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きまぐれ日誌

みどり文庫

はないちもんめ

2016-10-09 19:15:23 | みどり文庫

♫ かってうれしい はないちもんめ ♪

      まけてくやしい はないちもんめ ♫

このわらべ唄を知っている人は多いでしょう。でも、「語源は?」と聞かれると、ほとんどの人が知らないと言います。しかし、伝承されているものには、必ずその由来が存在することを知りました。

なんとそれは、ベニ花のふるさと、山形県西置賜(にしおきたま)郡 白鷹(しらたか)町。ベニ花を蘇らせた今野正明氏にそのルーツを教えてもらいました。

ベニ花は「紅色=赤』を作る希少な天然染料。京都に運ばれ、鮮やかな「口紅」や衣装の染料、絵具、お菓子の食染、焼き物の絵付けに使われてきました。

しかし、黄色いベニ花から紅色が抽出されるのはわずか1パーセント。それも「最上紅花 もがみべにばな」のみです。

紅花は、いつ咲くのでしょうか?

半夏ひとつ咲き(はんげ ひとつざき)

夏至から数えて11日目。半夏生のその日、まだ青々とした紅花畑に、たった一輪の花が開きます。これを合図に、紅花畑は、日ごとに開花し、一面鮮やかな黄色に染まります。

 花摘みは7月半ば〜下旬。

トゲがあるので、朝露で葉が柔らかい早朝のうちにやらねばなりません。   

                   

          

三分の一が赤く染まった時、花びらを摘んでバケツに入れ、黄色の染色を洗い流し、発酵させると紅色に変わっていきます。

 空気に触れると自然に赤みを帯びていくそうですが、すべて手作業の工程 は、職人の技と勘が命。

 

      

そのあと、花びらをすりこぎでつぶし、丸めていきます。昔は足で踏みつぶしていたとか。

お煎餅のように平たくしたのが「紅餅」。

「三百輪で紅花一匁」とは、わずか3.75g(一匁)の紅餅1枚を作るために、約300輪もの紅花が必要だというのです。「紅もち」を天日干しにして乾燥させること数日。

この形で、京都や江戸の染屋に納められました。

     

1日に何回も裏返して、両面をしっかり乾燥させなきゃなりませんが、猫の手も借りたいくらい。そこでゴザの隅に、一文銭を10枚積んでおき、「ござのべに餅を全部ひっくり返したら、一文を持っていいよ〜」という習わしができたそうです。

       

 

子どもは小遣い銭欲しさにせっせと裏返し、一文銭を貯めました。何しろ「紅もち」一枚(重さ・いちもんめ)の価格は、「米の百倍、金の十倍」といわれましたから、一文は安い手間賃。たっぷり稼いだお金を、子どもは賭けで遊んだそうです。

昔の子どもの遊びだから、賭けといってもたわいないもの。

下駄を放り上げて、表か裏かで「勝った!負けた!」とか、じゃんけんで「勝った!負けた!」・・・とか

それが「♫ 勝ってうれしい花いちもんめ(一匁) ♪ 負けてくやしい花いちもんめ(一匁)」と歌われ、今日まで伝わってきたそうです。

                 

山形県の代表的な祭り「花笠祭り」の笠に乗せられた紅い花は、実は「紅花=紅もち」なのです。

花笠まつり(毎年7月はじめ)

<伝来の歴史>

紅花の原産地は、遠くエチオピアともいわれ、エジプトからシルクロードをたどって、6世紀頃に日本に伝来したと言われています。山形県では15世紀半ばから栽培が始まったとされていますが、江戸初期には、質・量ともに日本一の紅花産地として栄え、最盛期には50〜60%を山形産が占めました。

「まゆはきを、おもかげにして べに(紅粉)のはな」 芭蕉

 ところが、明治に入って化学染料が輸入されると、ベニ花生産はたちまち衰退してしまいました。

1982年、山形文化を長く支えてきた紅花の功績を称え、山形県の県花として認定されたものの、咲いている様を、山形県内でほとんど見ることができませんでした。

今から22年前の平成6年(1994年)、紅花栽培を復活させようと、白鷹町の8名の有志が、「白鷹紅の花を咲かせる会」を発足させ、種を探しあてて復活させました。今では、栽培面積が10倍まで拡大。平成19年からは、「紅花摘み」や「「紅餅つくり」を体験できる「花摘み猫の手隊」もスタートし、だれでも楽しむことができるようにしました。

その主がこの人・今野正明氏。

伝統の口紅は、江戸創業の伝統の紅屋「伊勢半本店」で求めることができます。

 右側の玉虫色(緑色)のが「小町紅」。水で溶くと赤くなり、筆で唇に塗ります。

薄く一筆点せば淡い桜色に、重ねて点せば鮮やかな紅色になります。

 

伊勢半本店 (東京都南青山)

 

白鷹町は、山形新幹線「赤湯」で「フラワー長井線」に乗り換え、終点「荒砥(あらと)」で下車。

  

 フラワー長井線 赤湯駅発

        





 

 

               終点 荒砥(あらと)駅

 「和紙人形」や「白鷹つむぎ」が展示されていて、小さいながらも博物館のようなステキな駅

         


わらべ唄の語源は、地方によって、他にもいろいろあるかもしれません。

子どもたちが元気に遊ぶ背景には当時の社会があり、その暮らしの一端がわらべ唄となって、今日まで伝えられているのは、面白いものですね。 

                                                                            以 上

 

 

 


子どもに喜びを!

2016-08-04 10:34:33 | みどり文庫
みどり文庫がボランティア活動をしている目的は、「子どもに喜びを!」を授けることです。
私たちの活動は、「本」や「お話」を通してですが、この世の中には、お金目当てではなく、子どもを歓喜させることを喜びとする大人が大勢いるのです。

アメリカ西海岸、南カリフォルニアの浜辺は、夕陽の美しいところ。日没は19時50分ですが、毎夕、多くの家族連れ、若いカップルや老夫婦が、サンセットを楽しみに海辺にやって来ます。
その浜辺に時折現れる「シャボン玉おじさん」。

長〜い竿にヒモを横たわし、石鹸水を入れたバケツに浸してから竿を持ち上げると、それはそれは大きなシャボン玉が空中に浮かびます。
子どもたちは歓声をあげ、はじけて小さくなって飛び交うシャボン玉を捕まえようと手を伸ばし、追いかけ回ります。

おじさんは、巨大なシャボン玉を、あきることなく作り続けます。
子どものあげる高らかな笑い声に誘われて、いく度もいく度も・・・。

大きな泡は夕陽を浴びて七色に輝き、大空にうねります。
何がしかの魔法の力が働いていると思うような美しさ!
おじさんは魔法使い?

水平線に沈んだ夕陽は、海の中から、大空を再び真っ青な空に染め上げます。一瞬空は、昼間のように明るくなるのです。
やがて日が暮れて、真っ暗になってもシャボン玉は飛び交います。幼い子は、親の「もう、帰ろう」ということばも耳に入らず、シャボン玉を追って駆け回ります。

外国のビーチでは、こうした「お金をかけない楽しみ」があふれています。
波打ちぎわで波と追いかけっこする子、砂のお城を作る子どもたち、サーフィンに興じる若者たち、ピッツァやサンドイッチを持ってきて、夕陽を見ながら食事を楽しむ友人家族たち。

日本は、海に囲まれていながら、どうして浜辺の遊びを楽しまないのでしょうか?
雨の降らない、地中海性気候の地域との差もありますね。

人々は、浜辺で沈みゆく夕陽に手を振って叫びます。
” Good-bye the sun !  See you tomorrow! "

                記:  細谷 みどり
 
 

マーシャ・ブラウンを偲んで

2015-08-11 17:47:48 | みどり文庫

                2010年1月   マーシャ 91才 スタジオにて

  マーシャが天国に旅立たれたのは、春の光がまぶしい2015年4月29日のことでした。7月13日がお誕生日ですから,あともう2ヶ月半で97才でしたのに。       

 マーシャがアメリカ東海岸のコネティカットから、西海岸に移住されたのは、22年前の1993年。75才の時でした。ロスアンジェルスから南に1時間ほど下ったラグーナ・ヒルズは、冬温かく夏涼しく、気候の厳しい東部に比べて別天地のような処です。真っ青な空と輝く太陽に包まれて、マーシャはこの地をこよなく愛していました。マーシャが最もエネルギッシュに仕事をしたニューヨークには、編集者・作家仲間・図書館員など、子どもと本をつなぐために最善の仕事をした素晴らしい人々がたくさんおられて、一番の故郷だったと思いますが、余生を送られた西海岸もまた、安息の地としての故郷であったことでしょう。西の人は東に比べてみんな親切だと多くの人が言うように、アメリカ人のマーシャですらそう思うと言われた時、一瞬驚いたものです。よき隣人友人に恵まれ、音楽と本と絵の世界に浸って、静かで平和な余生を過ごされたと思います。

      

        2011年1月 マーシャ 92才                        

 私がマーシャと日本で出会ったのは、1994年に来日された時でした。5月16日、東京の有楽町朝日ホールで「庭園の中の三人」(*1)と題して大講演(東京子ども図書館主催)をなさった折りです。私は準備段階から「東京子ども図書館20周年を応援する会」のスタッフとしてお手伝いしていましたので、この時はじめて間近に接することが出来ました。その後は、クリスマスカードのやり取りぐらいのおつきあいでしたが、1998年以降私がカリフォルニアをよく訪れるようになってからは、毎回行くたびに会ってくださいました。年3回ほどの訪問でしたが、17年の歳月の間に、お互いに友情と信頼を深めあえたのは,本当に光栄で幸せなことでした。

 マーシャはいつも私を温かく迎えてくれ、毎回お食事をいっしょにした後は,アトリエ(STUDIO)で、何時間もおしゃべりさせてもらいました。私に気を遣って、お食事は中国料理店か日本食レストラン。そんなに高くはない手頃な昼食を共に楽しみ、お支払いも、前はマーシャだったから今回は私というように、交代でしたものです。マーシャは、最後のデザートに抹茶アイスクリームを好んでよく食べました。 

            

            抹茶アイスクリームを食べるマーシャ

 初期の頃の私の英語力は乏しいもので、英語がもっとできていればどんなに多くを聞き出せたことだろう、私が編集者の能力をもっていればどんなに有意義な仕事ができたろうと、17年の歳月の間に何も出来なかったことを悔やみます。そんな私を相手にマーシャは忍耐強く付き合ってくれました。でも、仕事がらみでなかったのが、かえってよかったのかもしれません。

 これだけの有名作家なら,日本ではスター扱いするでしょう。マーシャはそんなことを気にも留めない人でした。その飾り気のない気さくなお人柄は、「子どもを真に愛する人はこんな人に違いない!」という像を私に深く刻み込んでくれました。実際マーシャは子どもが大好きでした。マーシャの絵本を文庫で読んであげた時、子どもはこうだった,ああだったと語ると、それはもう嬉しそうな顔をするのでした。そして,自分の絵本を読んでくれる子どもや大人が存在してこそ、自分の作品が生きるのだといつも言っていました。

              

物語の世界はひとつひとつ違うのだから、画法も違ってくるはずという。

 17年の間には、アフガニスタン戦争もイラク戦争もあり、マーシャは戦火の中の子どもたちに触れては、目に涙を浮かべて悲しい顔を見せました。戦争を起こす者は大嫌いで、湾岸戦争が激しかりし頃「テレビのニュースにブッシュ大統領が出てくると、スイッチを切るの」と言ったときのお顔はとてもこわいものでした。そして、「私は年老いていて、戦争反対に何もできないのだけれど,日本の若者は何をしているのか?」と聞かれた時には、「なんにも・・・」としか応えることができず、恥ずかしく思ったことでした。常に世界に目を向け、パソコンも使い、時事問題に精通し、知的好奇心は果てしないものでした。

 ここ数年は,私の家族ぐるみでお会いすることが多かったのですが、夫や息子や娘に話を合わせてくれるのはマーシャの方でした。そして音楽好きのマーシャは音狂家の夫に、いつもCDをくれたものです。

                                                  

         2013年8月 マーシャ95才

 私が最後にお会いしたのは、今年の1月3日。夫とふたりで昨年の夏以来半年ぶりにマーシャのお宅を訪れました。5年前には胃と食道の境目のヘルニアに苦しまれたり、昨年は心臓のペースメーカーを入れたり、シャワーの先を落として足の甲を骨折なさったりと、毎回お会いできるかどうかも危ぶまれた数年でしたので、お目にかかれるだけでどんなに嬉しかったことでしょう。

 もう96才というお歳だし、ときどき救急車で運ばれて緊急入院ということもおありだったので、面会時間は長くて1時間、できれば30分と決めていました。            

 ことに今回は「ちいさなメリーゴーランド」(瑞雲舎・2015年6月刊)の訳者の小宮由氏から、あとがきに一言をもらえればと頼まれていたので,大事な用件からと真っ先にメッセージのお願いを切り出しました。1946年にアメリカで出版されたこの本はマーシャの処女作品で、絵本作家としてデビューした記念の一冊だからでしょう。溢れる思いをA4の紙の上に滑らせるようにすらすらと書き始め、たちまちのうちに2枚目にかかっていました。美しいハンドライティングの原稿は5分ほどで、見事に仕上がっていました。さっと読み直しておられたときも、ほとんど書き直すところはなく、いきなり清書となりました。お顔色もよく、なんども危機を乗り越えられてきたが,今度も見事に復活されている!やっぱりマーシャは不死鳥!と喜んでいたのです。

ところがこれが絵本にかかわる最後の仕事となってしまいました。作家生活50年のスタートを与えてくれた本(The Little Carousel 「ちいさなメリーゴーランド」) に捧げた「思い出の記」が、ゴ―ルインの仕事になるとは!

         マーシャが書いた「思い出の記」

   「12−3−2015」 とあるのは「1−3−2015」の誤り   

            

  「ちいさなメリーゴーランド」こみやゆう訳     瑞雲舎 2015年6月 発行                             

 今から思うと、その時にはかなり無理をして会って下さっていたのだと思います。ドアーを開けたとき、いっしょにお住まいのジャネットが迎えてくれ、まずマーシャの寝室に行ってほしいと案内してくれました。一瞬ドキッとしましたが、マーシャはベッドに横になり,傍らのドアーやボードにいっぱい貼付けたご自身の絵を見せてくれました。はがき大の小さな絵は,マーシャが楽しみに日々描いてきたもの。ドクターも、マーシャの生きる目標だから、描きたいだけ描かせてあげなさいと奨励していたそうです。

 そして、「これが気に入っているの」と言ってマーシャが指さしたのは、真ん中に貼られたサンセットの写真。横になった時、ちょうど目の位置に貼られたその写真は、私が海辺で撮った夕陽の写真でした。私は南カリフォルニアの夕陽に魅せられ、水平線にかかる落日のショットをよく差し上げたのですが,その写真は私の最高作品でした。これを私に見せたくて、まず寝室に呼んでくれたのかと、胸が熱くなりました。マーシャはそのあと介護の人の助けを借りて起き上がり、リビングルームで私たちと語り合ってくれました。これが最後の別れの時となろうと誰が予測し得たでしょうか? 


  

   ベッドの側のドアーには、日々の楽しみに描いた絵がいっぱい。

       真ん中の2枚が南カリフォルニアの夕陽。

 3月末にCAを訪れた時には、もうお電話口に出ることもかなわなかったのです。今までお具合が悪かった時には、せめて「声だけでも会おう!」と言ってくれたマーシャが,もう電話にも出られない状態だったのです。マーシャは必ず甦るフェニックス!と一人勝手に思い込んでいた私には、その危篤の知らせも、訃報も現実とは思えず、今なお、マーシャの死が信じられないでいます。

           

         2015年 1月3日 マーシャ96才

         これが最後のお別れになるとは・・・

 マーシャは、1994年に来日した時、自分の人生の一部でもあると語った三人の女性作家、W・ガーグ、V・L・バートン、M・H・エッツについて「庭園の中の三人」と題して講演をしました。その中で三人の女性作家やマックロスキーを指して、「魔法の庭園に入る鍵をもった芸術家」と評しました。この庭園というのは「子どもの内なる想像の世界」で、この庭園を歩く人は、「幼い子どもの目や感覚を通して世界を見ることが出来る人」だというのです。マーシャ自身がまぎれもなくその鍵を持った人でした。

 そしてマーシャはその三人よりも少し遅れたがゆえに、もっと恵まれた時代を背景に仕事ができた幸運な人でした。マーシャが絵本を描いた戦後間もなく1946年から70年代は,アメリカの絵本の黄金時代でした。戦後のベビーブームは子ども人口を一挙に増やし、子どもの楽しみは本しかなく、豊かな暮らしをし始めた若い親たちは、絵本を買い求めた時代だったのです。マーシャは魔法の庭園に入り、その能力を思いの限りに羽ばたかせて絵本を作ったと言えましょう。

             

   1990年と1994年の講演が全収録された講演録

      表紙の絵はマーシャの最近の作品より(*1)

 人は、マーシャにまた絵本を作るよう頼んでくれと,私に言いました。しかし、その時代の絵本作りが,今と違ってどんなに大変であったか、またストーリーと絵の両方のみならず、構成から割り付けまで,一册の絵本を丸ごと一人で仕上げるマーシャのような絵本作家にとって、絵本制作は寝る暇もないほどの激務であったかを知ると、簡単にもう一冊とはとても言えませんでした。ことに物語の世界によって異なった手法を用いて描き上げるマーシャは、並々ならぬエネルギーをどの絵本にも注いできたのです。

 マーシャはこう言っています。

「私の場合,一冊の絵本を印刷に回すまでの全行程に、ほぼ5ヶ月ぐらいかかります。その間、仕事に取りかかったときの、はじめの強い興奮をずっと持ち続けるのがときに難しくなります。・・・ほとんどの場合、テキスト(ストーリー)に対する本当の(忠実な)気持ちと.その気持ちを持続できる力があればうまくいくものです。」(*2)

80才を過ぎたマーシャに「また新作を!」というのは過酷すぎる要求でした。私が出会ったマーシャは、すべての力を振り絞ったあとの安らぎの日々だったのです。

       

                   2013年1月 ご自宅にて マーシャ94才のとき

 カリフォルニアの紺碧の空を仰げば、マーシャが空のどこかからか見ていて、“Hello! ミドリ!”と呼んでいるようです。マーシャのお顔は本当に優しく、その微笑みは女神のようでした。その内面の豊かさがお顔に反映され、体で表現され、絵筆に託されたのです。マーシャの類まれなる才能は、数々の絵本を通して、子どもたちや私たちに、もうすでにしっかりと手渡されました。

 ありがとう、マーシャ!あなたは永遠、そしてあなたの作品も永遠です!多くの子どもたちに手渡していきますよ。

 輝く夕陽は海の彼方に沈んで行くけれども、あくる朝には必ずやって来ます。そして再び生きとし生けるものに恵みを与えてくれるように、あなたは「お陽さま」となって、私たちにいつまでも喜びを与えてくれるでしょう。そしてあなたは庭園の中を自由に跳びはねる「永遠の子ども」なのです。

     

 マーシャ、天国で何をしているの? お姉さんのヘレンは、99才で、3月16日に一足早く逝ってしまわれましたね。一番上のお姉さんと天国で再会し、昔のように三姉妹で仲良く遊んでいるのかしら? 子どもの頃のように三人で本に顔を突っ込んで読みふけっているのかしら?

もちろん一人で黙々と絵を描いているでしょうね。そしてあなたの好きなシューベルトを聴きながら、心を踊らせているかもしれません。

 しっかりと見守っていてくださいね。あなたが愛する全世界の子どもたちが、どの子も人間らしく、子どもらしく生きていられるように! 本を友として楽しめるように!

          2015年夏,カリフォルニアの青い空の下で                       細谷みどり

       

  落日後30分、夕陽は水平線の下から大空と海を染め上げる            

*1 レクチャー・ブックス マーシャ・ブラウン

  「庭園の中の三人・左と右」

      マーシャ・ブラウン著 松岡享子/高鷲志子訳

      東京子ども図書館 2013年発行

*2   「絵本を語る」 

      マーシャ.ブラウン著 上條由美子訳 

      ブックブローブ社 1994年発行


<参考文献> 庭園の中の三人

ワンダ・ガアグ       1893−1946

マリー・ホール・エッツ   1895−1984

バージニア・リー・バートン 1906−1968


<表紙を掲載したマーシャ・ブラウンの絵本>  邦訳年(原書出版年)

せかいいちおいしいスープ     岩波書店   2010年(1947) こみやゆう訳

デイック・ウイッティントンとねこ アリス館  2007年 (1950) まつおかきょうこやく

スズの兵隊            岩波書店  1996年 (1953) 光吉夏弥やく

空とぶじゅうたん         アリス館  2008年   (1956) 松岡享子訳

三びきのやぎのがらがらどん    福音館書店 1965年  (1957) せた ていじやく

もりのともだち          冨山房   1977年  (1967) やぎたよしこやく

ちいさなヒッポ          偕成社   1984年  (1969うちだりさこやく 

影ぼっこ             ほるぷ出版 1983年    (1982) おのえたかこやく

ダチョウのくびはなぜながい?   冨山房 1996年 (1995) V・ア=マダ作 松岡享子訳


                                                       <写真/細谷みどり撮影・禁無断転載>


かつら文庫 リニューアル・オープン 

2014-04-29 11:06:26 | みどり文庫

かつら文庫正面入り口

 

かつら文庫テラス側

  2014年3月3日お雛祭りの日、東京・荻窪にある「かつら文庫」を、文庫の仲間5人で訪れました。ここは1958年、石井桃子さんが自宅の一部を開放して始められた家庭文庫。その名は知れわたっていたものの、初めての訪問で心ワクワクして出かけました。

 

                    渡辺茂男氏蔵書コーナー

児童図書賞を受賞した書棚(奥の書棚)

 2008年、石井桃子さんが101才で他界されたあと、東京子ども図書館が改装し、ご自宅と別棟とを統合しリニューアル・オープンした初公開日。戦後児童図書賞(1947−2011)受賞作がずらりと並んだ書棚の他に、渡辺茂男氏の蔵書コーナーが設けられていました。2010年、渡辺氏の他界後、寄贈されたもので、戦後、日本に児童外国文学を次々に翻訳出版し、夜明けを告げたお二人の本が一堂に並んだ空間でした。

文庫マップ

 また「文庫マップ」というユニークなコーナーもあり、家庭文庫などの団体が、日本全国のどの地域にどのくらいあるのか一望出来る地図が目にとまりました。その数の多さに驚くと共に、「かつら文庫」に刺激されて芽生えた文庫が、今なお地道な活動をつづけている様子が目に浮かびました。

 別棟の階段を上って、側面が本棚という廊下をわたると、そこはもう桃子さんの元ご自宅。一階が文庫、二階がお住まいとされていた建物は全面開放。居間、書斎、どの部屋も広い出窓やテラスなど明るい空間に工夫が凝らされており、愛用の食器もそのまま。桃子さんの書斎の真ん中には大きな机が置かれ、四方がぐるりと本棚に囲まれていました。桃子さんがその椅子に腰掛けておいでのような気になるほど、何もかもがそのまま保存されていました、再販に向けて、ご自身で翻訳に手を入れられた直筆の跡も見られ、貴重な資料館といえます。

 

 階段を下りれば、1階は全フロアーが「かつら文庫」

かつら文庫受付コーナー

 かつら文庫は入口近くの部屋が文庫の受付と蔵書コーナーで、隣りの部屋が8畳ほどのおはなしの部屋になっていました。部屋の中は暖かみを感じる丸みのあるつくり。そこで子どもたちは、ゆったりとおはなしの世界に入っていくのでしょう。

かつら文庫に飾られたおひなさま

 ひな祭りのこの時期、犬養家から譲られたという由緒ある「おひなさま」が飾られ、「三月ひなのつき」を想わせてくれました。

 児童文学に生涯を捧げられた桃子先生の思いが、このように次の世代に受け継がれると思うと、感動をかくしきれません。たくさんの子どもたちに本が愛され、読まれ、さらに次世代に続いていくことを願いました。

 みどり文庫にもまた、おはなし好き、本好きの子どもたちがたくさん来てくれますように!

                             文責/みどり文庫  西矢悦子

   ★  上記の写真はすべて東京子ども図書館の許諾を得て掲載しております

 

<かつら文庫を訪問したい方へ>

東京都杉並区3−37−11(JR中央線 荻窪駅より徒歩)

開庫日(地域の子ども対象)毎週土曜日 2時〜5時

公開日(大人対象)   原則として火・木曜日 午後1時〜4時

   見学希望者は東京子ども図書館に前もってご連絡を。☎ 03−3565−7711


三陸大津波の傷跡をたどって ー陸前高田「ちいさいおうち」訪問ー

2012-05-06 23:05:30 | みどり文庫

 ずっと訪れたいと思っていた震災後の三陸海岸。しかしボランティアとして長期に働けるわけでもなく、見学だけのために訪れるのは、迷惑な話!とためらっていました。その壁を打ち破ってくれたのが、陸前高田に誕生した子どもの図書館「ちいさいおうち」。5月の連休を利用して、南は気仙沼から陸前高田、大船渡、釜石、大槌町、山田町、宮古と北上し、それからは電車と代行バスを乗り継いで八戸まで走ってきました。

 釜石の友人が車で案内してくれたので私は車窓にじっと張りついていました。思い切って行ってよかったと思うのは、何もない殺伐とした風景を、この目にしっかと焼き付けてきたことです。堤防を越えた津波が人々や家々を丸呑みにし、すべてをさらっていったというこの非情な現実!がれきの撤去はかなり進んでいたものの、壊され削り取られたコンクリートの残骸に津波の猛威を感じました。防波堤も鉄骨も打ち砕き、窓や壁を一気に突き破った水圧のすさまじさ!大自然のエネルギーを制圧できると思うのは、人間のおごりと思い知らされます。荒涼とした大地に残る道は、通行止めの看板があちこちに立ち、車のナビなど機能しません。建物の目印は何もなく、道ををさまよい走るだけで、絶望感が溢れてきます。今まで映像では感じ取れなかった無力感が込み上げてきました。

  

                        7万本あった松林はなぎ倒され、奇跡の一本松と言われたこの松も、根腐れのため、立ち枯れの運命にある。                                

  一方、被災地を一目見ておきたいと思うカップルや家族連れもチラホラ見かけ、我のみならずと安心もしました。「被災者語り部」というツアーガイドも生まれたようですが、人々が訪れることで、この地にお金が落ち、被災地の現状を理解できるのですから、これもまた復興支援の一つだと思います。

         

             館長はじめ多くの職員が犠牲になった博物館(左)と図書館(右)    隣接する中央公民館と市民体育館

                       

     スーパー「マイヤー」と市役所                               スーパー「マイヤー」の屋上に、多くの人が避難し助かった 

                      

                              全壊の高田市役所                            高田市役所の屋上

 

3.11の直後、壊滅状態の陸前高田を目の前にして、盛岡のNPO法人「うれし野子ども図書室」の理事長、高橋美知子さんは愕然とします。高田は20年来、「子どもと読書」の講師として招かれた所。建物は壊れ、風景も人も一瞬にしてなくなってしまったけれども、子どもたちがひとときでも瓦礫の山を忘れ、震災前の日常に浸るためには、この地に再び「子どもが本と出会う場」を作らなければならないと決意されたそうです。 夢はあっても、夢をかなえるとなると果てしのない道のり。4月から教育委員会や被災地支援団体に働きかけ、幾度もの挫折をのりこえつつ、無我夢中に駆けずり回って前進しつづけました。                     高橋美知子さん

その過程の6月、東京子ども図書館から支援の申し出があり、基本図書の寄贈に加えて、専任司書を職員として採用するなど、資金面でも大きなバックアップとなってくれました。これはもう鬼に金棒!百人力を得たようなものです。

  

高田保健センター横に設置されたトレーラーハウス「ちいさいおうち」。大きさは3.2×10m。約20畳くらい。         隣は高田市立図書館の仮設建物

公益財団法人 「ジャパン・プラットフォーム」と公益財団法人「東日本復興支援財団」が資金を提供してくれた。

7月に図書館設立費用の助成金申請書を提出するかたわら、8月に将来移動可能なトレーラーハウスを図書館にすることを決定。9月には長野市にある「カンバーランドジャパン社」に発注。11月には、V・L・バートンの「ちいさいおうちの物語さながら、コトコトと運ばれてきたレンガ色のかわいい図書館は、2011年11月25日、とうとう陸前高田の竹駒地区に誕生したのです。

       

内装や本棚は、長野のおはなしグループ「おはなし畑」の手によるもので、木の棚、木の机がぬくもりを与えてくれます。そこに吉田さん手作りの案内や掲示物が飾られ、すみずみまで温かみに包まれています。

蔵書は児童書ばかり3000冊。確かな目で選ばれた本がずらーり!本の喜びを授けてくれるものばかりです。

    

        

                                                    筆者(左)と 吉田佳織さん(右)

 職員は大船渡市在住の吉田佳織さん。地元大船渡、一関などで約8年の図書館勤務の経験を持つベテラン図書館員です。自宅もご両親のお店も全壊したとのこと。子どもたちの痛みを十分知りつつ、それには触れずに、一人一人の心に寄り添って明るく接していけるのは、この人の他にはいないでしょう。また子どもと本を結ぶ仕事は、その間に立つ人が一番大事です。吉田さんは、東京子ども図書館の専任図書館員として働き、児童サービスの研修を受けるかたわら、理想の子ども図書館を目指しています。

図書館のある竹駒地区の一角では、桜が満開でした。この地に希望をもたらした「ちいさいおうち」が、いつまでも幸せに暮らせますように!!!と願ってやみません。    

            〒029-0023     岩手県陸前高田市 竹駒町字館44

                           (竹駒コミュニティーセンター隣) 

     陸前高田こども図書館・うれし野こども図書館分室 「ちいさいおうち」

                 開館日/火・水・金・土・日曜日 10:00~16:00

                          休館日/月・木曜日、祝日、年末年始

 

 さて、ここを訪れる人のために地図を載せますが、これはまさに仮設地図。周りのお店というお店はみんな仮設店舗で、いつ移動するかわかりません。お弁当屋さんもそば屋さんもコンビニも、はては葬儀屋さんまで仮設店舗なのです。

           

その中に、本屋さんがあったのは嬉しいことでした。もちろん。さっそく入って、「想い出の風景」の写真集を4冊買いました。被災前、被災後の姿が並んだ写真集は、今はもう跡形もなく消滅してしまった町や、学校や美しい風景を見せてくれます。信じられない変わり様に、引き裂かれた家族の悲しみを想わずにはいられません。

    

  

         仮設店舗が空き地に立つ光景 (上段左から本屋さん、そば屋さん。下段は左から、弁当やさん、コンビニ、葬儀屋さん)

 

「ちいさいおうち」をご支援いただける方は、下記にお振込みくださいませ。

 ◆ 寄付金/盛岡信用金庫 本店 普通口座 0276287

             NPO法人 うれし野こども図書室 代表 高橋美知子

◆ 賛助金/ 郵便局 口座記号番号 02290-0-56378

                加入者名   NPO法人 うれし野こども図書室

◆ 寄付金/ 郵便局 口座記号番号 00130-9-115393

               加入者名    公益財団法人 東京子ども図書館

               「3.11からの出発」基金へ