京都逍遥

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百万遍知恩寺・法然上人御忌

2010-04-24 01:14:37 | まち歩き

知恩寺。西本願寺で見たのと同じ仏旗がはためいている。今日は法然上人御忌(ぎょき)。

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今出川通に面した門(写真上・右)のそばに、法要の日程が詳しく書いてある(写真上・左)。御忌とは、天皇皇后の忌日法会のことだが、1524年後柏原天皇により“大永の御忌鳳詔”が出され、法然の命日(1月25日)を「御忌」と呼び習わすことになったらしい。1877年、浄土宗総本山の知恩院が御忌法要を4月に変更し、多くの寺が従ったとのこと。写真の日程には、22日は夕方、23~25日は11時から法要とあった。

10_006 10_005            旗と同じく、五色(緑・黄・赤・白・紫)の吹流しが立っている。御影堂や本堂にも五色の幕。

門前や堂前、参道の提灯には、抱き杏葉の間に「百」の文字が入った紋。参道脇は、車がぎっしり。もう法要は始まっている。

10_010 本堂にかかっていた紫の幕も、月影杏葉でなく抱き杏葉だった。向かって右の引き戸をそうっと開けたら、そこがちょうど一般席。静かに僧侶の声を聴く。お坊さんの頭上の、長い被り物が気になる。初めて見た。

12時過ぎに、堂内に廻らされた大念珠が下ろされた。二重に廻らされた念珠の、下側にある一連だけ。高い所にかかっているが、棒で簡単に外して紐をほどく。両側から参拝客が念珠をささげ持ち、「南無阿弥陀仏」の声と共に、反時計回りに回し始めた。大念珠の珠は、直径10cmほどだろうか。白い文字でぎっしり戒名が書かれた珠、上半分だけ書かれた珠、文字の白が抜けて彫刻のみとなった珠、何も書いていない珠。お手玉を上に投げるような感じで、珠を持ち上げて、回す。ところどころ、大珠があり、掌仏が入っていたりする。通常の数珠は、108個の珠を使う。これは、1080個使っているという。

この大念珠繰りは、第八世善阿空円上人の百万遍念仏に由来する。1331年、疫病が流行したため後醍醐天皇勅命により上人が百万遍念仏を修したところ、流行は終息した。そこでそのときの大念珠と、弘法大師筆“利剣の名号”、さらに“百萬遍”の号を下賜されたとのこと。(名号・号は、浄土宗HPや当寺HPにあるが、大念珠については、住職さんの話から。)この「百万遍念仏」に要したのは、7日間と17日間の二説がある。浄土宗HPですら混乱が見られ、「寺院紹介」ページでは「7日間」、「25霊場」のページでは「17日」となっている。

(浄土宗HP「大本山知恩寺」:http://www.jodo.jp/290004/index.html

(浄土宗HP「第22番京都大本山百万遍知恩寺」:http://www.jodo.or.jp/25reijyo/index_22.html

『都名所図会(1786年)』では「一七日」、『花洛名勝図会(1864年)』では「七日」となっているため、このような間違いが起きたのだろう。

「一七」とは、「十七」か「七」か。当時の正書法について知識がないので断定できないが、さきの「大永の御忌鳳詔」における「一七」が「7日」の意とされており、百萬遍念仏も7日間と見るのが順当だろうか。

(輪番御忌について:http://syourinji.com/page015.html

『花洛名勝図会』は、解説が非常に詳しく、面白く読んだ。

(日文研HP『都名所図会』長徳山知恩寺百万遍:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_226.html

(日文研HP『花洛名勝図会』長徳山知恩寺:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/karaku/page7t/km_04_04_025t_11.html

両資料を読むと、①祈祷を頼まれたのは他宗で、浄土宗は“最後の頼み”的、②法然上人が賀茂社を崇敬していた、ことがわかる。1331年になってもまだ、浄土宗は貴族階級に認められていなかったという訳だ。『都名所図会』には、この寺がかつて加茂の神宮寺で、葵祭の際、寺で法楽の神事を行なった、ともある。

内陣に掛かっていた立派な絹の幕には、抱き杏葉と三つ葉葵の紋が交互に織り上げられていた。賀茂社とくれば葵紋は頷けるが、賀茂社で使用している三つ葉葵は、徳川葵と上下逆。この寺の三つ葉葵は、徳川葵と同様の図柄だった。この葵紋は、檀家さんら関係者が首にかけていた緑の布にも刺繍されている。お揃いの青い和服の女性たちは、お太鼓部分に月影杏葉と三つ葉葵が陽・陰に織られた帯を締めていた。一人に、三つ葉葵は「御詠歌から」と教わった。法然上人25番霊場の22番目であるこの寺には、「夏の御詠歌」と呼ばれる歌がある。

「われはただ 仏にいつか葵草 心のつまに 掛けぬ日ぞなき」

また、知恩院など浄土宗の寺の多くは、徳川家の庇護を受けたため、葵紋が使われている。この寺にも寄進があった可能性はある。

①賀茂社との関わり、②御詠歌、③徳川家との関わり、と、葵紋には充分な理由がある。どれが一番の理由などと、決める必要もないだろう。

“利剣の名号”とは、文字の一画一画が剣のように尖った独特の書体で書かれた名号のことだ。善導の「利剣即是弥陀号一声称念罪皆除く(『般舟讃』)」から、智の剣が罪障を除くのだとされる。

(『般舟三昧行道往生讃』:http://www.yamadera.info/seiten/d/hanjusan.htm

法要が終わり、ご住職のお話が済むと、「順にご焼香を」と言われ、内陣に入った。そうして、向かって左に掲げてある大きな利剣名号を見ることができた。すごい。力強くて。きれいで。名号は、この時期だけ公開とのこと。境内に、名号を写したと思われる石柱(写真下・左)があるが、少し字体が違うような気がした。彫刻の限界か。小さなお守りも頂いた。「後醍醐天皇御下賜/利劔名號御守/大本山 百萬遍知恩寺」。利剣名号を前にして、初めて真剣に祈った。教えに沿わないことだけど。

最後に。西本願寺では仏旗がはっきり写らなかったので、この写真(写真下・右)を。

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