

今日は5:34発のJR和歌山線に乗らなきゃいけないんだけど、このネットカフェが駅から約4.2Kmあるらしいのよ。

でもこんな日曜の早朝から路線バス出てないからね…歩いて1Km=15分と想定し、途中寄り道も含めて4:00チェックアウトで3:00起きすることにしたのね。

チェックイン後スグ、シャワー(有料)を浴びて…早く寝ようと思ったんだけど、全然眠れなかったなぁ。

昨晩、コンビニで買った朝食も途中で食べればイイや…と何も食べずにチェックアウトしたわ。


今日は靴を乾かせてないんで…足にビニール履かせて行くよ。

チェックアウトして外に出ると…また雨かよぉ、ホント3日間降られるとは思わなかったわい。




昨日「陸奥宗光」の像がハントできなかったんで、昨晩ネットカフェで調べてリベンジしに「岡公園」に立ち寄ってみたんだけど…工事中で入れなかったトコに立ってるの見つけたよ。

ココ紀州藩の藩士だった「陸奥宗光」は幕末は「坂本龍馬」と共に海援隊で活躍、維新後は「伊藤博文」内閣の外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るいました。



5:00すぎ「和歌山(駅)」に着いたわ…関東の券売機との違いは右下にICカードを置いてチャージとかするんだけど、履歴が見れたり印刷?もすることできるみたいよ。

⑦和歌山県高野町編(3勝4敗)
30分くらい余裕があったんで、ウンコしたりして時間をツブしてたよ。


そして5:34「和歌山」発のJR和歌山線に乗りました…こっからけっこうシビアなんだよな~

6:50「橋本」に着いたら、6:55発の南海高野線に乗り換えて7:35「極楽橋」に着いたら、7:41発の南海高野山ケーブルに乗り換えて7:46「高野山」に着いたら、7:50発のバスに乗るんで、それぞれ乗り換えに5分くらいしか余裕が無いのさ。

そしたら「橋本」で南海高野線に乗り換えるときに「和歌山」からICカードで改札してたら、乗り換えができず別の改札で精算しなきゃならなくてさ…コレは6:55発に乗るのはムリかな?と覚悟したけど、ギリ間に合ったよ。

結局「和歌山」でICカードを使って改札しても、別の路線との連携ができていないからダメなんだね…もう危なくてICカード使えないなぁ。



南海高野線はほとんど山の中走ってたね…なんか「高野山」に近づくにつれ、雨が強くなってきているような気がする。


7:35に「極楽橋」に着いたときにゃ大雨よ…もうどうにでもなれ



そして7:41発の南海高野山ケーブルに乗りました…まるで香港のビクトリアピークに上るトラムみたいなイメージだな。

ココからまたバタバタなんで飛んじゃいます…約5分後に「高野山」で下車後、急いでバスの1日フリー乗車券(¥830)を買って、7:50発の「奥の院前」行バスに乗りました。

当初の計画では14:00「高野山」発の南海高野山ケーブルで帰る予定にしてたんだけど、12:15発(約4時間滞在)でもイイ感じで臨んでいるよ。

そもそも今回の史跡ハントのメインはこの「高野山」だったんだけど、その中でも「奥の院」だったんでさ…まずちょうど「奥の院前」行に乗れたのは運が良かったね。


約15分後、終点「奥の院前」で下車しました…もうマジ降りじゃん。




参道を進んで行くと…数多くの墓や慰霊碑があります。


でも俺のお目当ての墓や慰霊碑が見当たらぬまま、護摩堂や頌徳殿(写真右)がある辺りまで来ちゃったよ。



この「御廟橋」の奥に「弘法大師御廟」があります。


こうも雨が降ってると地図を見るのも大変だわ…とりあえず、こっから戦国武将の墓参りを始めるぜよ。


まずは「織田信長供養塔」です。



左隣には「筒井順慶」の墓?だか供養塔?があるね…「筒井順慶」は信長、その後は秀吉に仕えた武将だよ。


コレは「豊臣家墓所」です。


正面にあるのは「豊臣秀吉」そして母、弟の大納言「豊臣秀長」の墓です。


コレは「肥前島原 松平家墓所」です。

コレは「松平秀康及び同母霊屋」です…「結城秀康」のことで越前北ノ庄藩初代藩主だよ。
徳川家康の次男なんだけど、側室の子だったため冷遇され…小牧長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子(実際は人質)として差し出され、家康の後継者は異母弟の長松(後の徳川秀忠)とされたのです。
元服して羽柴の名字、および養父・秀吉と実父・家康の名から一字ずつ取った名を与えられ「羽柴秀康」と名乗り、九州征伐で初陣、小田原征伐や文禄・慶長の役にも参加しましたが、秀吉に実子(鶴松)が誕生すると下野国の結城氏に婿養子に出され、関ヶ原の後は下総結城から越前北庄67万石に加増移封されました。
しかし慶長12年(1607年)享年34で病死してしまいました…「花の慶次」最後の方に登場する悲運の武将です。


コレは「安芸 浅野家墓所」です。

コレは「加賀 前田家墓所」で…


2代「前田利長(利家の子)」と道を隔てて、妻「栄姫(織田信長の5女)」の墓があります。


ご覧のように墓がいっぱいあるよ。

コレは「伊予松山 松平(久松)家墓所」です。


この「化粧地蔵」の奥には案内標も無い「浅井長政」の宝篋印塔があったみたい。


コレは「崇源院墓所」です…2代将軍「徳川秀忠」夫人ってことで、浅井長政とお市(織田信長の妹)の娘で茶々(淀君)の妹「江」の墓です。



その近くには「天樹院千姫供養塔」があります…秀忠と江の娘で「豊臣秀頼(秀吉の子)」に嫁ぎました。


コレは「播磨姫路 本多家墓所」です。


コレは「備後福山 水野家墓所」です。


コレは「長州 毛利家墓所」です。


コレは「ビルマ方面戦没英霊納骨塔パコダ」です。


コレは「豊後岡 中川家墓所」です。


右は「身代地蔵」です。

コレは「森下家墓所・仁丹有縁物故者供養廟」です…企業の墓所もけっこうあるよ。

コレは「北ボルネオ戦没者墓地」です。

コレは「汗かき地蔵」です…脇に「姿見の井戸」ってのがあって、井戸の底の水面に自分の姿が映らなければ3年以内に死ぬという言い伝えがあります。


コレは「伊勢桑名城主 本多忠勝墓所」です…徳川四天王の1人「本多忠勝」の墓だね。


コレは「出羽庄内藩主 酒井家墓所」です。

コレは「陸奥白河二本松 丹羽家墓所」です。


コレは「石田三成墓所」です…三成の墓は京都でお参りできなかったからね。



コレは「明智光秀墓所」です。



コレは「薩摩島津家 初代家久 二代光久 綱久 墓所」です。

コレは何の像だったのかな?


コレは「伊達政宗墓所」です。


コレは「上州館林 榊原康政墓所」です。

コレは「周防岩国 吉川家墓所」です。

コレは「上杉謙信廟」です。


コレは「紀州徳川家 七代宗将墓所」です。


コレは「武田信玄・勝頼墓所」です。


コレは「紀州初代藩主 徳川頼宣墓所」です。

コレは「加賀 前田利治墓所」です。


この辺りに「小田原北条氏墓所」があるはずなんだけど…

コレは「弘法大師御尊像」です。


コレは「八代将軍吉宗公之墓」です。


「一の橋」に辿り着きました…墓所は全てを紹介できたワケじゃないけど、主な墓所は紹介できたかな?

雨が降ってなきゃ、もっと探索してもよかったけどさ…


御廟からココまで約2Kmあったのか…雨さえ降ってなきゃ、もっとラクだったのに。



近くのバス停まで歩いてる途中にあった「宝善院」と「清浄心院」です。


「金剛院」と「苅萓堂」です。
バス停「苅萓堂前」からバスに乗り、3つ先の「千手院橋」で降りました…そのバスは「高野山駅前」行だったのでね。

で、乗り換えのため「千手院橋」の時刻表を見るも「大門」方面行の時刻表すら無いじゃんよ。

おかしい…と思って時刻表をよく見たら「大門」方面のバス停はもう少し先に(同じバス停名で)あるのかよぉ。


そのバス停に着くと、ちょうど9:49に来るのがあるじゃん…ラッキー


…でも5分以上遅れて来たかな…けっこう外国人が多く乗ってるんだけど、アイツら何でデカいスーツケース持ったまま移動してるんだろう?

雨だし、ジャマだろうよ…って「奥の院」出てから雨やみやがったわ。



コレが「大門」です…高さ25mの巨大な楼門です。


中には江戸時代の仏師、康意・運長作の金剛力士像が安置されています。
ココはこの「大門」しか観るトコないんだよ…でも、さっき乗って来たバスが次の「大門南駐車場」から折り返して来てくれてさ、それに乗って「金堂前」で降りました。

今から入るトコは「壇上伽藍」といい、「弘法大師(空海)」が高野山をご開創された折、真っ先に整備へ着手した場所です。
お大師さまが実際に土を踏みしめ、密教思想に基づく塔・堂の建立に心血を注がれました…その壇上伽藍は〈胎蔵曼荼羅〉の世界を表しているといわれています。
高野山全体を「金剛峯寺」という寺院と見たとき、その境内地の核にあたる場所で…古来より大師入定の地である「奥の院」と並んで信仰の中心として大切にされてきました。

コレは「中門」です…2015年4月2日に高野山開創1200年を記念して172年ぶりに再建されて落慶法要が行われたんだって。


「中門」には四天王像があります。


持国天・増長天・広目天・多聞天が四天王で仏教における守護神です…上の像では誰が○○天なのかは分かりません。


コレが「金堂」です…高野山御開創当時、お大師さまの手により御社に次いで最初期に建設されたお堂で、講堂と呼ばれていました。

コレは「六角経蔵」です…鳥羽法皇の皇后であった美福門院が、鳥羽法皇の菩提を弔うため、紺紙に金泥で浄写された一切経を納めるために建立された経蔵です。

コレは「山王院」です…山王院は御社の拝殿として建立された、両側面向拝付入母屋造りの建物です。


コレは「御社」です…お大師さまが弘仁10年(819年)に山麓の天野社から地主神として勧請し、高野山の鎮守とされました。


コレは「西塔」と「鐘楼」です…「西塔」は、お大師さまの伽藍建立計画案である『御図記』に基づき、高野山第二世である真然大徳によって建立されました。


コレは「孔雀堂」と「准胝堂」です。


コレは「御影堂」です…元は、お大師さまの持仏堂として建立されましたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、御影堂と名付けられました。


コレは「根本大塔」です…お大師さま、真然大徳と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。


コレは「三鈷の松」です。

コレは「大塔の鐘」です。



コレは「愛染堂」と「不動堂」です。


コレは「大会堂」と「三昧堂」です。


コレは「東塔」です…大治2年(1127年)白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正によって創建されました。


「壇上伽藍」を出ると、もうスグそこは「金剛峯寺」でした。


コレは「正門」です…「金剛峯寺」の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。


コレは「主殿」です…「豊臣秀吉」が亡き母の菩提を弔うために建立した「青巌寺」の建物です。
「金剛峯寺」の屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっています…その屋根の上に桶が置かれていて、コレを「天水桶」といいます。
普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました。

コレは「経蔵」です…延宝7年(1679年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものです。

コレは「鐘楼」です…金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼です。

中まで拝観しなかったんでスグ出ちゃったよ。


近くのバス停「千手院橋」まで歩きます。


コレは「蓮花院」です。
「千手院橋」から「高野山駅」行バスに乗り、2つ先の「浪切不動前」で降りました。



コレは「浪切不動尊」です。


ココで降りたのは「徳川家霊台」を観るためよ。(拝観¥200)


寛永20年(1643年)に三代将軍「徳川家光」によって建立されました。


左が「台徳院秀忠公霊舎」で…


右が「東照宮家康公霊舎」です。


「桐紋」と「葵紋」が並んでると「豊臣」と「徳川」が並んでるみたいに思えちゃうんだけど…「桐紋」って皇室や室町幕府や豊臣政権など様々な政府が用いていて、現在では日本国政府の紋章として用いられているんだよね。


バスがしばらく来そうにないんで近くを覗いてました。


それから「高野山駅」行バスに乗ったけど、1日フリー乗車券買って良かったよ…運も良くほとんどバス移動できたしさ。



11:25ごろ「高野山駅」に戻りました…修正計画では12:15発の南海高野山ケーブルに乗る予定にしてたけど、もう少し早く帰れそうだぞ。



11:31発の南海高野山ケーブルに乗り、11:36ごろ「極楽橋」に着きました。


お、なんか見慣れない列車が停まってるぞ…左「天空」の自由席に乗れるみたい。



団体さんが乗るらしい車両の方はこんな座席だよー


俺ら一般が乗る車両はフツーです。



釣りしてる人がいるよ。
11:51「天空」は発車しました…俺は「真田赤備え列車」に乗りたかったなぁ。



途中の景色です。

さて…ココで「高野山」のレポートが終わるんで一旦〆させてもらい、この続きは「九度山」から「大阪」へと続く「真田丸」編としてレポートしますんで、お楽しみに~


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