2月12日(木)2/2
「龍馬劇場」も佳境に入って来ました。
22.後藤象二郎と会見
『龍馬』と『土佐藩参政・後藤象二郎』との会談は、慶応3年(1867年)1月「長崎」の「清風亭」で行われました。
『後藤』は藩主『山内容堂』の信任を受け、『勤王党』の断罪を行った仇敵でもあり、『龍馬』の周辺には「後藤斬るべし」と主張する者もありましたが、「溝渕広之丞」との友情が殺傷沙汰による「同志討ち」の愚拳を救いました。
「朝廷を中心とし、そのもとで雄藩連合による国内統一を完成して新政府を擁立する」構想は、この会談で確認されました。
23.船中八策
慶応3年『龍馬』は『海援隊』文司の『長岡謙吉』を伴い、『後藤象二郎』とともに土佐藩船「夕顔」に乗り込みました。
「長崎」より「京都」への東航の途中『大政奉還』策を協議し、「京都」で『長岡』に起草させたのが『船中八策』です。
24.大政奉還
慶応3年9月1日『後藤象二郎』は『大政奉還』建白のため上京しました。
『龍馬』は『将軍・徳川慶喜』が建白を受入れぬときは「武力倒幕」もやむを得ずとし対策を練っていました。
幕府若年寄『永井尚志』に進言された『徳川慶喜』は『大政奉還』を決意し、10月13日在京の40藩の重臣を『二条城』に召集しました。
25.新撰組
『新撰組』は幕府の「京都守護職(会津藩)」直属の警備隊でしたが、「京都見廻組」とは異なり、武士の身分に憧れた農村出身者が主でした。
26.近江屋の惨劇
慶応3年11月15日『龍馬』は定宿の「近江屋」にいましたが、風邪気味で土蔵の隠れ家から母屋2階に移っていました。
この日『中岡慎太郎』も『龍馬』を訪ねて来ていましたが、「十津川郷士」と名乗ってやって来た3人の刺客に両人は鞘を払う暇もなく『龍馬』は頭部に二創受けて絶命、『中岡』は翌々日の17日絶命しました。
これからわずか24日後『王政復古の大号令』が発され、政権は明治新政府へと移っていったのです。
これにて「龍馬劇場」終わりです。
他にも特設コーナーで「世界の重要人物」が紹介されてました。
全部は紹介しないけど…
「チャーチル」「ルーズベルト」「スターリン」
「マッカーサー」「吉田茂」
「蒋介石」「毛沢東」
その他…「クレオパトラ」「楊貴妃」なんかもありました。
10:30『龍馬歴史館』を出ました。
そして「のいち駅」から10:47発の「土佐くろしお鉄道」に乗って「高知駅」に出ました。
11:25「高知駅」に着きました。
それから「JR土讃線」で「須崎」に出ることにしました。
11:59発車し、13:12「須崎駅」に着きました。
それから13:40発の路線バスに乗って「梼原」に行きました。
「梼原」に着いたのは、15:05でしたが…すげー山の中を通って来ました。
帰りのバスが、17:20発しか無いんで、それまで史跡ハントします。
まず向かったのが「和田城跡」に立てられている…(これは和田城ではありませんよ)
『維新の門群像』です。
左は「前田繁馬」『吉村寅太郎』『那須信吾』「中平龍之助」
中央は「掛橋和泉」
右は「沢村惣之丞」『坂本龍馬』『那須俊平』
「梼原」出身の「六志士」に脱藩時にこの地を通った『坂本龍馬』「沢村惣之丞」の2人が加わっています。
『龍馬』だけのアップです。
他に行く所は「梼原町歴史民俗資料館」なんだけど、どれか分からず歩いてたら「旧掛橋和泉邸」を見つけました。
石碑は「吉村寅太郎庄屋屋敷跡」碑です。
これは「茶堂」です。
「六志士の墓」の案内板があったので行ってみました。
先程の『維新の門群像』にあった「梼原」出身の『六志士の墓』です。
…と言っても『吉村寅太郎』『那須信吾』『那須俊平』の墓の3人しか知らないけどね。
ちなみに『那須俊平』の息子が『信吾』です。
「忠魂碑」などがありました。
『坂本龍馬脱藩の道』です。
俺は今「脱国」してますが…
15:50「梼原町歴史民俗資料館」を見つけた…ってか、ずっとこの前も歩いてたんだけど大きく「資料館」って書かれて無いんだもん。
…しかも休業なのか鍵が掛かってたし。
まだ帰りのバスまで1時間20分もあるよ…
もう行く所も無いし…でも腹が減ったな。
でも、あまり店も無いんだもん…中で食べれそうな「たこ焼き屋」を見つけて、そこで食べながら休ませてもらいました。
店主のオバちゃんと世間話や俺の旅の話なんかしてました。
そして、17:00ごろ店を出てバス停に行きました。
それから17:20発のバスに乗って、そのまま「高知駅」まで出ました。
「高知駅」に着いたのは、19:50ごろでした。
今日はここから21:20発の夜行高速バスで「小倉」まで出るんでね…そのまま駅でボケ~っと待ってました。
21:00ごろ駐輪場に自転車を取りに行って、畳んでバッグにしまいました。
そして、21:20高速バスは出発しました。
さて、初の「四国」でしたが…もちろん「土佐(高知)」しか行かないんだけど、他にも史跡はたくさんあります。
全部見に行こうと思ったら最低5日間と「車」が欲しいわな。
でも3日間とも天気が良かったし、とても満足しています。
だって明日は雨の予報だからね…
明日の予定は「小倉」と「福岡」で、朝6時ごろ「小倉」に着きます。
「九州」も初上陸なんですよ。
では、また明日。
「龍馬劇場」も佳境に入って来ました。
22.後藤象二郎と会見
『龍馬』と『土佐藩参政・後藤象二郎』との会談は、慶応3年(1867年)1月「長崎」の「清風亭」で行われました。
『後藤』は藩主『山内容堂』の信任を受け、『勤王党』の断罪を行った仇敵でもあり、『龍馬』の周辺には「後藤斬るべし」と主張する者もありましたが、「溝渕広之丞」との友情が殺傷沙汰による「同志討ち」の愚拳を救いました。
「朝廷を中心とし、そのもとで雄藩連合による国内統一を完成して新政府を擁立する」構想は、この会談で確認されました。
23.船中八策
慶応3年『龍馬』は『海援隊』文司の『長岡謙吉』を伴い、『後藤象二郎』とともに土佐藩船「夕顔」に乗り込みました。
「長崎」より「京都」への東航の途中『大政奉還』策を協議し、「京都」で『長岡』に起草させたのが『船中八策』です。
24.大政奉還
慶応3年9月1日『後藤象二郎』は『大政奉還』建白のため上京しました。
『龍馬』は『将軍・徳川慶喜』が建白を受入れぬときは「武力倒幕」もやむを得ずとし対策を練っていました。
幕府若年寄『永井尚志』に進言された『徳川慶喜』は『大政奉還』を決意し、10月13日在京の40藩の重臣を『二条城』に召集しました。
25.新撰組
『新撰組』は幕府の「京都守護職(会津藩)」直属の警備隊でしたが、「京都見廻組」とは異なり、武士の身分に憧れた農村出身者が主でした。
26.近江屋の惨劇
慶応3年11月15日『龍馬』は定宿の「近江屋」にいましたが、風邪気味で土蔵の隠れ家から母屋2階に移っていました。
この日『中岡慎太郎』も『龍馬』を訪ねて来ていましたが、「十津川郷士」と名乗ってやって来た3人の刺客に両人は鞘を払う暇もなく『龍馬』は頭部に二創受けて絶命、『中岡』は翌々日の17日絶命しました。
これからわずか24日後『王政復古の大号令』が発され、政権は明治新政府へと移っていったのです。
これにて「龍馬劇場」終わりです。
他にも特設コーナーで「世界の重要人物」が紹介されてました。
全部は紹介しないけど…
「チャーチル」「ルーズベルト」「スターリン」
「マッカーサー」「吉田茂」
「蒋介石」「毛沢東」
その他…「クレオパトラ」「楊貴妃」なんかもありました。
10:30『龍馬歴史館』を出ました。
そして「のいち駅」から10:47発の「土佐くろしお鉄道」に乗って「高知駅」に出ました。
11:25「高知駅」に着きました。
それから「JR土讃線」で「須崎」に出ることにしました。
11:59発車し、13:12「須崎駅」に着きました。
それから13:40発の路線バスに乗って「梼原」に行きました。
「梼原」に着いたのは、15:05でしたが…すげー山の中を通って来ました。
帰りのバスが、17:20発しか無いんで、それまで史跡ハントします。
まず向かったのが「和田城跡」に立てられている…(これは和田城ではありませんよ)
『維新の門群像』です。
左は「前田繁馬」『吉村寅太郎』『那須信吾』「中平龍之助」
中央は「掛橋和泉」
右は「沢村惣之丞」『坂本龍馬』『那須俊平』
「梼原」出身の「六志士」に脱藩時にこの地を通った『坂本龍馬』「沢村惣之丞」の2人が加わっています。
『龍馬』だけのアップです。
他に行く所は「梼原町歴史民俗資料館」なんだけど、どれか分からず歩いてたら「旧掛橋和泉邸」を見つけました。
石碑は「吉村寅太郎庄屋屋敷跡」碑です。
これは「茶堂」です。
「六志士の墓」の案内板があったので行ってみました。
先程の『維新の門群像』にあった「梼原」出身の『六志士の墓』です。
…と言っても『吉村寅太郎』『那須信吾』『那須俊平』の墓の3人しか知らないけどね。
ちなみに『那須俊平』の息子が『信吾』です。
「忠魂碑」などがありました。
『坂本龍馬脱藩の道』です。
俺は今「脱国」してますが…
15:50「梼原町歴史民俗資料館」を見つけた…ってか、ずっとこの前も歩いてたんだけど大きく「資料館」って書かれて無いんだもん。
…しかも休業なのか鍵が掛かってたし。
まだ帰りのバスまで1時間20分もあるよ…
もう行く所も無いし…でも腹が減ったな。
でも、あまり店も無いんだもん…中で食べれそうな「たこ焼き屋」を見つけて、そこで食べながら休ませてもらいました。
店主のオバちゃんと世間話や俺の旅の話なんかしてました。
そして、17:00ごろ店を出てバス停に行きました。
それから17:20発のバスに乗って、そのまま「高知駅」まで出ました。
「高知駅」に着いたのは、19:50ごろでした。
今日はここから21:20発の夜行高速バスで「小倉」まで出るんでね…そのまま駅でボケ~っと待ってました。
21:00ごろ駐輪場に自転車を取りに行って、畳んでバッグにしまいました。
そして、21:20高速バスは出発しました。
さて、初の「四国」でしたが…もちろん「土佐(高知)」しか行かないんだけど、他にも史跡はたくさんあります。
全部見に行こうと思ったら最低5日間と「車」が欲しいわな。
でも3日間とも天気が良かったし、とても満足しています。
だって明日は雨の予報だからね…
明日の予定は「小倉」と「福岡」で、朝6時ごろ「小倉」に着きます。
「九州」も初上陸なんですよ。
では、また明日。
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