goo blog サービス終了のお知らせ 

SIMPLE LIFE

小説、映画、テレビなどへの個人的所見などを。(ほぼ独断)

シン・ゴジラ 5

2016-09-09 23:21:15 | レビュー
どうして、よその国の憲法をアメリカが書いているのか?という素朴な疑問を、何故当時の日本人は持たなかったのだろう?と思いませんか?(私はおもいますし)というか、これこそが、戦後の日本の根本的な問題じゃね?という気もうっすらしてるのです。
それは、当事者が憲法を書いてない、ということと共に、そのことに誰も疑問や突っ込みを、まともにしなかったのではないか?ということです。
何故か?それは、日本が敗戦国だから、ということだけじゃない。いや、いくら戦勝国でも、併合したわけでもない他国の法を弄ろうだなんて、まともに考えたらやるわけがないし、受け入れられるわけがないはずです。
それなのに、こんなことがまかりとおったのはなぜか?
そのぐらい日本の戦争行為は卑劣な行為であった、と思わせられたからですよね。更に戦前の国家体制そのものも完全否定された。
だから、正義の国アメリカが書いた民主的な憲法を受け入れるべきなんだ、と刷り込まれた。
ワタクシ別に、戦前の日本が正しかったとか、美化するとか、そんな気持ちは毛頭ありませんよ。しかし、このアメリカの徹底ぶりは、やはり、何らかの意図、いや、悪意にも近い意思を感じざる負えない。
その意思の最たるモノが、そう戦力としての武力の放棄というやつです。
これ、どうでしょう~?まともな独立国家が(いや、まともでなくとも)持っていい憲法でしょうか。
どこの世界に、軍備を持たない国が存在するでしょうか。あり得ない!鍵のついてない家に誰が住みますか?つーはなしですわ。
でも、それを押しつけたアメリカ、何故だか呑んでしまった日本。あかん、やはり、変だ、この2国。民主主義と平和主義という、言葉は美しいが、非常に危険なドラッグに酔っていたんじゃないですか、当時の人間は!と嫌味の一つも言いたくなりますよ、まったく。
大体、なぜこの「シン・ゴジラ」において、あれほど、手続きシーンが多いのか。ゴジラを攻撃するのに、法的根拠がどうのこうの・・って、これ、今の日本の制度、すなわち法律の不自由さの比喩なわけでしょう?いや、比喩でもないな、ずばりそのものですわ。なぜ、自衛隊はあれほどに、法律でがんじがらめになっているのか。正しい手続きを踏むために、どれだけの犠牲者が出ているのか?と。文民政治だから、だけでは説明のつかない不条理さがあるはずです。その不条理をよしとする感覚、それこそが民主主義であり、護憲派のコモンセンスなのかもしれませんが、美しい理想の為に、人が死ぬのだという矛盾には、彼らはどう答えるのだろう?という気もします。

この矛盾は、平和主義という理想が、実はアメリカという保護者の傘の下でしか成り立たないということと、我ら日本の平和主義は、実は無責任主義に過ぎないのでは?ということと無関係ではありません。自ら憲法を作らなかったということが、日本人から当事者意識を奪ってしまった結果、この矛盾を生んだといってもいい。自意識薄き国家は、辛うじて国内を治めることができるでしょう。といいますか、この完全な内向き志向と防衛の丸投げによって、平和国家日本を育んだわけです。しかし、この平和主義は本当に無責任極まりない。日本では、戦後70年であったかもしれませんが、その外側では、相も変わらず、規模の大小はあれ、ずっと戦争をしているわけです。幸せな戦後をぬくぬくと送っていたのは、日本ぐらいだよ、と他国に嫌味を言われても、返す言葉もない、というのが本当のところです。いや、日本の平和を誇ってもいい、などとほざいている人は、恥を知るべきだ!とさえ思います。みずから、積極的なアクションはなにもせず、世界の為になにも動かなかった、その結果の平和なのですから。
しかし、それは、ま、アメリカが戦後にそうしむけてしまったわけですから、今更、家にニートがいると嘆かれても、あんたらの責任は大きいよ!と思わないでもない(笑)
しかし、いつまでも、ニート生活を送っているわけにはいかない!と考える人が出てくる時代ですよ・・というのが、この怪獣映画「シン・ゴジラ」の最終結論ではないか?と見ます。
別に新しい考え方ではないでしょう。憲法改正は、保守系の政治家の悲願でありますから。しかし、どうも本気でやる気があったかどうかは、非常に怪しい・・どこか、遠いところに置いておく、やはりこれも理想みたいなもので、右方面の方々も、アメリカの庇護の下で生きていくのが、日本にとって、一番無難だとしてきたんじゃないか?とさえ思えます。
ですが、このゴジラ来襲という国難を前に、そういった右、左の従来の政治作法は意味を成さなくなります。
国家存亡の危機に、お花畑の平和主義も、空想的な独立主義も通用しません。あるのは、目の前の現実だけ。ゴジラをやるか、やられるかのみ。
そして、政治家は研ぎ澄まされ、何が、今時点で、何が最良であるかを選択していくわけです。
だから、この映画、カタルシスがあるわけですよ。正しい判断が取られた結果があのラストですから。
・・ま、カオスで終わっても、それはそれで、面白いかもしれませんがね。

この映画での日本の最大の危機は、ゴジラ襲来であることは確かですが、それに加えて、国連(という名のアメリカ)が、ゴジラに熱核爆弾を使用する、と決定した、というところでしょう。
というか、この決定のほうが、ゴジラよりよっぽど怖いわっ!と思いました。なに、勝手に決めてくれてんのよっ!と。
その決定を受け入れる法案を作成するように言われた赤坂が、ゴジラにさえ動揺しなかった男が、涙目で総理に問いただしたのは、そりゃむべなるかな、と思いましたよ、実際。
だって、これは、第2の敗戦ですよ。独立国として、到底受け入れがたい要求を呑めと言われているんですから。それも、核兵器を、もう一度この日本に落とす?首都に?ないわ~絶対ないわ~、じゃないですか?
矢口は、はっきり「ないわ~」と言い切りますよね。そんなの、主権国家のやることじゃねえ!って。「戦後は続くよ、どこまでも」とは、言い得て妙ですが、そんなこと言って、赤坂センセを困らせるんじゃないよ、という感じもしますな。
つか、あんた、上司によく言うね、そんなこと!と言いましょうか(笑)
矢口が言いたいことは、百も承知で、それでも呑まなきゃならんことも、お前知ってるだろうが、と赤坂は言いたいわけです。
多分この二人は、政治信条は、ほぼ同じであるでしょう。ですが、多分性格も違えば、政界での揉まれ方、成り上がり方も違うはず(単なる想像)理想主事者と現実主義者・・という色分けでは割り切れない、現状への目の向け方の差異が感じられます。
現状にとらわれるだけでは、未来に対し責任を取れない、ということを、矢口は学ぶべきだ、と赤坂は考えているわけですが、矢口は、いまここで折れたら、未来も糞もない、と上司を罵っているわけですな。(やっぱ、生意気)
で、どうなったか。日本の得意技、折衷案ですよ。というか、日延べ、時間稼ぎ。完全にアメリカを拒否は出来ないけど、少しは我を通させてもらってもいいじゃな~い?という。
つまり、ここにはイデオロギーの入り込む余地はない。苛烈な現実は、政治信条だけでは処理できないのです。そして、そこにこそ、普段理想家や思想家らから見下されている政治家のみが出来る仕事がある。妥協と折衝、そして決断。いくら優秀な官僚も、専門家も関われない世界といいますか。臨時総理に最終決断をねじ込む場面、あの総理執務室にいたのは、多分殆ど全員が政治家なのは、そういうことだからです。国の方向を決められるのは、政治家だけだ、ということです。(彼らを選んでいるのは我ら国民でありますがね)それを、ゴジラ襲来!という空想的な設定で、我々に再認識させてくれたこの映画。う~む、なかなかだ。深読みのし甲斐がありますわ(笑)

この映画のキャッチコピーは「現実 対 虚構」だそうで、その横にはご丁寧に、現代日本 対 ゴジラなどと書いてありますね。
しかし、ワタシ的には、この映画を観た後では、これは逆ではないか?という気もしています。いや、ゴジラはリアルな生き物じゃありませんが、しかし、このゴジラに象徴されるものを、我々日本人はちゃんと直視しているだろうか?と。
災害のように、ある程度、過去の経験則で語れるものではない、しかし、絶対ないとは言い切れない危機が現実に訪れたとき、ちゃんと対応できる国の形になっているのか?
原発事故レベルではない、国家存亡の「今そこにある危機」を、見て見ぬふりはしていないか?政治家や官僚だけではない、我々日本人に、それを見る勇気はあるか?
・・はなはだ、怪しい。大丈夫か、ワシラ、という感は強い。
ゴジラ的な危機はあるという現実を、平和という虚構の理論に埋没して、かるーくスルーし続けた70年。
ですがね、その平和を担保し続けたアメリカが、徐々に逃げを打っている、といいますか、いや、そろそろ日本にも、国際社会で独り立ちしてほしいんだわ~的な雰囲気を醸してきているのも、また、現実なわけです。
その現実に、もう、頭でっかちなイデオロギーで言い逃れは出来ない。あのゴジラの背から解き放たれたビームは、まさしく日本が直視すべき現実そのものです。有無を言わせぬ強制力で、我々に変化を促しているようです、あの残酷で美しき光は。
映画の中の人々は、それに気づき、そして、何とか対処した。今の、日本の政治体制のままで。だが、その犠牲は大きい。一つの内閣が吹っ飛び、首都は汚染された。
だから、矢口と赤坂の、最後の会話は、どエライことを言ってます。(これに比べると、矢口とカヨコの会話は・・それこそラブシーンのように無意味、サービスシーンですわ)「日本はスクラップ&ビルドで、何度ものし上がってきた」のだから、これを機会に、国を制度を変えていく、と誓っているのです、この二人。臨時内閣が総辞職したのは、そういう意味です。彼らは、国土の文字通り再建とともに、日本という国の改革を目指す、と。政治の季節の開幕です。
多分、ハリウッドでも、日本でも、一度として、こんなディザスタームービーのラストは、見たことはないでしょう。
「さあ!総選挙だ」という。いや、そんな台詞はありませんでしたが、そう意味ですよね、あの主人公のやる気満々なラストの表情は。
だって、政治家ですもん!あったりまえですな(笑)








シン・ゴジラ 3

2016-09-03 19:26:51 | レビュー
ちっとも内容に踏み込まないので、全然ネタバレになってませんね、このレビュー。
それもそのはず、粗筋を書くほどのこともないほどストーリーはシンプル。
ゴジラ来襲→日本政府右往左往→それでも何とか対応決まる→自衛隊出動!攻撃!→まるで歯が立たず→アメリカ軍爆撃→ゴジラおこ、口から背中から、尻尾からレーザー出しまくり→さようなら内閣の皆さん→ゴジラ疲れてちょいと休憩、活動停止→その間に色々とゴジラに関する研究が進み、対応策が練られる→と思ったら、国連という名のアメリカ様が、「ワシが最終手段使っちゃるわ」と脅してくる。→日本、弱者の意地をみせる。やるときゃやるよっ!→ゴジラ丸ノ内あたりでモニュメントになる(邪魔くさいったらありゃしない!)
・・・ワタクシ、ふざけ過ぎ?でも、そんな感じだよ、この話(笑)
とにかく、ゴジラの造形が、いいのよねえ。恐竜っぽさ(ジュラシックワールド的な)はないの。まさしく怪獣。んなもんいるかいっ!というか、怪獣ファンが想像力フルでつくりあげた、奇怪、醜悪の権化といいましょうか。
あのゴジラを見て「ゴジラが可哀そう・・」などとホザイタ人、あんたちょっと変だよ!と言いたくなる。
まあね、ストーリー的には、山から下りてきて人間襲っちゃった熊を、猟友会の方々が駆除しました、というニュースに近いわけですけどね。だからといって、熊を人里で自由勝手にはさせられないでしょ。
で、熊なら駆除できるわけです、多分そういう法律があるでしょう、もしくは条例か。
しかし、ゴジラは、いったい何の法律で、どういう手順で、どこが、駆除したらいいのか。
いや、それ以前に、この生物は駆除していいものか?それこそ、その法律的根拠は何になるのか?という「おいっ!そこから?!」とそもそも論を始めちゃう映画、そう、それがこの「シン・ゴジラ」でございます。
そんなことはどうでもいいんじゃ!もっと被害にあう日本人の阿鼻叫喚を見せろいっ!という人は、この映画には合わない。もう入口が違うわけですから、さっさと諦めて帰るか、「あとで、むちゃくちゃ批判のツイしてやる・・」と企みながら、映画を最後までムカムカしてみるか、どちらかを選べばいい。
そういう意味では、随分割り切った作りなんですね、この映画。
「俺は、登場人物の人生ドラマとか、背景とか興味ないんで・・」と監督自身が宣言してるようなものですから。
特撮も大したことない(ハリウッドに比べれば)、人間のドラマパートもない、ただただ状況だけが、見ている人を追い立てる。
なんという映画でありましょうか。確かに問題作であります。

となりますと、役者らは、ゴジラと同様、画面を彩るコマ的な扱いであります。ほとんどの俳優さんは、アップで顔芸をやり、早口で情報を伝えるだけの存在にすぎません。もしかしたら、新幹線とか在来線の方が見ている人の胸を躍らせたかも(笑)
しかし、登場人物が特に意味をなさないのは、監督が人間に興味がないから、と言うよりは、これが政府と官僚の、行政手続きについての物語だからではないでしょうか。
つまり、ここで描かれているのは、政治ではないのです。あくまで行政。どこまでもアノニマスと言いますか。まあ、そうでしょう?我々は総理大臣の名前は知ってますけど、その下で働く高官や役人の名前は知らない。興味もない。しかし、国家というものは、おおむね、その人々によって無事に運営されていくもんです。
ですから、ここで出てくる政治家や役人も未知の生命体に慌ててはいますけど、やるべきことはやっている。
役者に人間ドラマの芝居をさせない=匿名性の下のその整然たる行政力という描写・・という形になっている、と私には見えました。

しかし地味で優秀な人々でも、さすがにゴジラには太刀打ちができない。
いままで出会ったこともない状況には、さすがの行政のプロたちも、後手後手に回らざるをえないんですな。
ここで、何が出てくるか?そう!行政と法律で突破できないなら、科学があるじゃないか!と
専門家という名のオタクどもがいるんですよね。
・・見ているオタク方は、ここらが胸熱らしい。(私は、チョイ漫画的じゃないか、この一団・・と思わないでもない)
これは、ハリウッドのディザスタームービーにもよくあります。上の方の無理解で頭の固いエライサンに対し、危機をいち早く察し、物事の本質を提示する専門家(今は干されている)という構図。で、そういうアウトローが世界の危機を救うんだな~アメリカでは。
しかし、そんな単純なことかね~といつも思っていたんですよ、ワタクシ。
上の方々は、そこまで理解が遅いだろうか?というか、そんな地球存亡の危機の時に、政治ゲームなんてやりたがる政治家なんか、どこの国にもいないだろう?と。
主人公を際立たせるために、周りを愚かに描くにもほどがある、といいますか。
まあ、それがハリウッド。スキッとするために観るもの。小難しいことはどうでもいいんだよっ!という割り切りですな。それはそれで、思い切りがよろしい(笑)
しかし、この「シン・ゴジラ」では、そういう単純な対比構造は、巧妙に避けられているので、天邪鬼の私であっても、「うん、まあ、そういう風に物事って決まっていくものだよね。」と腑に落ちるわけです。
常識突破が難しい書類の世界の人々と、数字と科学の専門的世界の住民をつなぐ人間がちゃんとここにはいるからです。
ここで、ようやく、主人公の存在意義が出てきました(長い)そして、その主人公に現実という名の水をぶっかける上司も。
この二人がいなければ、断絶しがちな官僚とオタクの世界は、決して繋がることはないでしょう。お互いが、その旧弊さと、バカらしい論理の飛躍を罵り合って、物事は何も決まらず、日本崩壊。さよ~なら~であります。(前回の地震の時のカイワレ大根の首相がもうすこしで、それをやりかけました。じつにヤバかった!)
事件は、会議室で起きているわけでもなければ、現場で起きているわけでもない!いや、起きているけど、会議室が決定権を持っているときに、その現場を終息させるのに必要なもの、それは、物事を潤滑に動かすためのコーディネイト能力と、リーダーシップであるっ!ということでしょうか。
そんな優秀な政治家なんか、いるわけないっ!という左な評論家の意見もわからないではないですが・・しかし、あんた、政治の内情そんなに詳しいんかい?という突っ込みもしたくなります。
というか、政治家の仕事の大部分は、交渉と調整と譲歩の繰り返しでしょうから、二人の政治家の描写は、そんなに突飛なものでもないだろう・・と思えます。

あ~長い。一旦切ります。




シン・ゴジラ 4

2016-08-30 16:43:25 | レビュー
主人公の矢口は、例によって何の描写もないので、どういう人なのか、どんな政治的信条があるのかはよく分かりません。政権与党(保守)の中枢にこの若さで着いているのですから、若手実力派・・という体でしょうか。二世議員だと劇中で触れられていましたから、父親が総理経験者、とかそんな力関係で、今の内閣にねじ込まれているのかもしれない・・などと想像してしまいます。派閥の兼ね合い、とかね。
というより、なんとなく、鉄砲玉扱いではないのか(笑)
冒頭の「未確認生物の可能性」を閣議(だと思う)で唐突に切り出すあたり、どうもそんな香りがしますぞ。
凡人が見抜けないことを嗅ぎ分ける非凡な人、というより、どこか猪突猛進、空気読みません系の人物ではないか?と見えます。
そりゃ、結局ゴジラは上陸したわけですから、結果的には、この人が正しかったんですけど、で、それがなんだ?といいますか。
第一矢口は、科学的根拠とか、専門家の意見からこんなことを言い出したわけではないのですよ。情報源はネットの書き込み!
そりゃ叱られますよ、赤坂センセに。「オメー不確実な情報を、閣議に持ち出すんじゃねえよ!」と。
裏付けのない情報を振りまくのは、政治家ではなくデマゴーグに過ぎないわけでして。
・・ま、この人、あんまり、それについて反省している感じはない。というか、どうじゃ!俺が正しかっただろう!と胸張っていそうな勢いです。
で、その勢いで、ゴジラ対策チームのリーダーになっちゃう。
ここら、この人の上司らの深慮が感じられますね。ある種の手柄の報酬でもあるし、そのくせ、どこか下働き的な、小間使い的なポジでもあるような。
・・矢口ファンに叱られるか(笑)
ここで、この人に与えられた役割は、オタク的専門家チームと、その上に位置する実際の決定を下す集団とのコーディネートであります。軍事的作戦を行うにしても、最後のヤオシリ作戦?でしたか(アタシ的には、ウワバミ作戦とでも名付けたい)にしても、下のメンツが考え、上の組織がGOサインを出して初めて、遂行できるのです。いわば車の両輪です。その間をつなぐ車軸が、この矢口という人なわけです。
ところがです、どうもこの人は、下に引っ張られる。というか元々理想家なのかもしれない。
そして、二世議員だからか、どこか傲慢なところもある。他人にではなく、自分の能力に対する自惚れが感じられるのです。ゴジラに破壊された街を見て「もっとうまくやれたはずだ」と吐き出すのは、ヒーロー風な言動ではありますが、自分への絶対的な自信も感じられますし、暗に他者への批判も漂います。で、また叱られる、赤坂センセに。「オメー自惚れんじゃないよ!」と。出来ることを見極めて着実に遂行する、出来なかったことを後であれこれ悔やんでもあまり意味がない、自分の持つ能力以上の事は出来ないのだ、ということでしょう。
それは個人についてのみ言及しているのではないのです。この内閣、そして日本という国、しいては民主主義という政体の限界を知るべきだ、と言っているような気がします。これは、最後の結論部分に直結している問題であります。
赤坂と矢口は、この被害の拡大を招いているのは、ゴジラの圧倒的な力であると同時に、今の日本政府の制度や法律の不自由さである、と分かっています。で、矢口は怒るが、赤坂は何も言わない。言っても何も変わらないからです。どうにもならないことにイラつくほど、俺は暇じゃねえし、というところでしょうか。で、矢口を諌める。お前が苛立って、なにが変わるよ?。冷静に事に臨むのが、俺ら政治家の唯一の役割じゃないの?と。
まあ、この二人の掛け合い漫才は、最後まで続きますし、対立しているようで、実は同じ結論に達しています。つまりこの二人を止揚したところに、作者の意図が表れているのは確かでしょう。
それこそ、左の方々が頭から湯気を出しそうな結論ですけどね!
だから、この映画は怪獣映画というカテゴリーに託された政治ドラマ、などと言われちゃうんです。(作者の本当の製作意図は分からない・・と言いますか、書いてたらこうなっちゃったのかも!)
では、この二人の目指すものはなにか。それを語るためには、もう一つの要素が必要です。それが、アメリカ合衆国という厄介な存在です。

この矢口と赤坂、そしてアメリカ特使の女(ルー語を駆使!)は、明らかに他の人物とは存在の意味合いが違うと見えます。この3人はアノニマスではいられない。
人間ドラマは演じていないけれど、物語の根幹をなすテーゼを提出しているのです。
それは、現在の日本の政治的地政学的状況、そして押しつけがましい保護者、アメリカという国をどう扱うか(もしくは従うか)という問題。
そうです、この映画は、3.11やフクシマについての物語ではなく、実は日本とアメリカの複雑怪奇な関係性について語っているのではないのか?とさえ見えるのです、私には。
「シン・ゴジラ」は、アメリカとの戦争に負けた、そして、その後アメリカの庇護という名の圧力に虐げられてきた、日本という国だからこそ作ることの出来る映画です。(この映画を見て、もしアメリカ人が何も思わないとすれば、もはやアメリカ人は、日本と戦争したことさえ忘れているのでは?と疑うレベルです。)
確かに、ゴジラは原子力の象徴でしょうが、それは発電所の事故よりは、先の戦争の原子爆弾に直結している、と私には見えました。
もし、福島の事故についての物語であるとするなら、映画の中でのアメリカの存在感の強さは不自然ではありませんか。あれは、日本自身が引き起こした惨事なんですよ。自分で解決するしかない。
しかし、この物語には、しょっぱなからアメリカが首を突っ込んでくる。というか、ゴジラ情報を持ち込んできたのは、アメーリカなんすよ。
ゴジラ研究をしていたのは確かに日本の博士ですが、それはアメリカの金でやっていたようです。
博士は日本に絶望しアメリカへ渡った・・ということらしいですが、そもそもその絶望の素、奥さんの死を招いたのは、アメリカが落とした原子爆弾なんでしょ?違ったっけ?確かそう・・なはず・・確信は、あまりない。何せ台詞が多くて~(と言い訳)
更に言えば、カヨコの祖母は、被爆者なわけです(これには確信がある、間違いない!)
ここに、我ら日本人とその日本人をルーツに持つ人々の立場が明らかになるわけです。
アメリカに叩きのめされた敗者としての日本人であり、その後一度も兵器として使われてこなかった核兵器を、唯一落とされた実験地としての日本。
・・なんか、ムカツク。書いていても、腹立つわ~

アメリカという国は、どこに対しても似たようなことをやって、結構いろんな国を怒らせてますけど、特に日本との関係は、実に特殊ではないでしょうか。反米と親米などという単純な感情では割り切れない思いを、我々は「かの国」に持っていますし、そのアメリカ自身は戦後処理の過程を経て、日本にはどこか保護者のように振る舞おうとする節があります。
唯一のスーパーパワー国家として、総ての国を見下し続けている国ですから、まあ、日本なんて彼らからすれば、吹けば飛ぶような、極東の小さな国、我々が文明国家にしてやった、ぐらいの感覚でいたとしても、何ら不思議はないでしょう。
しかし、本当にそれだけか?という疑問も、意識の下の方ではありますが、ちゃんと潜んでいるはずです、両国ともに。
つまり、日本は、アメリカにとって、第二次世界大戦で、ガチンコで戦った唯一といっていい国なんです。
ドイツとの戦争は、ヨーロッパに泣きつかれてお付き合いで参加しましたけど、参戦しただけで、戦局は変わってしまった。しかし、日本とは、実のところアメリカにとっても、総力戦に近い状況であったのではないか?と言われています。
第一、孤立主義で内向きだった当時のアメリカ、その実すでにスーパーパワー国家であったUSAに、真珠湾で真っ向喧嘩を売ったわけですから、当時の日本人は恐れ知らずというか、血の気が多いというか。
アジア中を巻き込んで、お互い血みどろの戦いを繰り広げた両国。日本は国家存亡の危機に立たされました。アメリカは物量や資源で圧倒していましたから、戦前は楽勝を見込んでいたでしょうけど、やはり、それなりの犠牲を払わなければ勝つことはできない、ということも段々に分かってきていたと思います。
アメリカ兵の戦死者が増えると、国内の厭戦気分が高まります。反戦活動もありますし、これに乗じた共産主義者たちの動きも気になる。
じゃあどうするか?アメリカ人の犠牲者を増やすことなく、効率的に戦争を終わらせるにはどうしたらいいか。
その分日本人に死んでもらえばいい。兵士が死んでも、日本は諦めないだろうから、一般人を大量に死なせればいい。さすがに、それには日本政府もビビるだろう。それには、インパクトがいるぞ。単なる空襲ではだめだ。何か新しくて、圧倒的なものを見せつけなければいけない。
その結果が、広島と長崎・・という惨事なわけです。
しかし、アメリカ自身もこの行為によって、この戦争における自分らの立場を、曇らせる結果になったと言えないでしょうか。
非戦闘員の頭の上に、大量破壊兵器を落とすという、その後のどの国でも行われなかった非人道的行為を、戦争を終わらせるという美名のもとにやってしまったアメリカ。
戦争にいいも悪いありませんが、それでも、原爆投下が、アメリカの戦後の国家イメージに影を落としたのは、確かなはず。
今年の夏オバマ大統領は、原爆投下を謝罪はしませんでしたが、原爆そのものについては、邪悪な存在である!と述べました。
・・原爆は道具でありまして、あんたらの先祖が落とさなきゃ、邪悪も何もないわ・・と突っ込みたくなりましたが、しかし、そういう落としどころしかないということも、理解はします。つまり、やはり、原爆投下という行為には、アメリカ自身が後ろめたさを感じているずなのです。
そうでなかったら、戦後あれほど、「原爆投下は、アメリカ人のみならず、日本人のこれ以上の戦死者の増加を防いだ」などという、どこか無理筋な言い訳を言い立てはしなかったはずです。
しかし、人間は自分が間違っていた、と思いながら生きられるほどマゾじゃない。言い訳しいしい、生きていくもんです。国だってそうです。というか、為政者たちは、国民に、自分の国が、戦争中とはいえ、倫理的にかなり間違ったことをやったよ、とは、なかなかに言えません。国としてのテンションが下がるでしょ、実際。
じゃあ、その行為と結果の矛盾をどう埋めるのか。あの戦争を正義の戦いとし、戦死者を殉教者的愛国者とするためには、どうしたらいいのか。
日本が徹底的に悪かったとすればいいのです。辻褄があうのです。アジアを征服しようとした、悪の帝国としての日本を、世界に強調すればいいのです。そして、その意識、罪悪感を、日本人そのものにも、徹底的に刷り込む。
これが、我ら戦後を生き、そして生まれた日本人の感覚の基本です。「なんか、よくわからないけど、あの戦争は、日本人が欲張ったせいで、アジアもとい世界中に迷惑をかけた・・ので、どこか釈然としないけど、国際社会の中で、頭を低くしてなきゃいかんらしい・・」という気分。
いや、完全に腑に落ちているわけじゃないんですよ、だって、一応戦争にいたる過程は、歴史で習いますからね。戦前の国際状況が、悪や善で割り切れる話じゃないことも、ちゃんと分かっているのです。
でも、なぜか、気分としては、日本は敗れ去った悪人。強欲だった愚か者・・と刷り込まれているんです。
いや~やはり、こんなこと、日本人自身が仕掛けられるはずがありません。いや、その戦後世論を形成したのは、日本の論壇や教育界であったでしょうが、やはり、その裏には、ちゃんとした戦略があるはず。そして、そんなことを日本に仕掛けられる立場にあり、能力があったのは・・はい、陰謀論めいてきましたよ(笑)でも、言っちゃいましょう!アメリカ!アメリカっすよ!ここしかない。
その最たるものが何かっ?はい、おわかりですね。「日本国憲法」これです。
アメリカが、ちゃちゃっと、短期間でテキトーに書いた感じのする、このザックリした憲法が、今の今まで、金科玉条のごとく大切に守られてきたなんて!何て日本は変な国でしょう。マゾ国家、ええ、まさしく自虐の国ですわ(笑)
・・あかん、もう切る。次へ続く。





シン・ゴジラ 2

2016-08-26 20:33:04 | レビュー
監督の根拠なき自信に基づく秘密主義とか、映画会社の投げやりなプロモーションとか、マイナス要素ばっかりのこの映画が、じゃあ、なぜヒットしたのか?
この疑問については、玄人素人含め、多くの人が語っていますので、今更ワタシがどうこう言うのも、野暮といえば野暮なんです。
しかし、なんか語りたくなる映画なんですなあ~これ。
主演がジャニじゃない、とか、無駄な恋愛描写が無いだの、バカが出てこない映画だからだの、どれもなるほど一理ありますわねえ。
しかし、恋愛シーンがあったって、名作と呼ばれるのディザスタームービーはありますし、映画の中の愚か者は、常に、物語を波立たせる大切なファクターではないですか?(あの「ジェラシックパーク」の太った愚者!あの人がいたから、あそこまで盛り上がったんですぞ、あの映画は!)
じゃあ、この映画を、ヒットさせた最大の要素はなんなのか?と私なりに考えてみました。
構成とテンポ。これに尽きる、そんな結論に至りました。
普通ジャン!思ったあなた!そうです、普通です。誰でも考え付く。
でもですよ、それを、ちゃんと意識的に考えて、映画を2時間の枠の中に、きちんと押し込んだ作品なんです、これ。
どの監督もやってると思うでしょ?やってないんだな~特に最近の人(多分、この庵野さんさえも、今回が初めてなんじゃないか、と勘繰る)
だから、妙に長い映画が多いんですよね。2時間半とか、長いと3時間。未見ですけど「進撃の巨人」なんて、前編後編に分けたらしいじゃないですか。
それも元々一つだったものを、長くなりすぎたから二つに割った・・って、何それ?ちゃんと考えて作れば、正しく編集すれば、一部で済んだわけでしょ、と思う。ま、見てないからね~無責任なことは言えませんけど。(見なかったのは、やはり樋口版「日本沈没」がトラウマだったからですぞ!)
エンターテインメントに相応しい長さにちゃんと映画を納めて、なおかつ盛りだくさんな内容であった、作者の言いたいことは、よ~く分かった!と見た人に思わせる。これができたら、もう映画としては、おおむね成功ではないか?とさえ私は思います、ええ。

一方、このスンバらしい構成とテンポつまり編集が、この「ゴジラ」映画には不可欠であるのは、映画の出来不出来を左右するからだけではない、とも思えます。
つまり、この構成そのものが、この映画の肝そのものなのではないか、と。
その意味は、結構哀しいんですけどね。
それは、「万年金欠の日本映画界」で作られた、それでも、やっぱり大事な日本のポップアイコン「ゴジラ」映画である、ということなんです。
日本映画は、(いや、ハリウッド以外はどこでもそうでしょうけど)無尽蔵に予算を使えるわけではない。
最新のSFX技術で、物凄い映像をこれでもかっ!というほど盛れるなんて、絶対出来ない。
映像で驚かせることができない・・これ、こういう一応SF映画では、結構致命的ですよね。
絶対言われるんだ「ショボイ」って。今回でさえも、やっぱり言ってる人いるし。
でもって、このゴジラシリーズ、数年前にハリウッド映画になったわけで、較べられないはずがない(いや、元々アメリカに作らせた東宝が自ら地雷踏んでるわけですが)
しかし、そこで、「ま、お金ないし、そんなアメリカ映画に太刀打ちしようなんて、大それたことは考えもしなかった」などと、敗北主義に走るのも一つの手ではありますがそれでは余りに情けない。
じゃあ、どうするか?制約の中で、お金持ちに対抗するにはどうするべきか。
物語の骨格そのもので、見る人を引き付けていくしかないのです。隙のない構成と脚本で、観客の感情を揺さぶるしかない。
目の前に展開されるストーリーに翻弄されている我々は、映像の粗とか、実は、あんまゴジラが活躍してないことを忘れていられるのです。
極端なことを言えば、もし、この映画が100億の予算を持っていたとしたら、これほど緻密な本は必要ではなかったのかもしれません。
前回のケン・ワタナビが出ていた「ゴジラ」のように、どこか所々構成が緩んだ、呑気なフンワリムードの映画になったでしょう。
(そういう映画も嫌いじゃない)
予算がないから、こんなにタイトな作りで、息つく暇なく猛スピードで話が進んで、はい2時間!
そりゃ、人間ドラマなんてやってる場合じゃないわ(笑)




シン・ゴジラ

2016-08-25 14:53:18 | レビュー
以前、ここで駄文を書き殴っていたものです。あまりに書きたいように書いていたので、自分でも呆れ果て、一時ブログを閉じたんです。(正しい判断)
しかし!この夏のシンゴジブームに、辛抱堪らず帰ってきてしまいました!
ホント、我慢がない・・
だって、これほど多種多様な人たちから、賛否両論を浴びている映画、近年ありました!?
特撮ファンは言うに及ばず、映画関係者、庵野族(と呼びたい一団)そして、何故か識者とか言われる胡散臭い評論家の方々。
それだけではない、市井の人ではあるけれども、映画の中に出てきた人々と同種の職業の人々さえ、えらく熱く語ってる。(防災関係の方とか、公務員とかね)
なんじゃ!?この状況!と。
であるならば、このワタクシも、ちょいと何か書いても、罰は当たるまい。他に大量にレビューは出ているから、誰も読まないであろう・・と(笑)
つまり、このブログはワタクシの覚書的なもの。誰かの気に障っても、そりゃ知らね、という無責任なスタンスであります。
ネタバレはいたします。無論です。もういいじゃん!そろそろ一か月。見たかった人は、ほぼ見たはずですもん。
・・つか、君ら、何回観てるんだ!という人もちらほら。いい加減にしなさいよ、と。
生田斗真クンのSFも見てあげなさいよ!・・アタシは見ないけどね(おい!)

ワタクシ、もう公開されたその週に行ってまいりました。
気合入ってるな~と思う、自分でも。だって、すぐ縮小公開になるじゃないですか、最近の映画って。
宣伝もそれほど派手にはやってなかったし、事前のレビューも映画秘宝ぐらいで、それも大したことは書いてないんだな~
「これは、盛大にこけるつもりか、東宝よ・・・」という予感がしてたのです。
案の定、わたしが行った映画館は、ええ、爽やかなほどの空きぶりでございました。
地方ってそうなんだよね~な~んか映画とかの大ヒットというのは、主に大都市の話で、ワシラ田舎者は蚊帳の外ではないか?と常々感じてます。
だから、シンゴジ大ヒット!って言われても、ホントかいな?いうのが正直なところ。
しか~し!そういう雑念は、映画を見た後では、どこか彼方へFly a way!というか、いや我が地方民よ、これを見なくて、この夏何の映画を見るのだっ!さあ行こう!あの空席多き映画館へ!という勇ましい気分になりました!

で、何故あれほどに、事前の宣伝も評判も絞られていたのか、見た方なら分かりますよね。
つまり、スクリーンで見て、初めて驚いてもらいたい!という製作者の強固な(いや強情な)意図の表明なんですよねえ。
いや~
ここらは難しいよねえ。それをやると、予告は果てしなくつまらなく、見せ場のないものになっちゃう。
予告で見る気が起きなかったら、あと何で釣る?キャスト?
ジャニじゃないんだな~主演が。出てる人、大人ばっかじゃん?石原さとみちゃんを除き。
では、どうやって、この映画に興味を持ってもらうか。
ない!何もない!(絶望)
と、ここまで考えると、この映画は、本当に、紙一重の、薄氷のごとき、いや、ほぼ偶然に近い事象を重ねて、ヒットに至ったのだという気がしてきます。
あんまり使いたくない言葉ですけど、いわゆる「奇跡」的な?
それは、興業的な意味でもあり、同時に映画の内容にも関わることのように思えます。
理想を言えば、それは同義であることが、正しい。つまり内容的に優れているから、ヒットに至る・・と。
しかし、現実はそうではない。いい映画が大いにコケルことは多いし、どうだろうこれは・・的な映画が、いやというほど、人が入るということもあるということも、私たちは知っています。
いや~ホントによくヒットしたよ、この映画(笑)
やっぱり、ほぼ奇跡。大げさでなく。

多分ね、この映画を撮った庵野さんという人は、この作品にスゲー自信があった。もしくは「ま、エヴァファンは見に来るんじゃね?」ぐらいに考えていたか(スクリーンから伝わるあの無責任感から察するに)
一方、映画会社は、どうだったんだろう?と想像しますに、もう不安いっぱい、いやほぼ諦観か。
制作の責任者が、インタビューに色々答えてますけど、そんなの、いま客が入っているから言えることで、公開前の本音なんて、絶対わかりっこないわけでして。
ここで、面白い立場の人が、もう一人の監督、樋口さんという人。
この人、どういう意味合いでこの仕事を引き受けたのだろう・・と素朴な疑問が湧いていたわけですが、公開されて何となくわかった!
この人は、監督と映画会社の間に立っている壁、いや、サンドバッグ!気の毒に・・きっと痩せたと思うよ(笑)
しかしこの人自身の「日本沈没」「ローレライ」が悪夢だったことを考えれば、この映画でこの位の功徳を積んでも、いいと思う・・(シドイ!)

映画の内容に入る前に、こんなに脱線してしまった!いったん切ります。