図書館屋の雑記帳

自分のこと、図書館のこと、図書館関係団体のこと、本や雑誌など図書館の資料について気の向くまま書いていきたいと思います。

私の原風景(2)岩戸神社

2006-02-04 | 私の原風景
 岩戸神社(地元では「おいわたはん」と呼ぶ)は『麻植郡誌』(臨川書店 1973、大正11年刊の復刻)によれば忌部神社の摂社で、祭神は天岩戸別命と天太玉命となっています。 
 おいわたはんは秋祭りには市がたち、新年には輪くぐりがあるように地元に密着した神社で、中央に高さ10メートルほどの松の大木があり、社殿と倉庫が入口の左側と右側に分けて建てられていました。

                            (岩戸神社遠景)

 この神社の特徴は数万年前吉野川が四国山脈近くを流れていたときの名残が目に見えることです。倉庫の奥側に子牛ほどの大きさで駱駝型をした岩(岩の種類は緑泥片岩、深緑色をしている)があり、その更に奥には甌穴(おうけつ、岩が水流によって丸く抉られたもの)があるのです。いまでも小川が神社を取り巻くように2本流れています。

                            (駱駝?のような岩)

 多分昔は神社の際まで山が迫り、その間隙を縫うように小川が流れるという、懐かしき里山風景だったことでしょう。しかし、私図書館屋が子どもの頃には既に山は採石のため削り取られ、後退した山際は巨大な崖になっていました。さらに、採石跡には砂が高く積まれ、こちらはまるで砂丘です。

 おいわたはんは子どもたちにとっては交流の場でした。ふたつの町の境にあるため、学校が違うし普段付き合いのない子どもでも交流できる唯一の場だったのです。とりわけ当時は野球人気が全盛だったので(王、長嶋の時代です)、広くもない境内で毎日のようにソフトボールの試合をやっていました。 ソフトボールは球とグローブとバットがあればOKですから、夏休みなどはそれこそ球が見えなくなるまで(午後7時くらいまで-この時間までやって帰ると親からものすごく怒られましたです)熱中したものです。  

 ただ問題がありました。そのひとつはピッチャーのすぐ後ろにある松の大木でした。ごろのピッチャー返しは根っこや幹に当たってイレギュラーするし、フライは枝に当たって失速するし、場合によっては松の木の上の方に引っ掛かったりするのです。もうひとつの問題は、境内周辺にマムシの多いことです。ただ熱中するとそんなことは忘れて茂みに入った球を追いかけるし、ホームランが小川に入れば取りにいったりとマムシなにするものぞ!という勢いでしたから、噛まれることはもちろん姿もほとんど見かけませんでいたが・・・(今から思うと、マムシも暑いし、子どもはうるさいしで穴の中で寝ていたのでしょう)。  

 砂山や駱駝岩付近はごっこ遊びの場で、崖は肝試しの場でした。20~30メートルの高さがある切り立った崖を、いかに早く登り切るかが序列を決める基準だったのです。さすがに低学年には無理でしたが、4~5年生ともなると競うように挑戦したものです。 また、この崖からは通称温石(おんじゃく、蝋石のようなもの)が少量採れるため、これも競って探しました。特に10cm以上ある大物は希少価値がありましたので、仲間内の株を上げるためにも、頑張って探しました。  

 しかし、良いことばかりでもありません。ある日友人2人と爆竹(2B弾という紙巻タバコ位のサイズのもの)を砂丘に埋めて爆発させるという遊びをやっていた時のこと。隣町の数人の上級生が同じように爆竹を持ってやってきました。最初は別々にやっていたのですが、そのうちこちらをめがけて爆竹を投げてくるようになりました。対抗してこちらも投げ返すと、倍ぐらい返ってくる。さらに対抗して投げると、今度は3倍くらい投げてくる。とうとう崖の際まで追い詰められ、体のすぐ近くで爆竹が破裂するようになり、最後は両手を挙げながら逃げ惑う状況になりました。それでも彼らは止めず、結局近くに住む落窪さんという人が助けてくれるまで、恐怖の中を逃げ続けたのでした。

※厳密に言うと爆竹と2B弾(ニービーダン)とは違うようです。2B弾はマッチがなくでも頭の膨らんだところを石などで擦れば点火します。もっとも私たちはマッチの空き箱を潰したものを点火装置として持っていましたが・・・。2B弾は今では製造が中止になったそうです。
  


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