前の記事で竹宮先生の「ワン・ノート・サンバ」について書いたら、もう一度読みたくなっちゃいまして、古本屋を漁りに行ってきたんです。
……なかった、2軒も回ったけど、影も形もない。そもそも、竹宮先生の漫画自体が置いてなかった()
哀しい。もう私たち世代の漫画はお払い箱なの?(泣)別にこの人の大ファンってわけじゃなかったけど(ちがうんかいっ!)それでも、一時代を築いた人よぉ~今のヤオイの元祖みたいな「風と木の詩」とかさ。私だって一応あの時代の少女のタシナミとして、読んだことは読んだのよ。結論としては、ワタシャ駄目だ、男同士とか、少年愛とか、背中がゾワゾワする、と思っただけだけど(笑)だって、このマンガ、スゲーヘビーだもん。今の腐の方々が、男同士が仲良くしている姿を見てるだけで、盛り上がれるような、妄想程度の話じゃないもん!なんで、こんなハードなポルノを、少女マンガ雑誌に連載してたのか、今もって謎。ある意味、攻めてたね、あの当時のマンガ界は。
話が逸れました。「ワン・ノート・サンバ」捜索に話を戻します。
BOOKOFFになかったけれど、もしかしたら、TUTAYAのコミックレンタルにあるかも、と淡い期待を抱いて行ってみたんです。……ま、あるわけないとは思ってました、ええ。諦めました。ただトシちゃん関係で、読みたかっただけだから、何が何でも、というわけでもないし、と自分に言い聞かせました。
しか~し、代わりと言っちゃあなんですが、買うつもりで、すっかり忘れていたマンガを借りられました。
「春の夢」
ポーの一族の何十年ぶりかの続編だそうで。竹宮先生の宿敵、萩尾望都先生の代表作ですな。……えっ、宿敵じゃない?アタシの中では、そういう設定よ何故か(笑)
昔の名作の続編なんて、この作家らしくないわ、と否定的に見てたので、なかなか読まなかったこの作品。読んでみたら、いや~甦った甦った、いろんな意味で…って、トシちゃんの時も書いたな、このフレーズ()ワタクシ、只今絶賛回顧モードなのかも。
ツンデレ王子のエドガーとか、性格悪くて体も虚弱のお荷物キャラ、アランとか、懐かしいっ!というか、よく帰ってきたね~というか。
無論、作者も年月重ねてますから、作画も変わっています。しかし、多分若いときには描けなかったであろう人物像も出てきて、なかなか、この続編意味深いのかも、と思いました。作者が年を重ねたからこそ描ける人物があるんだな~と。
どういうことかといいますと、昔はやっぱり作者も少女に近い年齢だったわけですよ、だから、人間の業の深さなんて、分かるわけもない。そういう人物が出てきたとしても、想像の産物みたいなもんです。しかし!今はそういう人間をちゃんと描ける。なぜなら、そういう人をたくさん見てきたであろうから、のみならず、自分のそういう部分も自覚せざるをえないから、長年生きてきた人間として。
昔の「ポーの一族」は、怪奇譚ではあっても、やはり少女マンガらしさがあったんです。甘く、美しいゴチック調の絵と共に。
ところが、続編になると、主人公たちの周りの人物が、揃いもそろって、グロテスクな奴ばっかりなので、主人公のエドガーが、その冷酷さで見劣りしちゃうほどなんですよ。
……エドガーは吸血鬼ですよ、知ってますよね、てか、知ってて、この記事読んでね、読んでいる人がいるなら(笑)
この「春の夢」は、昔のファンからは、どういう反応を得たのかは、ワタクシ存じませんけど、多分「ポー」の世界を汚された!と思った人もいたかもしれないなあ、と感じます。確かに、あの作品の奇跡的な美しさは、もうないかもしれない。でも、あの美しさって、やっぱり世間知らずのお姫様的なものじゃないか、って思うんですよ、今の私から見ると。なにか、立体的ではない、絵画のような表層的な美というんですか。
しかし、お姫様も歳はとる(笑)世間を知っていく、となると、美しいだけではいられんのよ……ってことになる。すると、この作品から少女マンガ感が消えていく、いや、消えはしないけど、その要素は薄まるわけです。
薄まった美しさの替わりに、登場人物に実態感が現れる。人間の醜さも、欲望も、弱さも、余すことなく描かれる。
そういうある意味暑苦しい人物らに囲まれて、主人公は、どこか存在が薄い。いや、元々バンパイアなんて、影みたいな存在ですけど、それでも、以前の「ポー」では、人間に害をなすことが出来る邪悪さもあったんです。ところが、この続編では、周りの人物の方が強烈なんで、エドガーが被害者みたいに見えちゃう。
つまりね、エドガーたちは唯生きてるだけなんです、死ねないから。ところが、死ぬ運命にある人間は、命に限りがあるから、自分の欲に正直だし、他人を押しのけることもいとわない。それの最終形態として、戦争なんかやってますしね(このマンガ、第2次世界大戦の真っ最中)
いや、人間だけじゃない、エドガーと同族なのに、欲望まみれの女のバンパイアとか、エドガー以上に長生きしてるのに、全然悟らない奴とか。も~元気いっぱいで、迷惑極まりないのよ。でも、こういう欠点だらけの人物が、やっぱり面白い。吸血鬼なのに人間臭い……矛盾してますけど、そうとしか言いようがない(笑)
多分ね、萩尾先生は、もう、主人公二人にはあんまり興味がないかもしれない。それよりも、まわりの変な人間やら、やる気満々の吸血鬼を描きたかったんじゃないか?とさえ思っちゃうんです。
元々、エドガーたちには、歴史の傍観者、という役割もありましたけど、この作品においては、傍観者でさえいられない。強烈な人物らにサンドバッグにされる立場に陥っている、そんな感じです。
で、思う。死なないって、なかなか辛いわ~と。私は、人生50年でいいです。あ、過ぎてたわwww
……なかった、2軒も回ったけど、影も形もない。そもそも、竹宮先生の漫画自体が置いてなかった()
哀しい。もう私たち世代の漫画はお払い箱なの?(泣)別にこの人の大ファンってわけじゃなかったけど(ちがうんかいっ!)それでも、一時代を築いた人よぉ~今のヤオイの元祖みたいな「風と木の詩」とかさ。私だって一応あの時代の少女のタシナミとして、読んだことは読んだのよ。結論としては、ワタシャ駄目だ、男同士とか、少年愛とか、背中がゾワゾワする、と思っただけだけど(笑)だって、このマンガ、スゲーヘビーだもん。今の腐の方々が、男同士が仲良くしている姿を見てるだけで、盛り上がれるような、妄想程度の話じゃないもん!なんで、こんなハードなポルノを、少女マンガ雑誌に連載してたのか、今もって謎。ある意味、攻めてたね、あの当時のマンガ界は。
話が逸れました。「ワン・ノート・サンバ」捜索に話を戻します。
BOOKOFFになかったけれど、もしかしたら、TUTAYAのコミックレンタルにあるかも、と淡い期待を抱いて行ってみたんです。……ま、あるわけないとは思ってました、ええ。諦めました。ただトシちゃん関係で、読みたかっただけだから、何が何でも、というわけでもないし、と自分に言い聞かせました。
しか~し、代わりと言っちゃあなんですが、買うつもりで、すっかり忘れていたマンガを借りられました。
「春の夢」
ポーの一族の何十年ぶりかの続編だそうで。竹宮先生の宿敵、萩尾望都先生の代表作ですな。……えっ、宿敵じゃない?アタシの中では、そういう設定よ何故か(笑)
昔の名作の続編なんて、この作家らしくないわ、と否定的に見てたので、なかなか読まなかったこの作品。読んでみたら、いや~甦った甦った、いろんな意味で…って、トシちゃんの時も書いたな、このフレーズ()ワタクシ、只今絶賛回顧モードなのかも。
ツンデレ王子のエドガーとか、性格悪くて体も虚弱のお荷物キャラ、アランとか、懐かしいっ!というか、よく帰ってきたね~というか。
無論、作者も年月重ねてますから、作画も変わっています。しかし、多分若いときには描けなかったであろう人物像も出てきて、なかなか、この続編意味深いのかも、と思いました。作者が年を重ねたからこそ描ける人物があるんだな~と。
どういうことかといいますと、昔はやっぱり作者も少女に近い年齢だったわけですよ、だから、人間の業の深さなんて、分かるわけもない。そういう人物が出てきたとしても、想像の産物みたいなもんです。しかし!今はそういう人間をちゃんと描ける。なぜなら、そういう人をたくさん見てきたであろうから、のみならず、自分のそういう部分も自覚せざるをえないから、長年生きてきた人間として。
昔の「ポーの一族」は、怪奇譚ではあっても、やはり少女マンガらしさがあったんです。甘く、美しいゴチック調の絵と共に。
ところが、続編になると、主人公たちの周りの人物が、揃いもそろって、グロテスクな奴ばっかりなので、主人公のエドガーが、その冷酷さで見劣りしちゃうほどなんですよ。
……エドガーは吸血鬼ですよ、知ってますよね、てか、知ってて、この記事読んでね、読んでいる人がいるなら(笑)
この「春の夢」は、昔のファンからは、どういう反応を得たのかは、ワタクシ存じませんけど、多分「ポー」の世界を汚された!と思った人もいたかもしれないなあ、と感じます。確かに、あの作品の奇跡的な美しさは、もうないかもしれない。でも、あの美しさって、やっぱり世間知らずのお姫様的なものじゃないか、って思うんですよ、今の私から見ると。なにか、立体的ではない、絵画のような表層的な美というんですか。
しかし、お姫様も歳はとる(笑)世間を知っていく、となると、美しいだけではいられんのよ……ってことになる。すると、この作品から少女マンガ感が消えていく、いや、消えはしないけど、その要素は薄まるわけです。
薄まった美しさの替わりに、登場人物に実態感が現れる。人間の醜さも、欲望も、弱さも、余すことなく描かれる。
そういうある意味暑苦しい人物らに囲まれて、主人公は、どこか存在が薄い。いや、元々バンパイアなんて、影みたいな存在ですけど、それでも、以前の「ポー」では、人間に害をなすことが出来る邪悪さもあったんです。ところが、この続編では、周りの人物の方が強烈なんで、エドガーが被害者みたいに見えちゃう。
つまりね、エドガーたちは唯生きてるだけなんです、死ねないから。ところが、死ぬ運命にある人間は、命に限りがあるから、自分の欲に正直だし、他人を押しのけることもいとわない。それの最終形態として、戦争なんかやってますしね(このマンガ、第2次世界大戦の真っ最中)
いや、人間だけじゃない、エドガーと同族なのに、欲望まみれの女のバンパイアとか、エドガー以上に長生きしてるのに、全然悟らない奴とか。も~元気いっぱいで、迷惑極まりないのよ。でも、こういう欠点だらけの人物が、やっぱり面白い。吸血鬼なのに人間臭い……矛盾してますけど、そうとしか言いようがない(笑)
多分ね、萩尾先生は、もう、主人公二人にはあんまり興味がないかもしれない。それよりも、まわりの変な人間やら、やる気満々の吸血鬼を描きたかったんじゃないか?とさえ思っちゃうんです。
元々、エドガーたちには、歴史の傍観者、という役割もありましたけど、この作品においては、傍観者でさえいられない。強烈な人物らにサンドバッグにされる立場に陥っている、そんな感じです。
で、思う。死なないって、なかなか辛いわ~と。私は、人生50年でいいです。あ、過ぎてたわwww