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地元横須賀の軍事施設跡散策~まとめ

2018年03月04日 | 幕末~明治史跡めぐり
3月4日(日)
この“地元横須賀の軍事施設跡散策”は新たな情報が追加更新されたら日付を換えて紹介していきます。
前回、駆逐艦「村雨」の碑を追加したんだけど…アレ、ただの案内の石碑でホンモノの「村雨」碑は奥の方にあるんだってさ。
なので、また機会があれば写真撮りに行きます。
…で、今回の追加は「久里浜」エリアになります。


「横須賀案内記」という本(市が編纂)は幕末以降の地元横須賀市の歴史が分かる本で、市役所や出先機関でまだ買えるかも?(発行2007年)
まずはウチの周りにあった軍事施設とその関連から紹介します。

①横須賀重砲兵連隊 ②横須賀陸軍病院 ③不入斗練兵場 ④東京湾要塞司令部 ⑤横須賀海軍病院 ⑥海軍横須賀鎮守府司令長官官舎

①横須賀重砲兵連隊…我がクソ母校の土地には元陸軍の施設があったんだな。

俺が通ってたころは、この正面にも門があったんだけど、今は塞がれてるよ。

デビュー前の「山口百恵」が通ってたんだぞ。

これは「ちこく坂」と呼ばれています…外出した兵隊が駆け足で通ったので「遅刻坂」の意味だといわれています。

これが当時のまま残っているレンガ塀と営門です。

明治23年(1890年)5月「要塞砲兵第一連隊」が誕生し、その後、大正9年(1920年)に「横須賀重砲兵連隊」に改称されました。
毎年4月には連隊祭が行われ、この日ばかりは一般市民も花見や余興を楽しんだそうです。

門の裏側見てみたら…こんなトコに何故かポストが

坂本坂上にある和菓子屋さん?「突貫」とは敵陣に突き進むことを意味し…数個のダンゴを串に刺すのを「突いて貫く」と掛けたのかな?
最初、ヘンな名前の店だ…と思ってたけど、やっぱ近くに陸軍施設があったという時代背景から付けられた屋号なんだろうね。

桜小学校の校庭の隅には「横須賀重砲兵連隊跡」の記念碑があるよ。

碑の裏側には「横須賀重砲兵連隊」の沿革が彫られていました。

桜小学校の反対側にある「坂本公園」は「横須賀重砲兵連隊」の馬場で、軍馬の訓練場だったそうな。

「将校集会所」があったトコにある「坂本青少年の家」です…ネットで見た当時の「将校集会所」の写真が、小学生のとき遊びに来てた建物だったと思うんだ。

②横須賀陸軍病院…今は「はまゆう公園」です。

「横須賀重砲兵連隊」の前身「要塞砲兵連隊」の医務室を移転して病院としたのが始まりです。

これは4月に撮った写真だよ。

当時からある「桜」なのかは分からないけど…近所じゃ一番「桜」が多く見られるトコだね。

休日はサッカー場に少年チームが練習?試合?に訪れているよ。

③不入斗練兵場…今の「横須賀アリーナ(運動公園)」周辺です。

不入斗公園の一段上に野球場(左側)や弓道場(右側)があるんだけど、正面の丘が子供のころから「ラッパ山」と呼ばれてたんだよ。
やっぱり練兵に使われてたラッパに関係してたんだね…小学生のころは登って遊んでたんだけど、今は登れる感じじゃあなさそう。

球場の奥には横須賀アリーナ(横須賀市総合体育館)があり、写真は無いけどもっと奥には陸上競技場もあるよ。
競技大会のある日に部外者が写真撮ってると怪しいヤツ(女子の体操着フェチ)と思われるからなぁ…

④東京湾要塞司令部…今の「うわまち病院」があるトコ。

戦後、②の横須賀陸軍病院が移って来て横須賀国立病院として診療を続けていた(俺もここ国立病院で生まれた)んだけど、色々あったようで今は横須賀市立うわまち病院です。


⑤横須賀海軍病院…今は「横須賀市文化会館」があります。

文化会館下は今は整備されてるけど、俺が子供のころはただの野原だったよ。

「栗本鋤雲」と「小栗上野介忠順」の胸像です。

これは「横須賀市自然・人文博物館」の増築された部分で、俺が子供のころは今よか小さい博物館だったからね。

これも4月に行ったんで「桜」が咲いてるでしょ。

坂を上がると「横須賀市文化会館」があるよ。

俺らの代はココで成人式やってたんだよ。

「横須賀市自然・人文博物館」は入館無料です。

「ナウマンゾウ」は市内から骨が発掘されてるんだよ。

これは「サケガシラ」という深海魚の標本です。

企画展示「なつかしの道具展」がやってたよ。

俺の親世代のモノかな?

こう見るとモノの進化するスピードは速いんだけど、それを発明した人「ベル(電話)」とか「エジソン(電気器具)」はスゲェよ。

山口百恵「横須賀ストーリー」は分かるけど…キョンキョンの「春風の誘惑」って横須賀に関係あんの?

先週も紹介した「ウィリアム・アダムス」です。

フランス人技師「ヴェルニー(左)」は日本の近代化に大きく貢献してくれました。

「中央公園」にも入ったけど…昔はもっと「桜」がいっぱい咲いてたのに、今じゃ「はまゆう公園」の方が多いよ。

旧日本軍の演習砲台跡(米ヶ浜砲台跡)です…日露戦争ではここから28サンチ榴弾砲が外されて旅順に運ばれ、日露戦争の勝利に貢献しました。

この部分は何だろうね…?通気口?

多分、この下は格納庫だと思うんだけど…

核兵器廃絶と平和都市宣言の意思を内外に示すものとして作られた「平和モニュメント」です。

「龍本寺」と「猿島」…ともに日蓮上人と関係があります。

こう見ると砲台跡っぽいよね。

終戦後の混乱期に横須賀米海軍基地司令官を4年間務め、横須賀の経済発展に大きく貢献したデッカー少将の胸像です。

上町商店街にある古そうな建物です。

⑥海軍横須賀鎮守府司令長官官舎

田戸台分庁舎と呼ばれる今は「桜」の季節のみ?に無料公開されてるよ。
終戦後、アメリカ合衆国に接収され1964年(昭和39年)まで9人の在日米海軍司令官等が居住しました。
1969年(昭和44年)防衛庁に移管され、現在「海上自衛隊横須賀地方総監部」が管理しています。

去年に続き、今年も4月に行って来ました。

長官執務室兼書斎です。

ダイニングルームです。

和室もあるね。

庭園側より…洋館と日本家屋がドッキングしたような造りだよね。

ここも敷地みたいだけど、中にあるのは長官用のシェルターか何かかな?


次は横須賀中央近辺だよ…①横須賀鎮守府 ②海軍機関学校 ③横須賀造船所 ④横須賀市役所 ⑤下士官兵集会所 ⑥逸見波止場衛門

①横須賀鎮守府…今、庁舎は在日米海軍司令部に使われています。

この2代目庁舎は米海軍横須賀基地内にあり、開放日でも見ることができないんだよ…これは“日米親善ベース歴史ツアー”に参加して撮った写真だけど、その後は何度応募しても当選しないわ。
ここの長官が先ほど紹介した「海軍横須賀鎮守府司令長官官舎」に住んでたんだね。

海軍病院(門のみ残ってる)は文化会館んトコにあったのが関東大震災で倒壊した後、この横須賀鎮守府近くに建てられたんだよ。
ちなみに米ヶ浜にある共済病院も昔は「横須賀海軍職工共済会医院」といいました。

②海軍機関学校…今の横須賀学院や歯科大学辺り。

海軍機関学校は「芥川龍之介」も英語教師として教鞭を執った、日本海軍の機関科に属する士官を養成するために設置された軍学校です。

横須賀学院の敷地内に…

「海軍機関学校跡」碑があります。

その先に「三笠公園」があるよ。

記念艦「三笠」です。

③横須賀造船所(横須賀海軍工廠)

日本を近代化に導いた「横須賀造船所」だけど、今は「ショッパーズプラザ横須賀(現在はイオン)」になっちゃった。

もし残ってたら「富岡製糸場」みたいに世界遺産になってたかもよ。

④横須賀市役所

今はヨゼフ病院があるトコに明治40年の市制施行により、横須賀市役所庁舎が建てられました。


⑤下士官兵集会所→在日アメリカ海軍兵員クラブ(EMクラブ)
集会所の設立は明治35年で、戦後は駐留軍のEMクラブとして使用されていましたが、昭和58年10月、日本政府に返還されました。

1983年に日本政府に返還されたEMクラブ跡地に、1993年には「横須賀芸術劇場」と都市型ホテルの複合施設「ベイスクエアよこすか」「メルキュールホテル横須賀」が開業しました。

昭和12年には「ヘレン・ケラー」の講演会も行われてるんだよ。

これは1990年に高校3年生だった俺が撮ったEMクラブの写真だよ。

今じゃ、こんなに変貌してるね…って、25年経ったもんなぁ。

⑥逸見波止場衛門…旧横須賀軍港逸見門の衛兵詰所として明治末期から大正の初期頃に建てられた2つの建築物です。
まず、「ショッパーズプラザ横須賀」からスタートだよ。

「YOKOSUKA軍港めぐり」はここ「汐入桟橋」から出港です。

ヴェルニー公園の奥に停泊してるのは…護衛艦「いずも」です。

「かき小屋」…牡蠣の店みたいよ。

そろそろ「軍港めぐり」が出港かな?

潜水艦が奥に3隻、手前に2隻停泊中。

その前を「軍港めぐり」の遊覧船が通り過ぎました。

この「逸見波止場衛門」は、かつての旧軍港への入口でした…ハルピンで暗殺された「伊藤博文」の遺体は大連から軍艦「秋津洲」で移送され、日本に着いたのは横須賀港なんだよ。

左の方には「逸見上陸場」、右の方には「軍港逸見門」と表示されています。

ヴェルニー公園内から。

これは「ヴェルニー記念館」です。

やっぱ、この「いずも」はデカいなぁ。

周りの人が皆この艦船の写真撮ってたよ。

空母じゃなく、護衛艦ですから。

ヴェルニーと小栗上野介の胸像です。

これは「海軍の碑」です。

これは「軍艦山城之碑」と「國威顕彰」の碑です。

これは「軍艦長門碑」です。

これは「軍艦沖島の碑」です。

これは「正岡子規の文学碑」です…横須賀に遊びに来たときに詠んだ詩みたい。

こんな感じで並んでいます。

2017年3月25日に戦艦「陸奥」の主砲がヴェルニー公園に里帰りしました。

東京の「船の科学館」から移設されて来ました。

次は航空隊に関する史跡だよ。

①横須賀海軍航空隊 ②横浜海軍航空隊 ③浜空神社

①横須賀海軍航空隊

ここは追浜の「貝山緑地」です。

大日本帝国海軍で最初に設立され、終戦まで存続した航空部隊はこの周辺(日産自動車追浜工場がある辺り)にあったんだよ。

「追濱神社」と彫られた石碑だけありました。

昨日は天気良かったんで花もキレイに咲いてたよ。

これは「豫科練誕生之地」碑です。

また少し上がって行くと…

2つの石碑があるよ。

1つ(左)は「海軍甲種飛行予科練習生 鎮魂之碑」、もう1つ(右)は「海軍航空發祥之地」碑です。

大正5年(1916年)3月、海軍航空隊令が発布され、4月に「横須賀海軍航空隊」が追浜に置かれました。

飛行場を作るために海岸を埋め立てたため、夏島は現在のように陸続きになったんだって…追浜海岸には水上機の練習場も建設されました。

貝山緑地には700本の杏があるんだって…この花は杏じゃないよね?

もう少し上がってみます。

この先に行くと…

これが砲台跡でいいの?

なんか今まで見て来た砲台跡のイメージと違うなぁ…

次は展望台に行ってみました。

展望台から見える住友重工や…

日産自動車の追浜物流かな?

「貝山緑地」を出て…

「貝山地下壕」の入口か分からないけど、大きな穴を見つけたよ。
貝山地下壕は「貝山緑地」の下にあり、横須賀海軍航空隊の指揮所や物資の格納庫として使用されたらしいです。
地下壕の全長は俺も行ったことのある「松代大本営」で有名な長野市松代町にある「象山地下壕」の5.8Kmより長いとされているんだって。

②横浜海軍航空隊…昭和11年10月に開設された「横浜海軍航空隊」の水上機基地として、また昭和17年10月から終戦までは飛行艇隊の基地として使用されました。

日本の敗戦により米軍に接収されましたが昭和46年1月に返還され、昭和50年3月「富岡総合公園」として新しく生まれ変わり…今は公園入口に昔の航空隊隊門のみが残っています。

アーチェリー場やテニスコート、運動広場などいろいろな施設があるんでスゲェ広いよね。(約65,000坪だって)

ここを上がって行くと…

「北台展望台」があります。

これは…何?

ここには全海軍飛行艇隊の戦没・殉職者2000柱を合祀した「浜空神社」がありました。

でも…平成20年横須賀(追浜)の「雷神社」に移設され、この跡地には慰霊碑が建立されています。

これが慰霊碑です。

「鎮魂 海軍飛行艇隊」

これは「浜空の碑」です。

碑文「大鵬渡海奏奇功 離島守防意気隆 衆寡難勝嗟惨々 至誠不抜憶濱空」

碑文「この地に原隊を有せし飛行艇隊元横濱海軍航空隊は 昭和十七年八月七日未明 南太平洋ソロモン群島ツラギに於いて米軍の反攻上陸を受け 二昼夜にわたる死闘の末 宮崎重敏司令外五百余名全員玉砕せり これらの人々の冥福と恒久平和を祈念してこの碑を建立す」

献木「山口県松陰神社の銀杏」です。

③浜空神社

平成20年に「浜空神社」は追浜の「雷神社」に移築されました。

慰霊碑の隣の小さな社が移築された「浜空神社」です。

※龍本寺

ここは横須賀市文化会館や中央公園の近くにある「龍本寺」です。

ここの境内には色んな石碑があるんだけど…

これは「横須賀海軍航空隊殉職将士追悼碑」です…「横須賀海軍航空隊」の殉職者を追悼するために龍本寺の境内に建立されました。


①横須賀海軍航空隊 ②海軍水雷学校

①横須賀海軍航空隊…は先ほどレポート済み
②海軍水雷学校

現在「海上自衛隊 第二術科学校」があり、敷地内には「海軍水雷学校跡」碑があります。

その近くにある「海軍通信教育発祥記念碑」です。

新たに久里浜エリアで作ってみました。(2018.03.04)

①海軍通信学校 ②海軍工作学校 ③海軍機雷学校/海軍対潜学校

①海軍通信学校

現在「陸上自衛隊久里浜駐屯地」がありますが、昭和14年「海軍通信学校」として開設、昭和25年の警察予備隊発足当時から続く「陸自久里浜部隊」として受け継がれており…自衛隊としては最も古い駐屯地です。

敷地内には「海軍通信学校跡」碑があります…それと「甲種飛行予科練習生電信術練成之地碑」もあるようなので次回、開放日があったら写真撮って来ます。
②海軍工作学校

現在「久里浜公園」内に「海軍工作学校跡」碑があります。
③海軍機雷学校/海軍対潜学校

長瀬には「海軍機雷学校/海軍対潜学校跡」碑があります。

コレは北久里浜(根岸町)なんだけど…海軍墓地があるよ。
馬門山海軍墓地(横須賀市根岸町1-27)
呉の旧海軍墓地(長迫公園)には行ったことあるけど、地元「横須賀」には無いの?って思ってたら、ありました~

京急「北久里浜」駅から徒歩5分くらいで着きました…「横須賀市営馬門山墓地(旧横須賀海軍墓地)」です。

明治15年(1882年)1月、「馬門山海軍埋葬地」として開設されました。

この墓地には旧海軍軍艦等の殉職者、上海事変戦死者等、海軍軍人の英霊1,592柱が殉職者之碑、個人墓等に祀られています。

昭和24年(1949年)横須賀市が同墓地の維持管理を引き継ぐとともに敷地内に一般墓地を造成し、現在に至っています。

ココに何かがあることは知ってたんだけど、海軍墓地だと知ったのは行ってみた数日前のこと。

コレは「拝霊堂」です…

コチラは下段墓地です…明らかに一般墓との違いが分かるよ。

コチラは中段墓地です。

整然と並んでいます…

上から見たトコ。

最上段には広場があり…

コレは「北京籠城軍艦愛宕戦死者之碑」です…明治33年の「北清事変」において軍艦「愛宕」から陸戦隊員として北京に派遣籠城中、壮烈な戦死を遂げた5勇士を慰霊するため、明治34年、横須賀市天栄寺に建立、昭和7年移設されました。

コレは「特務艦関東殉職者之碑」です…大正13年、暴風雪のため福井県の海岸に座礁した特務艦「関東」の殉職者68名を慰霊するため大正14年建立されました。

コレは「軍艦筑波殉職者之碑」です…大正6年、横須賀軍港において軍艦「筑波」の火薬庫爆発による殉職152名を弔うため大正8年建立されました。

左「特務艦関東殉職者之碑」、右「軍艦筑波殉職者之碑」

コレは何の碑なのか書いてなかったんだよ…

コレは「軍艦河内殉職者之碑」です…大正7年、徳山港において火薬庫爆発による殉職者621名の慰霊のため大正8年建立されました。

コレは「第四艦隊遭難殉職者之碑」です…昭和10年、海軍大演習に参加中、北海道東方海面において台風による遭難殉職の30名並びに室蘭港内において乗艇沈没の際の遭難殉職者6名を慰霊するため昭和11年建立されました。

コレは「支那事変大東亜戦争戦没者忠霊塔」です…昭和12年の支那事変に引き続き大東亜戦争に従軍した横須賀鎮守府管下英霊の忠誠を語り伝えるため昭和28年建立されました。

この右側のお墓?は…

「関口特攻兄弟之碑」です…神風特別攻撃隊に所属して戦死した海軍少佐「関口哲男(24)」と海軍少尉「関口剛史(19)」を慰霊しています。

コレは「上海事変戦死者之碑」です…昭和7年、満州事変後の抗日運動が激化した上海で日本托鉢僧襲撃事件が起こり、これがきっかけとなり日本海軍は陸戦隊を出動させ中国軍と衝突しました。
これが上海事変で、この戦闘で戦死した59柱の英霊を慰霊するために昭和8年に建立されました。

こう見るとけっこう古い(太平洋戦争以前の殉職者の)碑がほとんどだったね…

市内にはヴェルニー公園内の他にも“軍艦の碑”があるよ。
光心寺(横須賀市衣笠栄町1-51)

衣笠の「はまゆう会館」近くにある「光心寺」には…

「軍艦比叡鎮魂碑」がありますよ~


鴨居には駆逐艦「村雨」の碑がありまーす。
…でもコレ、案内板でホンモノ?の石碑はもっと奥の方にあるみたいだわ…今度リベンジします


※陸軍重砲兵学校
今の馬堀小・中学校辺り。

※横須賀海軍刑務所
今の大津中学校辺り。

「横須賀案内記」を読むと他にも多くの軍事施設があった“軍都”であったことがよく分かるよ。
それではご観覧ありがとうございました。



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1 コメント

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横須賀史跡 (特設巡洋艦江ノ島)
2017-08-18 09:58:06
今日は特設巡洋艦江ノ島です

初めて投稿させていただきます

横須賀は坂が多い所ですね
ちこく坂

社会人には聞きたくない

ネーミングですね

僕が思うにこれだけ

坂が多いのは

当時の軍部が

街全体を要塞化

しようとしていたのでは

ないでしょうか?

そんな感じがします

ではまた横須賀の史跡で

面白い所

があったら教えてください
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