもありといふ世をいかに

 いずれも湯川秀樹の作である。湯川秀樹はもちろんノーベル物理学賞を受賞した核物理学者だが、多くの短歌を詠んだ。前者は広島と長崎に原爆が投下されたときのもので、宇宙が生み出した原子を我々の力によって砕いてしまった畏れと悔恨の念が伝わってくる。後者は米国が1954年にビキニ環礁で行った水爆実験によって第五福竜丸の乗組員が被爆したときに歌ったもので、世界の核開発競争という異常な時代のなかで、ついに犠牲者を出したことへの悲しみが伝わってくる。
 人類の叡智の極みである科学知識に端を発した原子力は人類に多くの福音をもたらした。が、一旦そのパンドラの箱が開けば、人の道からはずれた者の手に渡るのは、遅かれ早かれ時間の問題で、その者に利用されるときの危機的状況は計り知れない。1939年にオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーによって発見された原子核分裂の現象は、80年近くたった今また、世界に暗い影を落としている。私たちは現在まさにその真っ只中にいるが、いくらルールを作ったとしても、世界でたった一人、そういう不心得者が独裁的な力を持つだけで十分であるという事実が重く心にのしかかる。そして、パンドラの箱は原子力だけでなく、他の分野でも次々と開かれつつある。
 
 冒頭のオデュッセイアの引用で、”神々”を”科学”と置き換えることは科学の負の側面だけを見ることになり、あきらかに適切でない。しかし、開かれたパンドラの箱と不心得者との接触を遮断することを担保する根本的方法がないということを考えるとき、この言葉の重さを改めて感じてしまう。
 

煙雨の朝に(読書について)

2017年10月03日 | ひとりごと
 10月に入っていよいよ秋めいてきた。まとわりつくような冷たい霧雨のため、朝のウォーキングを断念し、その代わりにヨガとストレッチで体を目覚めさせてこれを書いている。朝9時半過ぎ、家人はまだ起きておらず、聞こえるのは足元で眠りこける老犬の寝息だけ。こんな日は窓を開けることもできず、したがって小鳥のさえずりもない。だが、静寂のなかで時計のカチカチを聞きながら、こうしてたわいもないことを書く時間がある幸せを噛みしめる。

 昨日は、昆虫を真似たロボット製作に挑む若者たちに会ったあとに、大学生協の本屋で短歌を詠んだ科学者の本などを買った。時代が急流の勢いを増し、どんどん変わっていく。しかしその中に竿を立ててよじ登り、川岸の向こうを見わたそうとする。読書というのはそんな営みであって欲しい。


カンクンの海辺(写真アーカイブ)

2017年09月17日 | ひとりごと



2016年12月、メキシコのカンクンで第13回生物多様性条約会議が
開催されました。
世界各国から集まった約3000人が、この海のそばで
生物多様性の保全のために、いま何が必要かを議論しました。

静かな浜辺に立って、潮騒にじっと耳をかたむけていると
この姿がは未来もずっと変わらない、そういう気がしました。
雄大な自然な営みに、だれが干渉できるのだろう、と。
しかし、私たちの足跡は年々無視できない規模に拡大しているのです。



カンクンの海辺
a seaside view in Cancun​, Mexico 13 Dec. 2016
2016.12.13 メキシコ・カンクンにて撮影

万華鏡

2015年07月12日 | ひとりごと
梅雨の晴れ間の日曜日。木漏れ日から落ちる光の粒が幾何学的な模様を作っているように、
この一週間も、いろいろな方たちとお会いして、心はまるで万華鏡のよう。



人工知能とゲーデルの不完全性原理。
私たちは言語をきちんと使っている気になっているけど、本当の豊かさの6割程度しか使えていない。
日本の生活になじめないママには休養が必要だよ、と心配して父に訴えるクォーターの7歳児。

言葉の断片が、私のなかでまだ素材のまま、色鮮やかな模様になって浮遊しています。