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緑の、東京ブログ

千葉県の東京寄りに住んでいる私「緑」が大好きな東京の散策写真のブログを作ります!!!

厳冬の新宿中央公園(2):公園北側の芝生広場を歩く

2013年01月13日 10時36分12秒 | 淀橋台・新宿


新宿中央公園の緑地帯の西側は、中低層マンションや住宅が立ち並ぶ住宅密集地が広がっているのです。高層ビルに囲まれているイメージが強い新宿中央公園ですが、実際に歩いてみると住宅地内の緑地帯としての雰囲気の方が強いと感じました。




閑静な住宅街の中の公園から見上げる西新宿の高層ビル群の風景も素晴らしいと思います。




引き続き人通りがほとんどいない、平日の新宿中央公園の散策を続けていきます。




ふれあい大橋を渡り、再び緑地帯の北側のエリアを散策していきます。公園内の高台を進み「新宿白糸の滝」と呼ばれている滝を見に行こうと思います。




1888年(明治21年)には内務省に市区改正委員会が設置されて水道改良の実施を決議し、調査検討の結果として1890年(明治23年)に『東京水道改良設計書』が内閣総理大臣の認可を得ました。その後東京市議会で水道施設改良費や新浄水場の建設が決定されます。




1898年(明治31年)の12月1日に淀橋新浄水場は竣工し、明治維新以来31年目にして近代水道が東京に誕生しました。淀橋浄水工場は直ちに神田・日本橋方面に通水を開始、翌1899年(明治32年)からは各戸の給水工事に取り掛かり、過処理された浄水を給水開始します。その後も給水区域を着々と拡大し、1901年(明治34年)には東京市内の旧上水を廃止しました。




緑地帯内の高台から緩やかな下り坂を歩いていると、前方に「新宿白糸の滝」が見えてきました。




給水開始当時の水道は現在の一般家庭各戸に給水されるスタイルではなく、街路に設置された共用水栓を利用するものであったそうですが、上水井戸の時代とは変わって雨天時の混濁がなく、多大な労力を要する事も無く蛇口をひねればいつでも清潔な水を大量に得る事が出来ました。




また鉄管で密閉・圧送された浄水は清潔なだけではなく、消防用水としても効果的で、大火を防止する有効な手段とになりました。本格的な給水開始以降は東京における伝染病や火災の発生数は激減し、近代水道の効果を示したのです。




新宿中央公園の敷地も西新宿の高層ビル街と共に淀橋浄水場だった場所でした。浄水場廃止の後も水が豊富にあると言うイメージを生かして、公園造営時にこの「新宿白糸の滝」が作られたそうです。また水の広場側には「新宿ナイアガラの滝」もあります。




新宿白糸の滝の前を離れて、標高が周囲より高くなっている芝生広場方向へ歩いていきます。




芝生広場の脇には花壇が整備されていました。芝生広場内では地域の人々が散策している姿が見えました。




1923年(大正12年)9月1日に関東平野を襲った関東大震災によって、東京市内で住居を失った市民が広い山の手郊外に土地を求めるようになり西新宿一帯はその代表的な住宅地となりました。その時から淀橋浄水場の郊外への移転が地域住民たちによって要望されるようになります。




1932年(昭和7年)には東京市会に東京市第二水道拡張計画案が提出されます。淀橋浄水場の機能を東村山市に移転させ(現在の東村山浄水場)、淀橋浄水場の売却処分収入を市債の償還費に充当するというものでありました。その後戦局の悪化に伴って、移転は戦後に持ち越されることになります。




広大な芝生広場内は木々が生い茂り、まるで原生林の中を歩いているようですね。




1960年(昭和35年)に移転先であった東村山浄水場が竣工・通水すると、淀橋浄水場は廃止に向けて職員の転出が始まります。当時の職員は約150名で、技能研修を実施したうえで段階的に転出しました。同時に施設能力の段階的縮小も図られ、1965年(昭和40年)に入る頃までには大部分の施設が停止されたのです。




その後は新宿副都心の高層ビル計画と、新宿中央公園の整備が始まることになります。公園北側の花時計前に到着しました。これで厳冬の新宿中央公園の散策は終わりです。



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