Pianist 池田みどり

ピアニスト池田みどりの四苦八苦をまるごとお見せします。
http://www.hi-ho.ne.jp/~midopi/

映画「ローマの休日」と赤狩り

2011-06-27 | ドキュメンタリー/映画
 多くの人に愛される映画「ローマの休日」は夢のようなストーリーですが、実はこの脚本は赤狩り(共産主義者排斥運動)でハリウッドを追放されたダルトン・トランボが、書きあげたものでした。彼は自分の名前を伏せるため友人イアン・ハンターの名前を借り、ハンターは1953年のアカデミー賞最優秀脚本賞を受賞します。1993年、トランボの遺族にアカデミー脚本賞が40年ぶりに渡されました。

 1929年に始まった大恐慌から立ち直るためにルーズベルト首相はニューディール政策を打ち立て、貧富の差をなくそうと共産的な考え方に復興を目指します。ダルトンが共産党に入党したのはこの時期です。しかしソビエトが台頭し、共産主義が現実化する中、1947年3月トルーマン大統領は共産主義封じ込め政策を打ち出します。これが米ソ冷戦の始まりです。非米活動委員会は、共産主義者を取り締まるためにハリウッドに目をつけます。10月公聴会が開始されます。先陣を切ったのはウォルト・ディズニーなどの反共産主義のトップスターたちでした。トランボは当時売れっ子の脚本家でした。彼を含め、ハリウッド・10と呼ばれる人たちは証言を拒否することで、赤狩りに反抗しました。翌月アメリカ下院はハリウッド10の議会侮辱罪を可決。映画制作協会は赤狩りへの協力を表明し、共産主義者は雇用しないと表明しました。トランボは絶頂の時期にハリウッドから追放されました。ハリウッドは赤狩りによって分断されました。 

 ローマの休日の監督であるロバート・ワイラー氏は、共産主義者ではないものの、思想の自由を迫害するものだとこの赤狩りに抗議しました。
 「非米活動委員会は表現を抑圧しハリウッドに恐怖をもたらしている。恐怖は検閲を、検閲は映画を麻痺させる」

 追放されながらもトランボは偽名を使って脚本を書き続けました。1948年ごろ、親友イアン・ハンターの秘密を守ると云う堅い約束を得て、ローマの休日は書きあげられました。撮影はハリウッドを避けローマ・ロケで行われました。実は赤狩りで追放されたスタッフも混じっていました。ワイラー監督が信頼するスタッフたちで固められたロケでした。1950年にはトランボは10カ月投獄されます。しかし、その後赤狩りを扇動していたマッカーシー議員は議会を追われ、赤狩りは収束していきます。その後まもなく米ソ冷戦が終わりを告げると、この映画「ローマの休日」はモスクワで公開され、好評を得ました。

 トランボは1960年以降、スパルタカス Spartacus(1960年)、栄光への脱出 Exodus(1960年)、いそしぎ The Sandpiper(1965年)、ダラスの熱い日 Executive Action(1973年)、パピヨン Papillon(1973年)の脚本を書いています。特に1971年にはジョニーは戦場へ行った Johnny Got His Gunを小説化し、映画化されています。

 ※BS歴史館 シリーズ ハリウッド100年(1)「ローマの休日」~赤狩りの嵐の中で~オンデマンド 
 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028050SA000/index.html

最新の画像もっと見る

コメントを投稿