京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

賀茂波爾神社(赤の宮)

2010-04-11 02:04:34 | まち歩き

川端通に、「赤の宮」というバス停(京都バス)がある。どこにお宮さんがあるのだろうと思っていた。川端通から北白川疏水通を東に進むと、東大路通の手前に、赤い鳥居が見える。「賀茂波爾神社」と石柱に刻まれたこの神社の別称が、「赤の宮(祭神:波爾安日子神・波爾安日女神)」だった。

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北西の道に面した鳥居をくぐり、月極駐車場となっている境内に続く石畳はやがて北東に折れ、舞殿が姿を現した。

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舞殿の奥には、本殿がある。本殿の東隣には、末社の「権九郎稲荷社(祭神:宇迦之御魂神)」に続く丹塗りの鳥居が、伏見稲荷のように連なっている。

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この鳥居の参道は、ほんの数メートルで突き当たり、東側にお社があった。石の狐が左右を護り、お社の上には陶器の狐など。狐の表情を見ていると、なんだか、お社の写真を撮るのは憚られた。お参りして、戻ろうと振り返った途端、お社の奥にある大木の枝が折れ、鳥居の上にバキッと落ちる音が。お願いが聞き届けられた証拠?

この鳥居の前には井戸があり、「波爾井御神水」の立て札。ご近所の方々が、ペットボトルに水を入れておられた。「くせのない水だから、コーヒー淹れたらおいしいのよ」と。「京都の名水」には数えられていないようだが、飲んでみると確かにまろやか・・・な気がした。

(京都通百科事典HP「京都の名水」:http://www.kyototsuu.jp/Sightseeing/GoodWater.html

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鳥居のさらに東、境内の北東(写真下・左)には、紙垂で囲われた聖域がある。舞殿の南西(写真下・右)も、同様だった。また、南西では、60センチほどの石にも縄が巡らされていた。

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この神社の社地は、後世になって拡がったというから、この聖域は、元の社地の表裏両鬼門だろうか。それとも、土俵の跡とか?『拾遺名所図絵(1787年)』で「享保年中に干菜寺勧進として此所に大相撲あり」という記述があったことだし。

(国際日本文化研究センターHP『拾遺名所図会』赤宮:http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_440.html

『拾遺名所図会』から、1787年には、「赤宮」と呼ばれていたことがわかる。この神社の住所は高野上竹屋町だが、神社のすぐ隣は、「一乗寺赤の宮町」。地名ともなった「赤宮」の由来は、いくつかの説があり、はっきりしない。稲荷の鳥居の赤とか、赤土とか。

「波爾」の由来としては、『京都観光Navi』HPに高野川は「かつて埴川と呼ばれていた」とある。波爾とは、土や土器を意味する「埴」である、というのだ。「埴川」は、『日本後記』に登場する。

「巻八延暦十八(799)年八月己卯条3癸卯。禊於埴川。」(日本後記:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/9583/nihonkouki.html

この記載の前後数年を確認したが、禊を毎年この時期、この川で行なっているわけではなく、また「埴川」が高野川と同一であるという確証も得られなかった。

10_012 神社名の話が続くが、「賀茂」という名の通り、ここは下鴨神社の境外摂社である。但し、摂社となったのは明治10年3月。舞殿東面には、摂社となって100年を記念して境内を整備した、と書かれた額がかかっていた。

この神社の創建年代は不明だが、『延喜式』神名帳に式内社として「賀茂波尓神社」とあることから、901年以前より存在していたことがわかる。

(国学院大学HP『神社資料集成』山城の国神社一覧:http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/jinjastate01.html

鳥居前の提灯の二葉葵(写真下・左)、舞殿幕の二葉葵(写真下・中)、拝殿屋根の飾り瓦の三つ葉葵(写真下・右)で、賀茂社との関わりが目に見える形になっている。現在、御蔭祭の際に、ここで路地祭が行なわれている。神山から上賀茂神社へお迎えした荒御霊を下鴨神社へ運ぶ途中、ここに立ち寄るのだ。これは、摂社となってからなのか、それともそれ以前からなのか。『延喜式』で賀茂の名がついているからには、創建当初から、そのような役割を果たしていたと考えるのが自然だが。

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10_009 提灯の正面や、舞殿屋根の飾り瓦(写真左・この記事最初の写真)には菊紋がついていた。

道路に面した鳥居の脇、神社敷地の南東角に、「高野川原開墾来歴碑(明治32年5月)」(写真下)があった。ここでは、高野川の氾濫で荒れ果てていた近辺の流域を、江戸中期に開墾した大坂商人の功績が語られている。この神社も、何度も流され、建て直されたのだろう。

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