どうして、よその国の憲法をアメリカが書いているのか?という素朴な疑問を、何故当時の日本人は持たなかったのだろう?と思いませんか?(私はおもいますし)というか、これこそが、戦後の日本の根本的な問題じゃね?という気もうっすらしてるのです。
それは、当事者が憲法を書いてない、ということと共に、そのことに誰も疑問や突っ込みを、まともにしなかったのではないか?ということです。
何故か?それは、日本が敗戦国だから、ということだけじゃない。いや、いくら戦勝国でも、併合したわけでもない他国の法を弄ろうだなんて、まともに考えたらやるわけがないし、受け入れられるわけがないはずです。
それなのに、こんなことがまかりとおったのはなぜか?
そのぐらい日本の戦争行為は卑劣な行為であった、と思わせられたからですよね。更に戦前の国家体制そのものも完全否定された。
だから、正義の国アメリカが書いた民主的な憲法を受け入れるべきなんだ、と刷り込まれた。
ワタクシ別に、戦前の日本が正しかったとか、美化するとか、そんな気持ちは毛頭ありませんよ。しかし、このアメリカの徹底ぶりは、やはり、何らかの意図、いや、悪意にも近い意思を感じざる負えない。
その意思の最たるモノが、そう戦力としての武力の放棄というやつです。
これ、どうでしょう~?まともな独立国家が(いや、まともでなくとも)持っていい憲法でしょうか。
どこの世界に、軍備を持たない国が存在するでしょうか。あり得ない!鍵のついてない家に誰が住みますか?つーはなしですわ。
でも、それを押しつけたアメリカ、何故だか呑んでしまった日本。あかん、やはり、変だ、この2国。民主主義と平和主義という、言葉は美しいが、非常に危険なドラッグに酔っていたんじゃないですか、当時の人間は!と嫌味の一つも言いたくなりますよ、まったく。
大体、なぜこの「シン・ゴジラ」において、あれほど、手続きシーンが多いのか。ゴジラを攻撃するのに、法的根拠がどうのこうの・・って、これ、今の日本の制度、すなわち法律の不自由さの比喩なわけでしょう?いや、比喩でもないな、ずばりそのものですわ。なぜ、自衛隊はあれほどに、法律でがんじがらめになっているのか。正しい手続きを踏むために、どれだけの犠牲者が出ているのか?と。文民政治だから、だけでは説明のつかない不条理さがあるはずです。その不条理をよしとする感覚、それこそが民主主義であり、護憲派のコモンセンスなのかもしれませんが、美しい理想の為に、人が死ぬのだという矛盾には、彼らはどう答えるのだろう?という気もします。
この矛盾は、平和主義という理想が、実はアメリカという保護者の傘の下でしか成り立たないということと、我ら日本の平和主義は、実は無責任主義に過ぎないのでは?ということと無関係ではありません。自ら憲法を作らなかったということが、日本人から当事者意識を奪ってしまった結果、この矛盾を生んだといってもいい。自意識薄き国家は、辛うじて国内を治めることができるでしょう。といいますか、この完全な内向き志向と防衛の丸投げによって、平和国家日本を育んだわけです。しかし、この平和主義は本当に無責任極まりない。日本では、戦後70年であったかもしれませんが、その外側では、相も変わらず、規模の大小はあれ、ずっと戦争をしているわけです。幸せな戦後をぬくぬくと送っていたのは、日本ぐらいだよ、と他国に嫌味を言われても、返す言葉もない、というのが本当のところです。いや、日本の平和を誇ってもいい、などとほざいている人は、恥を知るべきだ!とさえ思います。みずから、積極的なアクションはなにもせず、世界の為になにも動かなかった、その結果の平和なのですから。
しかし、それは、ま、アメリカが戦後にそうしむけてしまったわけですから、今更、家にニートがいると嘆かれても、あんたらの責任は大きいよ!と思わないでもない(笑)
しかし、いつまでも、ニート生活を送っているわけにはいかない!と考える人が出てくる時代ですよ・・というのが、この怪獣映画「シン・ゴジラ」の最終結論ではないか?と見ます。
別に新しい考え方ではないでしょう。憲法改正は、保守系の政治家の悲願でありますから。しかし、どうも本気でやる気があったかどうかは、非常に怪しい・・どこか、遠いところに置いておく、やはりこれも理想みたいなもので、右方面の方々も、アメリカの庇護の下で生きていくのが、日本にとって、一番無難だとしてきたんじゃないか?とさえ思えます。
ですが、このゴジラ来襲という国難を前に、そういった右、左の従来の政治作法は意味を成さなくなります。
国家存亡の危機に、お花畑の平和主義も、空想的な独立主義も通用しません。あるのは、目の前の現実だけ。ゴジラをやるか、やられるかのみ。
そして、政治家は研ぎ澄まされ、何が、今時点で、何が最良であるかを選択していくわけです。
だから、この映画、カタルシスがあるわけですよ。正しい判断が取られた結果があのラストですから。
・・ま、カオスで終わっても、それはそれで、面白いかもしれませんがね。
この映画での日本の最大の危機は、ゴジラ襲来であることは確かですが、それに加えて、国連(という名のアメリカ)が、ゴジラに熱核爆弾を使用する、と決定した、というところでしょう。
というか、この決定のほうが、ゴジラよりよっぽど怖いわっ!と思いました。なに、勝手に決めてくれてんのよっ!と。
その決定を受け入れる法案を作成するように言われた赤坂が、ゴジラにさえ動揺しなかった男が、涙目で総理に問いただしたのは、そりゃむべなるかな、と思いましたよ、実際。
だって、これは、第2の敗戦ですよ。独立国として、到底受け入れがたい要求を呑めと言われているんですから。それも、核兵器を、もう一度この日本に落とす?首都に?ないわ~絶対ないわ~、じゃないですか?
矢口は、はっきり「ないわ~」と言い切りますよね。そんなの、主権国家のやることじゃねえ!って。「戦後は続くよ、どこまでも」とは、言い得て妙ですが、そんなこと言って、赤坂センセを困らせるんじゃないよ、という感じもしますな。
つか、あんた、上司によく言うね、そんなこと!と言いましょうか(笑)
矢口が言いたいことは、百も承知で、それでも呑まなきゃならんことも、お前知ってるだろうが、と赤坂は言いたいわけです。
多分この二人は、政治信条は、ほぼ同じであるでしょう。ですが、多分性格も違えば、政界での揉まれ方、成り上がり方も違うはず(単なる想像)理想主事者と現実主義者・・という色分けでは割り切れない、現状への目の向け方の差異が感じられます。
現状にとらわれるだけでは、未来に対し責任を取れない、ということを、矢口は学ぶべきだ、と赤坂は考えているわけですが、矢口は、いまここで折れたら、未来も糞もない、と上司を罵っているわけですな。(やっぱ、生意気)
で、どうなったか。日本の得意技、折衷案ですよ。というか、日延べ、時間稼ぎ。完全にアメリカを拒否は出来ないけど、少しは我を通させてもらってもいいじゃな~い?という。
つまり、ここにはイデオロギーの入り込む余地はない。苛烈な現実は、政治信条だけでは処理できないのです。そして、そこにこそ、普段理想家や思想家らから見下されている政治家のみが出来る仕事がある。妥協と折衝、そして決断。いくら優秀な官僚も、専門家も関われない世界といいますか。臨時総理に最終決断をねじ込む場面、あの総理執務室にいたのは、多分殆ど全員が政治家なのは、そういうことだからです。国の方向を決められるのは、政治家だけだ、ということです。(彼らを選んでいるのは我ら国民でありますがね)それを、ゴジラ襲来!という空想的な設定で、我々に再認識させてくれたこの映画。う~む、なかなかだ。深読みのし甲斐がありますわ(笑)
この映画のキャッチコピーは「現実 対 虚構」だそうで、その横にはご丁寧に、現代日本 対 ゴジラなどと書いてありますね。
しかし、ワタシ的には、この映画を観た後では、これは逆ではないか?という気もしています。いや、ゴジラはリアルな生き物じゃありませんが、しかし、このゴジラに象徴されるものを、我々日本人はちゃんと直視しているだろうか?と。
災害のように、ある程度、過去の経験則で語れるものではない、しかし、絶対ないとは言い切れない危機が現実に訪れたとき、ちゃんと対応できる国の形になっているのか?
原発事故レベルではない、国家存亡の「今そこにある危機」を、見て見ぬふりはしていないか?政治家や官僚だけではない、我々日本人に、それを見る勇気はあるか?
・・はなはだ、怪しい。大丈夫か、ワシラ、という感は強い。
ゴジラ的な危機はあるという現実を、平和という虚構の理論に埋没して、かるーくスルーし続けた70年。
ですがね、その平和を担保し続けたアメリカが、徐々に逃げを打っている、といいますか、いや、そろそろ日本にも、国際社会で独り立ちしてほしいんだわ~的な雰囲気を醸してきているのも、また、現実なわけです。
その現実に、もう、頭でっかちなイデオロギーで言い逃れは出来ない。あのゴジラの背から解き放たれたビームは、まさしく日本が直視すべき現実そのものです。有無を言わせぬ強制力で、我々に変化を促しているようです、あの残酷で美しき光は。
映画の中の人々は、それに気づき、そして、何とか対処した。今の、日本の政治体制のままで。だが、その犠牲は大きい。一つの内閣が吹っ飛び、首都は汚染された。
だから、矢口と赤坂の、最後の会話は、どエライことを言ってます。(これに比べると、矢口とカヨコの会話は・・それこそラブシーンのように無意味、サービスシーンですわ)「日本はスクラップ&ビルドで、何度ものし上がってきた」のだから、これを機会に、国を制度を変えていく、と誓っているのです、この二人。臨時内閣が総辞職したのは、そういう意味です。彼らは、国土の文字通り再建とともに、日本という国の改革を目指す、と。政治の季節の開幕です。
多分、ハリウッドでも、日本でも、一度として、こんなディザスタームービーのラストは、見たことはないでしょう。
「さあ!総選挙だ」という。いや、そんな台詞はありませんでしたが、そう意味ですよね、あの主人公のやる気満々なラストの表情は。
だって、政治家ですもん!あったりまえですな(笑)
それは、当事者が憲法を書いてない、ということと共に、そのことに誰も疑問や突っ込みを、まともにしなかったのではないか?ということです。
何故か?それは、日本が敗戦国だから、ということだけじゃない。いや、いくら戦勝国でも、併合したわけでもない他国の法を弄ろうだなんて、まともに考えたらやるわけがないし、受け入れられるわけがないはずです。
それなのに、こんなことがまかりとおったのはなぜか?
そのぐらい日本の戦争行為は卑劣な行為であった、と思わせられたからですよね。更に戦前の国家体制そのものも完全否定された。
だから、正義の国アメリカが書いた民主的な憲法を受け入れるべきなんだ、と刷り込まれた。
ワタクシ別に、戦前の日本が正しかったとか、美化するとか、そんな気持ちは毛頭ありませんよ。しかし、このアメリカの徹底ぶりは、やはり、何らかの意図、いや、悪意にも近い意思を感じざる負えない。
その意思の最たるモノが、そう戦力としての武力の放棄というやつです。
これ、どうでしょう~?まともな独立国家が(いや、まともでなくとも)持っていい憲法でしょうか。
どこの世界に、軍備を持たない国が存在するでしょうか。あり得ない!鍵のついてない家に誰が住みますか?つーはなしですわ。
でも、それを押しつけたアメリカ、何故だか呑んでしまった日本。あかん、やはり、変だ、この2国。民主主義と平和主義という、言葉は美しいが、非常に危険なドラッグに酔っていたんじゃないですか、当時の人間は!と嫌味の一つも言いたくなりますよ、まったく。
大体、なぜこの「シン・ゴジラ」において、あれほど、手続きシーンが多いのか。ゴジラを攻撃するのに、法的根拠がどうのこうの・・って、これ、今の日本の制度、すなわち法律の不自由さの比喩なわけでしょう?いや、比喩でもないな、ずばりそのものですわ。なぜ、自衛隊はあれほどに、法律でがんじがらめになっているのか。正しい手続きを踏むために、どれだけの犠牲者が出ているのか?と。文民政治だから、だけでは説明のつかない不条理さがあるはずです。その不条理をよしとする感覚、それこそが民主主義であり、護憲派のコモンセンスなのかもしれませんが、美しい理想の為に、人が死ぬのだという矛盾には、彼らはどう答えるのだろう?という気もします。
この矛盾は、平和主義という理想が、実はアメリカという保護者の傘の下でしか成り立たないということと、我ら日本の平和主義は、実は無責任主義に過ぎないのでは?ということと無関係ではありません。自ら憲法を作らなかったということが、日本人から当事者意識を奪ってしまった結果、この矛盾を生んだといってもいい。自意識薄き国家は、辛うじて国内を治めることができるでしょう。といいますか、この完全な内向き志向と防衛の丸投げによって、平和国家日本を育んだわけです。しかし、この平和主義は本当に無責任極まりない。日本では、戦後70年であったかもしれませんが、その外側では、相も変わらず、規模の大小はあれ、ずっと戦争をしているわけです。幸せな戦後をぬくぬくと送っていたのは、日本ぐらいだよ、と他国に嫌味を言われても、返す言葉もない、というのが本当のところです。いや、日本の平和を誇ってもいい、などとほざいている人は、恥を知るべきだ!とさえ思います。みずから、積極的なアクションはなにもせず、世界の為になにも動かなかった、その結果の平和なのですから。
しかし、それは、ま、アメリカが戦後にそうしむけてしまったわけですから、今更、家にニートがいると嘆かれても、あんたらの責任は大きいよ!と思わないでもない(笑)
しかし、いつまでも、ニート生活を送っているわけにはいかない!と考える人が出てくる時代ですよ・・というのが、この怪獣映画「シン・ゴジラ」の最終結論ではないか?と見ます。
別に新しい考え方ではないでしょう。憲法改正は、保守系の政治家の悲願でありますから。しかし、どうも本気でやる気があったかどうかは、非常に怪しい・・どこか、遠いところに置いておく、やはりこれも理想みたいなもので、右方面の方々も、アメリカの庇護の下で生きていくのが、日本にとって、一番無難だとしてきたんじゃないか?とさえ思えます。
ですが、このゴジラ来襲という国難を前に、そういった右、左の従来の政治作法は意味を成さなくなります。
国家存亡の危機に、お花畑の平和主義も、空想的な独立主義も通用しません。あるのは、目の前の現実だけ。ゴジラをやるか、やられるかのみ。
そして、政治家は研ぎ澄まされ、何が、今時点で、何が最良であるかを選択していくわけです。
だから、この映画、カタルシスがあるわけですよ。正しい判断が取られた結果があのラストですから。
・・ま、カオスで終わっても、それはそれで、面白いかもしれませんがね。
この映画での日本の最大の危機は、ゴジラ襲来であることは確かですが、それに加えて、国連(という名のアメリカ)が、ゴジラに熱核爆弾を使用する、と決定した、というところでしょう。
というか、この決定のほうが、ゴジラよりよっぽど怖いわっ!と思いました。なに、勝手に決めてくれてんのよっ!と。
その決定を受け入れる法案を作成するように言われた赤坂が、ゴジラにさえ動揺しなかった男が、涙目で総理に問いただしたのは、そりゃむべなるかな、と思いましたよ、実際。
だって、これは、第2の敗戦ですよ。独立国として、到底受け入れがたい要求を呑めと言われているんですから。それも、核兵器を、もう一度この日本に落とす?首都に?ないわ~絶対ないわ~、じゃないですか?
矢口は、はっきり「ないわ~」と言い切りますよね。そんなの、主権国家のやることじゃねえ!って。「戦後は続くよ、どこまでも」とは、言い得て妙ですが、そんなこと言って、赤坂センセを困らせるんじゃないよ、という感じもしますな。
つか、あんた、上司によく言うね、そんなこと!と言いましょうか(笑)
矢口が言いたいことは、百も承知で、それでも呑まなきゃならんことも、お前知ってるだろうが、と赤坂は言いたいわけです。
多分この二人は、政治信条は、ほぼ同じであるでしょう。ですが、多分性格も違えば、政界での揉まれ方、成り上がり方も違うはず(単なる想像)理想主事者と現実主義者・・という色分けでは割り切れない、現状への目の向け方の差異が感じられます。
現状にとらわれるだけでは、未来に対し責任を取れない、ということを、矢口は学ぶべきだ、と赤坂は考えているわけですが、矢口は、いまここで折れたら、未来も糞もない、と上司を罵っているわけですな。(やっぱ、生意気)
で、どうなったか。日本の得意技、折衷案ですよ。というか、日延べ、時間稼ぎ。完全にアメリカを拒否は出来ないけど、少しは我を通させてもらってもいいじゃな~い?という。
つまり、ここにはイデオロギーの入り込む余地はない。苛烈な現実は、政治信条だけでは処理できないのです。そして、そこにこそ、普段理想家や思想家らから見下されている政治家のみが出来る仕事がある。妥協と折衝、そして決断。いくら優秀な官僚も、専門家も関われない世界といいますか。臨時総理に最終決断をねじ込む場面、あの総理執務室にいたのは、多分殆ど全員が政治家なのは、そういうことだからです。国の方向を決められるのは、政治家だけだ、ということです。(彼らを選んでいるのは我ら国民でありますがね)それを、ゴジラ襲来!という空想的な設定で、我々に再認識させてくれたこの映画。う~む、なかなかだ。深読みのし甲斐がありますわ(笑)
この映画のキャッチコピーは「現実 対 虚構」だそうで、その横にはご丁寧に、現代日本 対 ゴジラなどと書いてありますね。
しかし、ワタシ的には、この映画を観た後では、これは逆ではないか?という気もしています。いや、ゴジラはリアルな生き物じゃありませんが、しかし、このゴジラに象徴されるものを、我々日本人はちゃんと直視しているだろうか?と。
災害のように、ある程度、過去の経験則で語れるものではない、しかし、絶対ないとは言い切れない危機が現実に訪れたとき、ちゃんと対応できる国の形になっているのか?
原発事故レベルではない、国家存亡の「今そこにある危機」を、見て見ぬふりはしていないか?政治家や官僚だけではない、我々日本人に、それを見る勇気はあるか?
・・はなはだ、怪しい。大丈夫か、ワシラ、という感は強い。
ゴジラ的な危機はあるという現実を、平和という虚構の理論に埋没して、かるーくスルーし続けた70年。
ですがね、その平和を担保し続けたアメリカが、徐々に逃げを打っている、といいますか、いや、そろそろ日本にも、国際社会で独り立ちしてほしいんだわ~的な雰囲気を醸してきているのも、また、現実なわけです。
その現実に、もう、頭でっかちなイデオロギーで言い逃れは出来ない。あのゴジラの背から解き放たれたビームは、まさしく日本が直視すべき現実そのものです。有無を言わせぬ強制力で、我々に変化を促しているようです、あの残酷で美しき光は。
映画の中の人々は、それに気づき、そして、何とか対処した。今の、日本の政治体制のままで。だが、その犠牲は大きい。一つの内閣が吹っ飛び、首都は汚染された。
だから、矢口と赤坂の、最後の会話は、どエライことを言ってます。(これに比べると、矢口とカヨコの会話は・・それこそラブシーンのように無意味、サービスシーンですわ)「日本はスクラップ&ビルドで、何度ものし上がってきた」のだから、これを機会に、国を制度を変えていく、と誓っているのです、この二人。臨時内閣が総辞職したのは、そういう意味です。彼らは、国土の文字通り再建とともに、日本という国の改革を目指す、と。政治の季節の開幕です。
多分、ハリウッドでも、日本でも、一度として、こんなディザスタームービーのラストは、見たことはないでしょう。
「さあ!総選挙だ」という。いや、そんな台詞はありませんでしたが、そう意味ですよね、あの主人公のやる気満々なラストの表情は。
だって、政治家ですもん!あったりまえですな(笑)