評価点:84点/1976年/アメリカ
監督:マーティン・スコセッシ
ベトナム戦争を終えたアメリカの感情。
ベトナムを名誉除隊したトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)は、NYでタクシー運転手を始める。
昼夜を問わず、働き続けるトラヴィスは、不眠症に悩まれ続ける。
掃き溜めのような街で、トラヴィスは、選挙活動に従事する一人の女性を見つける。
彼女に好意を抱くトラヴィスは、その女性ベッツィをデートに誘うことに成功する。
しかし、ポルノ映画好きだった彼は、ベッツィを行きつけの映画館に誘ってしまい、彼女を憤慨させてしまう。
失望したトラヴィスは、彼女が推薦していた大統領候補の暗殺を企てるが……。
2004年度のオスカーをにぎわせた「アビエーター」。
これを撮ったのは、いわずと知れたマーティン・スコセッシである。
彼の原点とも言えるのが、この「タクシー・ドライバー」なのである。
この作品でアカデミーを受賞しているわけではないが、カンヌ映画祭などで高い評価を受けた。
噂によると、スコセッシとデ・ニーロとの間で、30年経ったトラヴィスの姿を描こうという話が出ているそうだ。
その意味でも、このあたりで見直す(僕は初めて観た)いい機会なのではないだろうか。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の面白いところは、表層と深層という二つ以上のレベルで解釈できるところだ。
そしてそれは、多くの出来のいい作品について言える共通した条件である。
以下、幾つかのレベルで作品の解釈を試みてみよう。
【表層のプロット = テロリストの誕生譚】
誰にでも読める物語の大筋は、トラヴィスのストーカー化であり、テロリスト化していくという過程であると思われる。
トラヴィスは、ベトナム帰りで、自分をもてあましている人物である。
(※ベトナム戦争はこの映画が公開された1976年でようやく終結した)
そのトラヴィスは、ほとんど休みなく働き続ける。
彼が働くのは、金銭的な理由ではない。
ただ、眠れないからである。
そして、堕落していく街への、強烈なやり場のない怒りである。
彼は、命を賭けることができる対象を捜し求めている。
物語の序盤で、それがベッツィという一人の女性に向けられる。
彼は、彼女が働く選挙事務所の前にタクシーを止めて、眺め続ける。
そして、意を決して彼女に話しかけ、交際が始まる。
しかし、ポルノ映画にベッツィを連れて行ってしまい、彼の恋はあえなく玉砕する。
トラヴィスは、振られた後も彼女に電話し続ける。
選挙事務所に押しかけるほど、彼は彼女に接近しようとする。
当然、その想いは報われることはない。
このトラヴィスの態度は、今で言うストーカーそのものである。
一方的な愛。
それが完全に壊れたとき、トラヴィスは大統領候補の暗殺を考える。
肉体を決定的に鍛え上げ、銃を購入する。
仕込み拳銃をつくり、射撃の腕を磨いていく。
そして、入念に下見をしたあと、大統領候補に迫ろうとする。
しかし、失敗してしまい、一目散に逃げることになる。
彼のこの行動は、テロリストそのものに見える。
街の異常な状態は、政治家だけの問題ではない。
しかし、彼にはその元凶が一人の政治家であるかのように映ってしまう。
結果的には「事件」に発展するのは、これ以降の展開である。
ここまでの、彼の行動は明らかに反体制であり、事件ギリギリのボーダーラインである。
だが、問題は、今日言われているようなコミュニケーション能力の欠如ではない。
彼には、コミュニケーション能力の不足はみうけられない。
その証拠に、シークレット・サービスに気さく(?)に話しかける彼は、自分の目的のために「演じる」という能力を認めることが出来る。
彼は十分に、「まとも」なのである。
では、一体彼をそこまで追い詰め、駆り立てたのは何なのか。
それを考えるには、もう少し深層のプロットを考える必要がある。
【深層のプロット1 = 自己と他人の評価差】
彼は、他人には馴染めない「自分」をもっていた。
ベッツィに振られたとき、同僚のドライバーに相談する。
そこで同僚は、
「俺たちには何も出来やしない。焦らずに気を落ちつけることだ」
とアドヴァイスする。
残念ながらこの台詞は彼の求める答えとは違うが、同時にこの台詞は、同僚とトラヴィスとの考えの温度差がもろに表われたシーンでもある。
働きづめのトラヴィスは、同僚との付き合いはいいほうではない。
しかし、同僚が話しかけようとすることから、運転手仲間からは一目を置かれる存在になっていることが読み取れる。
仕事を代わったり、忙しい時間や日に残業や休日出勤をしていたことからも、
それは容易に想像できる。
しかし、その評価とは反対に、彼自身の心の内は追い詰められている。
そして、その心の内には強い怒りと悲しみ、苛立ち、不快感をもっている。
彼への他人からの評価と、自分自身への評価、満足感とは真逆にある。
彼は、NYの汚れきった街並みをみて、それを彼の信じる正しさへと導こうと努力する。
それが大統領候補暗殺であり、幼いジョディ・フォスター扮する娼婦を助けようとする行動に表われる。
だが、その行動は当然、他人から賞賛されるようなものではない。
それは反体制の行動であり、テロリストへの道である。
このように考えれば、この映画の深層には、他人と自己の価値・評価の対立・乖離とその一致という流れがあることが理解できる。
物語中盤までは、街と自分を許せないトラヴィスと、それを評価する同僚をはじめとする他人が対立する。
そして、ベッツィに振られたトラヴィスは、一気に反体制へと針が振れる。
彼は肉体と精神的な満足を覚えるが、他人の評価は下がっていく(テロリスト化する)。
大統領候補を暗殺しようとするシーンでその対立と乖離はピークに達する。
トラヴィスが娼婦を助けようと売春斡旋業者に乗り込むシーンで、それが一気に一致・整合して、物語は幕を閉じるのである。
物語のラストで、彼はベッツィをバックミラー越しに見て、微笑む。
彼は、ようやく、自己評価と他人の評価を一致させたところの自分の「居場所」を発見したのである。
あるいは、作り出すことができたのである。
ラストは、投げかけるかたちの終わり方だが、明確に、今後のトラヴィスの生き方を暗示している。
それは勿論、それまでの暗いものではないはずである。
このように、この映画は一人の男の感情の起伏と、人生のターニングポイントを描き出した作品である。
だが、個人的な物語として読むこともできるが、当時のアメリカ全体を暗示した社会的な物語として読むこともできる。
【深層のプロット2 = アメリカとしてのトラヴィス】
この映画は、とても社会的な映画である。
NYという掃き溜めの街を、描いた映画だからというわけではない。
トラヴィス自身が、当時の「アメリカ」を象徴しているからだ。
どのあたりがアメリカ的なのか。
まず、トラヴィスの思考の論理から考えるとしよう。
トラヴィスの思考パターンは、かなり特徴的だ。
彼は、現在の問題について考えるとき、自分の生い立ちを考えることはしない。
彼の怒りや、問題視するところは、常に「今」だけである。
今の自分に苛立ち、今の街の風景に絶望する。
だが、それが歴史的背景によるものだとか、自分のそれまでの生活、性格がどのようなものであるから、現在に至ったのだ、という考え方はしない。
これが実にアメリカ的である。
以前、あるアメリカ文学を読んだとき、巻末の「解説」にこんなことが書いてあった。
「アメリカ文学とヨーロッパの文学との最大の違いは歴史の有無である」と。
要するに、ヨーロッパ文学の多くの課題(問題)設定は、「過去がどうであったか」という点に集約される。
そして、アメリカ文学の場合は、「今どういう状況にあるか」という問いに帰結されるというのである。
それは、アメリカという国が、歴史が浅い、もっとはっきり言えば歴史を持たない国であるからだろう。
作家によって多少の異同はあるものの、アメリカの思想の基底には、「今」だけを見つめようとするスタンスがある。
トラヴィスの思考パターンも、それを見事になぞっている。
日本人ならこう考えるかもしれない。
なんで、こいつは自分の過去を一切問題視しないんだ?
あるいは、なぜトラヴィスの生い立ちは問題にならないんだ?
だが、トラヴィス(スコセッシ)にとって、重要なのは、今どういう状況にあるのか、
あるいは今どうすべきなのか、ということが最重要課題なのである。
それだけではない。
力をもてあましたアメリカ像がトラヴィスにどうしてもダブる。
この映画は、ベトナム戦争が終わった同じ年に公開された。
それもあってか、アメリカが正義と信じたベトナム戦争から、必死に立ち直ろうとしている映画のようにも見えてしまう。
先ほど、他人と自己の評価は違う、と書いた。
それはアメリカそのものにも言えることではないか。
アメリカは正義と信じて戦った。
しかし、そこには絶望しかなかった。
そして、待っていたのは「反戦」の世論と、アメリカへの各国の非難である。
トラヴィスは、暗殺できなかった自身への怒りを、売春斡旋業者にぶつける。
その行動は、結果的に賞賛されることになった。
だが、この行動は、明らかに「過剰な救済」であった。
ただ世界を救済したかった。
「民主主義」をただ子どものように純粋に全うしただけであった。
しかし、その評価は、やはり他人が下すのである。
それでも死闘の先に、アメリカは希望を見出す。
アメリカがトラヴィスのあの笑顔を見せるのは、いつになるのだろうか。
【存在感のある役者たち】
観たあとで思い出したことだが、この映画には、デ・ニーロ以外に有名な役者が出ている。
そう、13歳の娼婦役のジョディ・フォスターである。
観ている最中はすっかり忘れていたので、ただこう思っていた。
「この女の子すげ~なぁ。将来絶対有名になるぞ」
ネットで調べてみると、なんとジョディ・フォスターだった。
13歳という若さで、大人らしさと子どもらしいあどけなさが共存する雰囲気に、娼婦の苛立ちと悲しみが同居するその表情は、やはり抜群である。
ベッツィ役の女優よりも、断然存在感があり、輝いていた。
デ・ニーロの屈折したキャラクターも、勿論ずば抜けている。
しかし、彼を観ていると思うのは、演技のうまさだけではない。
「いいように歳とったよね~」という今のデ・ニーロのかっこよさである。
彼ら二人の役者がいなければ、この映画はもっと表層的なものになっていただろう。
役者の重要性を改めて認識する映画でもある。
(2005/3/2執筆)
監督:マーティン・スコセッシ
ベトナム戦争を終えたアメリカの感情。
ベトナムを名誉除隊したトラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)は、NYでタクシー運転手を始める。
昼夜を問わず、働き続けるトラヴィスは、不眠症に悩まれ続ける。
掃き溜めのような街で、トラヴィスは、選挙活動に従事する一人の女性を見つける。
彼女に好意を抱くトラヴィスは、その女性ベッツィをデートに誘うことに成功する。
しかし、ポルノ映画好きだった彼は、ベッツィを行きつけの映画館に誘ってしまい、彼女を憤慨させてしまう。
失望したトラヴィスは、彼女が推薦していた大統領候補の暗殺を企てるが……。
2004年度のオスカーをにぎわせた「アビエーター」。
これを撮ったのは、いわずと知れたマーティン・スコセッシである。
彼の原点とも言えるのが、この「タクシー・ドライバー」なのである。
この作品でアカデミーを受賞しているわけではないが、カンヌ映画祭などで高い評価を受けた。
噂によると、スコセッシとデ・ニーロとの間で、30年経ったトラヴィスの姿を描こうという話が出ているそうだ。
その意味でも、このあたりで見直す(僕は初めて観た)いい機会なのではないだろうか。
▼以下はネタバレあり▼
この映画の面白いところは、表層と深層という二つ以上のレベルで解釈できるところだ。
そしてそれは、多くの出来のいい作品について言える共通した条件である。
以下、幾つかのレベルで作品の解釈を試みてみよう。
【表層のプロット = テロリストの誕生譚】
誰にでも読める物語の大筋は、トラヴィスのストーカー化であり、テロリスト化していくという過程であると思われる。
トラヴィスは、ベトナム帰りで、自分をもてあましている人物である。
(※ベトナム戦争はこの映画が公開された1976年でようやく終結した)
そのトラヴィスは、ほとんど休みなく働き続ける。
彼が働くのは、金銭的な理由ではない。
ただ、眠れないからである。
そして、堕落していく街への、強烈なやり場のない怒りである。
彼は、命を賭けることができる対象を捜し求めている。
物語の序盤で、それがベッツィという一人の女性に向けられる。
彼は、彼女が働く選挙事務所の前にタクシーを止めて、眺め続ける。
そして、意を決して彼女に話しかけ、交際が始まる。
しかし、ポルノ映画にベッツィを連れて行ってしまい、彼の恋はあえなく玉砕する。
トラヴィスは、振られた後も彼女に電話し続ける。
選挙事務所に押しかけるほど、彼は彼女に接近しようとする。
当然、その想いは報われることはない。
このトラヴィスの態度は、今で言うストーカーそのものである。
一方的な愛。
それが完全に壊れたとき、トラヴィスは大統領候補の暗殺を考える。
肉体を決定的に鍛え上げ、銃を購入する。
仕込み拳銃をつくり、射撃の腕を磨いていく。
そして、入念に下見をしたあと、大統領候補に迫ろうとする。
しかし、失敗してしまい、一目散に逃げることになる。
彼のこの行動は、テロリストそのものに見える。
街の異常な状態は、政治家だけの問題ではない。
しかし、彼にはその元凶が一人の政治家であるかのように映ってしまう。
結果的には「事件」に発展するのは、これ以降の展開である。
ここまでの、彼の行動は明らかに反体制であり、事件ギリギリのボーダーラインである。
だが、問題は、今日言われているようなコミュニケーション能力の欠如ではない。
彼には、コミュニケーション能力の不足はみうけられない。
その証拠に、シークレット・サービスに気さく(?)に話しかける彼は、自分の目的のために「演じる」という能力を認めることが出来る。
彼は十分に、「まとも」なのである。
では、一体彼をそこまで追い詰め、駆り立てたのは何なのか。
それを考えるには、もう少し深層のプロットを考える必要がある。
【深層のプロット1 = 自己と他人の評価差】
彼は、他人には馴染めない「自分」をもっていた。
ベッツィに振られたとき、同僚のドライバーに相談する。
そこで同僚は、
「俺たちには何も出来やしない。焦らずに気を落ちつけることだ」
とアドヴァイスする。
残念ながらこの台詞は彼の求める答えとは違うが、同時にこの台詞は、同僚とトラヴィスとの考えの温度差がもろに表われたシーンでもある。
働きづめのトラヴィスは、同僚との付き合いはいいほうではない。
しかし、同僚が話しかけようとすることから、運転手仲間からは一目を置かれる存在になっていることが読み取れる。
仕事を代わったり、忙しい時間や日に残業や休日出勤をしていたことからも、
それは容易に想像できる。
しかし、その評価とは反対に、彼自身の心の内は追い詰められている。
そして、その心の内には強い怒りと悲しみ、苛立ち、不快感をもっている。
彼への他人からの評価と、自分自身への評価、満足感とは真逆にある。
彼は、NYの汚れきった街並みをみて、それを彼の信じる正しさへと導こうと努力する。
それが大統領候補暗殺であり、幼いジョディ・フォスター扮する娼婦を助けようとする行動に表われる。
だが、その行動は当然、他人から賞賛されるようなものではない。
それは反体制の行動であり、テロリストへの道である。
このように考えれば、この映画の深層には、他人と自己の価値・評価の対立・乖離とその一致という流れがあることが理解できる。
物語中盤までは、街と自分を許せないトラヴィスと、それを評価する同僚をはじめとする他人が対立する。
そして、ベッツィに振られたトラヴィスは、一気に反体制へと針が振れる。
彼は肉体と精神的な満足を覚えるが、他人の評価は下がっていく(テロリスト化する)。
大統領候補を暗殺しようとするシーンでその対立と乖離はピークに達する。
トラヴィスが娼婦を助けようと売春斡旋業者に乗り込むシーンで、それが一気に一致・整合して、物語は幕を閉じるのである。
物語のラストで、彼はベッツィをバックミラー越しに見て、微笑む。
彼は、ようやく、自己評価と他人の評価を一致させたところの自分の「居場所」を発見したのである。
あるいは、作り出すことができたのである。
ラストは、投げかけるかたちの終わり方だが、明確に、今後のトラヴィスの生き方を暗示している。
それは勿論、それまでの暗いものではないはずである。
このように、この映画は一人の男の感情の起伏と、人生のターニングポイントを描き出した作品である。
だが、個人的な物語として読むこともできるが、当時のアメリカ全体を暗示した社会的な物語として読むこともできる。
【深層のプロット2 = アメリカとしてのトラヴィス】
この映画は、とても社会的な映画である。
NYという掃き溜めの街を、描いた映画だからというわけではない。
トラヴィス自身が、当時の「アメリカ」を象徴しているからだ。
どのあたりがアメリカ的なのか。
まず、トラヴィスの思考の論理から考えるとしよう。
トラヴィスの思考パターンは、かなり特徴的だ。
彼は、現在の問題について考えるとき、自分の生い立ちを考えることはしない。
彼の怒りや、問題視するところは、常に「今」だけである。
今の自分に苛立ち、今の街の風景に絶望する。
だが、それが歴史的背景によるものだとか、自分のそれまでの生活、性格がどのようなものであるから、現在に至ったのだ、という考え方はしない。
これが実にアメリカ的である。
以前、あるアメリカ文学を読んだとき、巻末の「解説」にこんなことが書いてあった。
「アメリカ文学とヨーロッパの文学との最大の違いは歴史の有無である」と。
要するに、ヨーロッパ文学の多くの課題(問題)設定は、「過去がどうであったか」という点に集約される。
そして、アメリカ文学の場合は、「今どういう状況にあるか」という問いに帰結されるというのである。
それは、アメリカという国が、歴史が浅い、もっとはっきり言えば歴史を持たない国であるからだろう。
作家によって多少の異同はあるものの、アメリカの思想の基底には、「今」だけを見つめようとするスタンスがある。
トラヴィスの思考パターンも、それを見事になぞっている。
日本人ならこう考えるかもしれない。
なんで、こいつは自分の過去を一切問題視しないんだ?
あるいは、なぜトラヴィスの生い立ちは問題にならないんだ?
だが、トラヴィス(スコセッシ)にとって、重要なのは、今どういう状況にあるのか、
あるいは今どうすべきなのか、ということが最重要課題なのである。
それだけではない。
力をもてあましたアメリカ像がトラヴィスにどうしてもダブる。
この映画は、ベトナム戦争が終わった同じ年に公開された。
それもあってか、アメリカが正義と信じたベトナム戦争から、必死に立ち直ろうとしている映画のようにも見えてしまう。
先ほど、他人と自己の評価は違う、と書いた。
それはアメリカそのものにも言えることではないか。
アメリカは正義と信じて戦った。
しかし、そこには絶望しかなかった。
そして、待っていたのは「反戦」の世論と、アメリカへの各国の非難である。
トラヴィスは、暗殺できなかった自身への怒りを、売春斡旋業者にぶつける。
その行動は、結果的に賞賛されることになった。
だが、この行動は、明らかに「過剰な救済」であった。
ただ世界を救済したかった。
「民主主義」をただ子どものように純粋に全うしただけであった。
しかし、その評価は、やはり他人が下すのである。
それでも死闘の先に、アメリカは希望を見出す。
アメリカがトラヴィスのあの笑顔を見せるのは、いつになるのだろうか。
【存在感のある役者たち】
観たあとで思い出したことだが、この映画には、デ・ニーロ以外に有名な役者が出ている。
そう、13歳の娼婦役のジョディ・フォスターである。
観ている最中はすっかり忘れていたので、ただこう思っていた。
「この女の子すげ~なぁ。将来絶対有名になるぞ」
ネットで調べてみると、なんとジョディ・フォスターだった。
13歳という若さで、大人らしさと子どもらしいあどけなさが共存する雰囲気に、娼婦の苛立ちと悲しみが同居するその表情は、やはり抜群である。
ベッツィ役の女優よりも、断然存在感があり、輝いていた。
デ・ニーロの屈折したキャラクターも、勿論ずば抜けている。
しかし、彼を観ていると思うのは、演技のうまさだけではない。
「いいように歳とったよね~」という今のデ・ニーロのかっこよさである。
彼ら二人の役者がいなければ、この映画はもっと表層的なものになっていただろう。
役者の重要性を改めて認識する映画でもある。
(2005/3/2執筆)