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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

クライ・マッチョ

2022-01-20 14:25:20 | 映画(か)
評価点:72点/2021年/アメリカ/104分

監督:クリント・イーストウッド

“マッチョ”という名の権威。

1980年代。
かつてロデオの名騎手で、白楽天だったマイク(クリント・イーストウッド)も年老いてガンコ爺になってしまった。
首を言い渡された彼は一人隠居生活をしていた。
その雇い主だったハワード(ドワイト・ヨアカム)から、生き別れになっているメキシコの息子を連れ戻してほしいと頼まれる。
借りのあったマイクは、トラックに乗り込み、メキシコへと車を走らせる。
しかし、その息子が住むという家は大豪邸であり、母親であるリタによれば家に帰ってこず路上で生活しているという。
路上の闘鶏場で、息子のラファエル(エドゥアルド・ミネット)を見つけるが……。

イーストウッド監督40作品の記念の作品。
パンフレットの後ろにあった作品リストをみると、半分ほどを鑑賞していた。
ミスティック・リバー」以降はほとんど見ているが、いくつか見逃したままになっている。

この作品は、カウボーイを題材にしている、イーストウッドらしい作品である。
アメリカからメキシコへ、といういわゆるロードムービーでもある。
ノー・ウェイ・ホーム」のような派手な作品ではないが、これまでのイーストウッドを知る人はきっと楽しめるだろう。
名作というよりは、小品というような作品である。

▼以下はネタバレあり▼

この原案の映画化はずっと企画されていたが、様々なタイミングが合わずに見送られてきた。
90歳になったイーストウッドが、映画の設定に近い年齢になったことで映画化することを決断したそうだ。
それはイーストウッドの個人的な思いが反映されているとは言え、それがこのタイミングで映画化されるということに対して、やはり意図の改変があるだろうと私は思う。
つまり、1980年代の話ではあるが、このアメリカからメキシコへという国境を越えていく物語は、現在のアメリカへのメッセージになっているだろう、ということである。

トランプ政権時代が終わりを告げたと言っても、依然分断されているアメリカとメキシコの国境を越えていく物語は、否が応でも象徴性に満ちてしまう。
主人公は、かつて南部のアメリカでは英雄とも言えるロデオの名騎手だった。
しかし、今はその栄光にすがっているだけの、老人だ。
周りから見れば不要なもので、頑固親父で、扱いにくい人物だ。
それはかつて世界の警察官だったアメリカをどうしても意識させてしまう。
そのアメリカらしいカウボーイが、小間使いとしてかつての雇い主の息子を取り戻す依頼を受ける。

メキシコで出会ったのは行き場を失ったその少年ラフォだった。
彼はメキシコで生きる場所を失い、不安なまま父親のアメリカに向かう。
この二人の移動は、移民を排除しようとするアメリカのナショナリズムに対するアンチテーゼであろう。
知事でもあり共和党のシュワルツェネッガーがこの映画の主演になりそこねたのも、因縁めいたものを感じる。
(詳しいところはわからないが)

老いた過去の栄光しかもたない男と、何も持たない子どもが交流することで、人生を再生させる。
政治的なメッセージがありながらも、やはり小品になっているのは、作品がメルヒェンであるからだ。
一つは先に述べたその象徴性だ。
もう一つは、結末がハッピーエンドの形がとられ、いわゆるおとぎ話のエンディングと同じになっているからだ。
二人は前途多難かもしれないが、少なくとも映画の中では「めでたしめでたし」というエンディングを迎える。

メキシコの地で生きる場所を見つけたマイクは、マルタとともに余生を過ごすことを決断する。
また、ビジネスのためとはいえ、父親のいるアメリカできることをラフォ(ラファエル)は選択する。
この後どのような展開があるのかはわからない。
だが、マルタと抱き合うマイクは、「いつまでも幸せにくらしましたとさ」という昔話と同じ類型のエンディングを迎えている。
その意味でもメルヒェンなのだ。

そしてそのように完結されてしまっている点でもメルヒェンだと言える。
すなわち2021年に公開された映画として、アメリカとメキシコを横断する象徴的な話ではあるが、これ以上何かを描こうとするメッセージはない。
だからこそ、カウボーイの話として優れた小品と言える。
それはもちろん皮肉ではない。
きちんと閉じられた物語として完結させる、そしてこの「なんでもない物語」を映画として昇華させてしまう手腕は、さすがイーストウッドといったところだ。

ちなみに、マッチョこと闘鶏は、ラフォにとっては権威の象徴である。
ラストでラフォがマッチョを手放す。
彼にとっては相棒であり、メキシコで生きるための糧でもあった。
だが、それはあくまで弱い自分を強い自分に見せるための、権威付けにすぎなかった。
彼はマッチョを手放すことで、権威に頼らなくても良い生き方を見つける。

では、マッチョはマイクに渡さされることでマイクは権威を手に入れるのか。
それは違う。
マイクに委譲されることで、マイクにとってのマッチョは家畜である。
調教師だった彼にとっては動物は権威ではない。
家畜として生きることになるマッチョは、ラフォが期待していたような象徴性からもまた開放される。
マッチョはもう「クライ(叫ぶ)」必要はなくなるのだ。
土曜のディナーとして食べられない限りは。

こういう記号の使い方が、やはり映画をよく知っている監督の、映画であることを示している。

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