野沢凡兆は加賀の人で、松尾芭蕉の弟子にあたります。蕉風の一頂点を示すといわれる俳諧選集に『猿蓑』というものがありますが、この本の編者が凡兆です。では私図書館屋が凡兆に興味を持ったかといえば、その印象的な句に衝撃を受けたことと、ある時期にだけ輝きその後は不遇な晩年を過したのはなぜかという疑問、この2点に尽きると思います。特に、なぜある時期だけ芭蕉に重用されたのか、芭蕉にとって凡兆とは何だったのかという事が学生時代から気になっていたのです。
このブログではこれまで調べてきたことをぼちぼち書きながら、タイトルの意味を考えたいと思います。
1.序
『猿蓑』(元禄4年 1691年)は、高木蒼梧の『俳諧人名辞典』(巌南堂 1960)で「蕉風の最頂期を示すものとして、芭蕉七部集の中でも特に重きをなす集である」と書かれているように、内容的には高いレベルの俳諧選集です。また芭蕉的にも元禄2年(1689年)の「おくのほそ道」の旅を終えたばかりで、充実した時期のものと言えるでしょう。
その『猿蓑』を見るとき、野沢凡兆(?-1714)の存在は少なからず特異です。発句の入集数は『猿蓑』の共編者である向井去来(1651-1704)の27句(歌仙の発句、几右日記の発句を含む、以下同じ)や、当時の高弟榎本其角(1661-1707)の25句とは比べるまでもなく、師松尾芭蕉(1644-1694)の41句さえ上回る44句を数え、さらに4巻の歌仙すべてに名を連ねているのです。
凡兆の入門時期ははっきりしませんが、潁原退蔵(国文学者・俳人 1894-1948)によれば、其角編『いつを昔』(元禄3年 1690)に元禄元年(1688年)10月、江佐尚白(1650-1722)の家で尚白・其角・凡兆(当時は加生と名乗っていた)三吟の連句が催されたことが記されており、一応この時期と推定されるようです(『潁原退蔵著作集 巻12』 中央公論社 1979 p193)。さらに選集に載るもっとも早いものは『阿羅野』(元禄2年 1689)の2句です。
こうみると入門してからの年数はせいぜい数年で、ここ2~3年やっと他の弟子たちと並んだ新参者と言えそうです。このような新進の者が芭蕉が力を入れて監修したといわれる『猿蓑』の選者となっただけでなく、芭蕉を凌ぐ多数の句が入集するということは、実力で勝ち取ったとはちょっと考えにくい。そこには芭蕉の何らかの意図があり、凡兆はそれに応えたと見るべきでしょう。また、芭蕉が意図した方向に合致した感性も備えていたと思われます。
しかし『猿蓑』が発刊された後、凡兆は急速に芭蕉から離れていきます。それを決定的にしたのが凡兆の下獄であり、正徳4年(1714年)凡兆は蕉門に戻ることなく死んでしまいます。まさに『猿蓑』においてのみ光を放った俳人でした。
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1 コメント
コメント日が
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- なるほど (駿)
- 2007-08-21 01:49:17
- 翁との手紙が多数あるようで、夫婦ともに関心のある方です。新たな発見が期待されます。感謝
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