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幕末史跡めぐり・其之二十九~花燃ゆ、9年ぶりの「長州・萩」編

2015年11月02日 | 幕末~明治史跡めぐり
11月2日(月)1/2
さて、「呉」12:33発の呉線に乗り、13:15「広島」に到着

「広島」13:27発の新幹線さくら555号に乗りました…って、この旅でとうとう“新幹線カード”使っちゃったよぉ。
「さくら」なんて知らなかったけど…JR西日本とJR九州の共同で開発され、新大阪~鹿児島中央間を運行してるんだって。
サイコロが5個になった 新幹線でドコ行ったかって?

今回《シークレット》にしてた目的地への中継地「新山口」に13:58着きました
速く目的地に着くためには大金払うしか手段は無いんだわ…まさに“時は金なり”ってことよ。

「新山口」新幹線口より14:10発の防長バスに乗りました…乗り継ぎに約10分しか無くて焦ってたけど、新幹線と在来線が分かれてたから混雑も無くスグにバス停に着いたよ。

⑦長門国・萩(長州)編/1日目(11月1日)
15:40ごろ山口県「萩」(萩バスセンター)に着きました。
《シークレット》は9年ぶりの長州「萩」だよ 今回、山陽・瀬戸内の史跡ハントを計画してたときに、さすがに山陰の「萩」は1日休みを追加しなきゃムリなんで諦めてたんだわ。
それを「竹原」を31日のみにし、「呉」も11月1日の午前中で終わらせ、“新幹線カード”を使うことで「萩」を組み込むことができたんだよ。
もうこの最終手段でも使わないと在来線じゃ「萩」に着くの夜になっちゃうもんよ…ちなみに翌日は朝発たなきゃならないんで帰りも“新幹線カード”使うけどね。
午前中「呉」にいたのに、15:40「萩」にいるなんて奇跡だな(な~んて)…これでこれから約2時間史跡ハントできるぞ~
萩バスセンターに着いた後は近くの貸自転車店で自転車を借りました…ちょっと曇ってて雨が心配だけど行って来ま~す。

まず向かったのは藩校「明倫館」だよ…コレは「観徳門」で藩校時代の聖廟の中門です。

萩市立明倫小学校の門です。

「南門」は藩校「明倫館」の遺構で、新明倫館の正門として建てられたものです。

隣りの「中央公園」にある「山県有朋」像です。

コレは9年前も観てるんだけど、今年「久坂玄瑞」の像もできてたんだよ…どこだ?

どこか分からず、とりあえず先に「晋作広場」に行きました。

ココ9年前もあったっけ?

晋作広場にある「高杉晋作立志像」です コチラは2010年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」放送時に除幕されたんで、初対面だよ。

そして「高杉晋作誕生地」に行きました…ココは9年前来たとき公開されてなかった(たまたま?)んでね。(入場¥100也)

晋作の妻と息子の写真がありました。

初湯の井戸です。

入れない奥の方。

東行先生誕生地之碑です。

外から観るだけで中には入れないんだよ…

この辺りも「萩城下町」として世界遺産登録されたんだよね。
さて、時刻は16:05…ほぼ予定通りだな、この後は自転車を借りた最大の目的地に向かいます

16:35ごろ県道32号萩秋芳線にある道の駅「萩往還」に着いたよ…ほぼ上りでメチャ疲れたわ。

1993年に「道の駅萩往環公園」としてオープンしました。

ココには「松陰記念館」(¥無料)が併設されているんだけど…入館は16:30まででさぁ、それを何とか入れてもらえました。

松下村塾を実物大で再現したコーナーだよ。

松陰先生は黒船来航時には横須賀「浦賀」にも来ているんだぞ~

松陰先生の「留魂録」です

周布政之助に宛てた「高杉晋作の書状」だって~

外に出ると…

「高杉晋作」「吉田松陰」「久坂玄瑞」の像があります

松陰先生を中央に「松下村塾」の双璧「高杉晋作」と「久坂玄瑞」が脇を固めております

「天野清三郎」「野村和作」です。
天野は16歳の時に松下村塾に入り、明治維新後は長崎造船所の創設に貢献…松陰門下生の中で最も長命で97歳まで生きました。
野村(靖)は16歳の時に兄の「入江九一」とともに松下村塾に入塾しました…維新後は政府高官となり、内務大臣を務めました。

「山県有朋」「木戸孝允」「伊藤博文」です。

木戸は言わずと知れた“維新三傑”の1人で、山県と伊藤は内閣総理大臣も務めているよ。

「品川弥二郎」「山田顕義」です。
品川は慶応元年(1865年)木戸孝允(桂小五郎)と共に上京して情報収集や連絡係として薩長同盟の成立に尽力しました。
山田は明治22年、日本大学の前身である日本法律学校を創設し、次いで翌年、國學院(現在の國學院大学)を設立しました。

「見蘭牛ダイニング 玄」だって…見蘭牛とは国の天然記念物に指定されている「見島牛」と「ホルスタイン」を掛け合わせたものなんだって。

「松陰記念館」や銅像は9年前もあったんだろうけど、萩城下町から離れてたし…当時は知らなかったんだよ。
萩城下町から5Km走って来たのかぁ…でも帰りはほぼ下りなんでラクちんだったけどね。

萩のマンホールだよ。

17:15ごろまた「中央公園」に戻って来ました…コレは明朝行く予定の“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」です。

それから再度「中央公園」内を散策し…見つけました「久坂玄瑞進撃像」です

コレも明倫小の校舎かな?

小さな神社がありました。

貸自転車店と萩バスセンターです…って、バスセソターに見えない?
17:30ごろ貸自転車店に戻り、東萩駅の方の貸自転車店に自転車を返却しようと思ったら…もう東萩店の方は閉めちゃったみたいでさ。
聞くと俺がこれから行く旅館はココからでも東萩駅からでも大して距離は変わらないっぽいんで、ココから歩いて向かうことにしました。

旅館までの道中近くにあるんで寄ってみた「野山獄」です…松陰先生は士分を入れるココ「野山獄」(上牢)に入れられました。

向かいのコッチは庶民を入れる「岩倉獄」で…松陰先生と一緒に囚われた「金子重輔」はココで病没しました。

俺が今晩宿泊する旅館近くにあった「萩グランドホテル天空」のロビーだよ…ちょっと土産店を見に入ってみたんだけど、イイなぁこんなホテルに泊まってみたいわ。

旅館近くで写真を撮ると何故か右下に黒いモノが映るんだよ…

旅館「芳和荘」です…築100年ほどらしいよ。

18:00に着いても誰もフロントに居ないんだわ…呼んでも反応無いし。
5分以上経って主人が下りて来てくれたんだけど…俺はチェックイン19:00予定で予約してたから部屋に布団敷きに行ってたんだって。

部屋は4.5畳、素泊まりで¥4,500でした…萩にネットカフェが無かったんでさ。

でも味のある旅館に泊まれるならソレもいいかな…と。

また明朝に写真撮ります…もう外は真っ暗で、「萩往還」から城下に戻ったころもポツリと降り始めていた雨が強くなって来てるよ。

でも主人が言うには明日はそんな強雨じゃないみたいなんで…でも明日行く「広島」や「松山」もまだ雨予報になってるよ。

19:00ごろ旅館裏手の大通りにあったファミレスに行ったんだけど、けっこう降って来たんで主人に傘を貸してもらったわ。

旅館に帰った後20:30ごろ風呂に入りに行きました…池みたいに浅い風呂だったね。

ファミレスで食事後、店員に近くにコンビニあるか聞いたら、遠いらしくてさ…「薬屋があります…」って言われても俺病気じゃないしなぁ、と自販機で飲み物だけ買うか…と少し歩いたらドラッグストアがあったんだよ。
薬屋ってドラッグストアじゃん…コンビニよかコッチの方がスーパーみたいに安いから助かったわ。
朝食やオヤツを買い込んだよ…今晩は暖房入れて暖かくした部屋の布団で寝れるよ~

この「萩」のレポートは11月1日(日)と2日(月)の分をまとめちゃいまーす…って、2日合わせても「萩」で活動してた時間は5時間にも満たないんだモン。
9年前のレポートは西回り東回りをご覧ください。

⑦長門国・萩(長州)編/2日目(11月2日)
2日は6:00前に起床したよ…

朝食は昨晩買ったパンと「呉」のアンケートでもらってた「うどん」です…このガスコンロは主人が貸してくれました。

トイレも別です。

1部屋洋式だ…と思ったら和式に洋式の便器を被せただけでボットン便所(汲み取り式)でした。

今日はチト風が冷たいかな。

俺が宿泊した部屋「小松江」。

回廊になった趣のある旅館でしょ。

元遊郭の建物だっていうんだから風情あるよね~

萩市の景観重要建造物に指定されているんだって…納得。

下の中庭に降りてみたいと戸を開けようとしたら、主人が「開かないんです」と…建物が古くて戸が引けなくなっちゃったらしいよ。

7:10ごろ旅館を出ました…雨は降ってるけど、傘は差さなくても大丈夫そうだな。
主人が親切にビニール傘持って行ってイイよ…と言ってくれてたんだけどさ。

まぁ築100年…部屋を歩いてもミシミシ音がして床抜けないか怖かったけど、主人が話好きのイイ人でとてもイイ旅館だったよ。
俺は1人旅もあって滅多にホテルや旅館には泊まらないんだけど、やっぱ泊まるならこういう歴史のある宿がイイね。

近くの民家?も趣があるんだよ。

旅館の近くには小川が流れています。
これから「松陰神社」に行き、9:00に“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」に行くよ。

コレが昨晩、中を見た「萩グランドホテル天空」だよ。

途中にあった「弘法寺」です。

コレは「大和国之助誕生地」だって…帰ってから調べたら、1862年「久坂玄瑞」らと横浜外国人居留地焼き討ちを計画しますが未遂に終わり、禁門の変後、藩内の恭順派に捕らえられ、元治元年12月19日に斬首されました。(30歳)

コレは「前原一誠旧宅地」です…明治新政府では参議に任ぜられるも辞職し、「萩の乱」を起こし刑死しました。

まだアチコチに旧家があるよ。

松本大橋を渡り…

松本川を越えると…もうスグで「松陰神社」だよ。

コレは「松浦松洞誕生地」です…最期を予期した松陰は江戸送りの前日、松浦に肖像画を描いてくれるように頼みますが、そのときの正座した姿の肖像画は今でも残されています。

7:45「松陰神社(松下村塾)」に着きました…「松下村塾」は“明治日本の産業革命遺産”として世界遺産に登録されたんだったね。

入口付近にあるのは…

「薩長土連合密議之處」碑です…文久2年(1862年)土佐藩士「坂本龍馬」が「武市瑞山」の書簡を持って「久坂玄瑞」を訪ね来萩し、この場所にあった旅館に泊まりました。
たまたま薩摩藩士「田上藤七」も来ており、後日の薩長土連合を暗示する前兆となりました。

コレは「吉田松陰歴史館」です…9:00開館なんで今回も入れず。

「明治維新胎動之地」碑です。

山県有朋と伊藤博文の人形?がありました。(ガラスの反射のせいでこの角度でしか撮れなかった)

左に描かれてるのは萩市出身の元長州藩士「飯田俊徳」です…日本の鉄道の父といわれる「井上勝」らと共に日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者です。

「親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん」…親思う心にまさる親心とは、子が親を思う気持ち以上に、親の子に対する慈愛の気持ちはさらに強いものだということ…「吉田松陰」が29歳で処刑されたときに詠んだ辞世の句です。

天皇・皇后夫妻や皇太子・皇太子妃の行啓の碑です。

9年ぶりに母校?「松下村塾」に帰ってまいりました

天保13年(1842年)に松陰の叔父である「玉木文之進」が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる「久保五郎左衛門」が継ぎ、安政4年(1857年)に28歳の松陰がこれを継いで主宰することになりました。

木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。

松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが「久坂玄瑞」「高杉晋作」「伊藤博文」「山県有朋」「山田顕義」「品川弥二郎」などが明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。

裏から。

松陰は家族からの薦めもあり幽囚室で孟子などを講じるようになりました。

次第に多くの若者が参加するようになり、やがて松陰は松下村塾を主宰するようになりました。

全体の感じ。

2009年10月27日に松陰先生の遺墨や遺品類などを展示し、松陰先生の思いを現代に伝える「至誠館」がオープンしています…これも9:00開館なんでスルーです。

「松陰神社」を参拝します。

明治23年(1890年)に「吉田松陰」を祀って建てられた神社です…松下村塾改修時に松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立され、その後、門人の「伊藤博文」「野村靖」などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40年(1907年)県社の社格の神社創設が許可されました。
現在の社殿は昭和30年(1955年)に完成したものです。

コレは「勧学堂」です。

「松陰神社」の旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。

コレは「吉田松陰幽囚ノ旧宅」(松陰の実家 杉家旧宅)です。

幽囚室は東側にある3畳半の一室です。

「吉田松陰」は安政元年(1854年)3月27日に伊豆下田でアメリカ軍艦による海外渡航に失敗して江戸伝馬町の牢に捕らえられ、ついで萩に送られ野山獄に入れられました。
翌年に釈放となりましたが、父「杉百合之助」預けとなり、この実家である杉家に帰され謹慎生活を送り、読書と著述に専念しました。

旧宅は国指定の史跡で、木造瓦葺き平屋建て214㎡のかなり大きい建物です。

8:15土産屋を出て…「東光寺」に向かいます。

コレは「片山東熊別邸跡」です…奇兵隊に入隊し、戊辰戦争にも参戦した明治期に活躍した建築家で、代表作には「旧東宮御所(赤坂離宮、現・迎賓館)」「日本赤十字病院」「奈良国立博物館」「京都国立博物館」「東京国立博物館 表慶館」があります。

ココが「吉田松陰誕生地」ではなく、この先300mのトコにあるという道標だよ…ソコは9年前にも行ってるし、今日は時間が無いんで行かないよ。

その前にある「玉木文之進旧宅(松下村塾発祥之所)」です。

松陰の叔父で松下村塾の創始者ですが、萩の乱で多くの門下生が参加した責任をとり自刃しました。

8:30ごろ「東光寺」(総門)に着きました。(入場¥300也)

三門と鐘楼です。

大雄宝殿です。

総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されています。

もう時間が無いんで急いで「毛利家廟所」に向かいました。

ココには殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などがあります。

その中の左端に「周布政之助」の墓があります…元治元年(1864年)「高杉晋作」とともに長州藩士の暴発を抑えようとしましたが失敗、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走しましたが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなり、同年9月、責任を感じて山口矢原の庄屋「吉富藤兵衛」邸にて切腹しました。(享年42)

毛利家墓所は国指定の史跡で、吉就から11代までの奇数代の藩主とその夫人及び一族、関係者の墓があり、墓前には藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並びます。

知ってる名前が無い…

毎年8月15日に行われる「萩・万灯会」の送り火では、約500基の石灯篭に灯が入るんだって。

時間が無いんで奥まで行かなかったよ。

8:40ごろ「東光寺」を出ました…って、20分じゃ「明倫館」には着かないよぉ。

この路、何か名前が付いてなかったっけ?

川沿いのイイ雰囲気の路なんだわさ。

ホテル「萩本陣」です…ココの土産屋も覗いてみたかったんだけどな。

9:00…やっと松陰大橋を渡りました。

西郷と晋作だね。

9:10ごろ「旧萩藩校明倫館」に着いたよ~

「有備館」は旧明倫館の剣術場と槍術場を移して拡張したもので、木造平屋建入母屋造桟瓦葺、桁行37.8m、梁間10.8mの南北に長い建物です。
土佐の「坂本龍馬」も来萩し、ここで試合をしたといわれています。

“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」前に着くと、ラッピングバスが停まってて係員が点呼みたいのしてるんだよ。
俺は9:30発のスーパー萩号という交付金により半額になってるバスで「新山口」に戻るんだけど…まさか予約が必要でもういっぱいか?と訊いてみるとコレはスーパー萩号じゃなくて良かったよ。

取り急ぎ“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」に入りました。(入館¥500也)

文(井上真央)と久坂玄瑞(東出昌大)の婚礼衣装と高杉晋作(高良健吾)の衣装です。

松下村塾のセットです。

キャストの紹介です。

吉田松陰(伊勢谷友介)と杉文と久坂玄瑞の衣装です。

ホログラム?で映像を投影しています。

出演者たちのサインです。

今、このレポートを編集してる15日が「花燃ゆ」第46回の放送で、あと4~5回で終わりかな?

大河は視聴率の低下が毎回話題になるんだけど…俺みたいな歴史好きは誰が主演(役者)とか、誰の話(歴史人物)とか関係なく1年観続けてるからさ。

松陰先生、久坂、晋作のように短命な人物が多い長州を題材にするには文のような人物を主役に描くのが一番だと思うけど…「八重の桜」のように明治に入ると退屈しちゃうのは確かなんだよね。

駆け足でめぐり、9:20すぎ“花燃ゆ大河ドラマ館”「文と萩物語」を出ました。
そして9:30発のスーパー萩号に乗ったんだけど、“花燃ゆ”のラッピングバスじゃないのかぁ…でも、昨日の行きに乗って来たバスの半額(¥1,030)なんだよ。
上下1日4便ずつしかないんで、行きは時間が合わず通常便で通常運賃払って来たんだわ。
10:30ごろ「新山口」に着き、構内の土産屋を散策してから…

「新山口」10:57発こだま738号に乗りました。

幕末史跡めぐりも其之二十九まで完了し…其之三十で「函館」をいつか巡って完結させたいって考えてるよ。
今回の史跡ハントも今日が最終日…残るは「広島」と「松山」だね。
どうやら天気も前日に雨が降って、今日はもう快復してるみたいだよ



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