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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ミスティック・リバー

2008-09-16 21:49:39 | 映画(ま)
評価点:85点/2003年/アメリカ

監督:クリント・イーストウッド

実力派俳優たちが奏でる上質の人間ドラマ。

幼なじみの三人は、今ではもう「挨拶程度」の仲になっていた。
彼らが子どもの頃、塗りたてのコンクリートに自分たちの名前を落書きしていると、黒い車に乗った男たちに、それを強くとがめられた。
そして、親に話をつけるから、と言われただ一人車に乗せられたデイヴ(ティム・ロビンス)は、四日後に保護された。
誘拐されたデイヴは、その話を以後誰にも話さなかった。
ある日、デイヴは朝方に胸を切られた姿で帰宅する。
不信感を抱く妻に、デイヴは、「男に襲われて殴り返した、相手を殺したかもしれない」と話した。
その朝、テレビではデイヴの友人ジミー(ショーン・ペン)の娘が血まみれの車を残し、行方不明になったと報道されていた。

クリント・イーストウッドが監督、ショーン・ペン、ティム・ロビンス、ケビン・ベーコンが共演するという、夢のようなキャスティング。
「オーシャンズ・11」のキャスティングを聞いたときにも、確かに興奮したが、このキャスティングのほうが、僕としては興奮してしまう。
しかも、アメリカではオスカーをとるのではないか、と話題になったことを聞けば、いやでも期待度は高まるというものだ。
そして、この映画は、その期待を裏切らない出来になっている。

しかし、注意したいのは、一般受けするような映画ではないということだ。
いわゆる「面白い」映画ではない。
エンターテイメント性がないわけではないが、それが前面に押し出された映画ではない。
その点は注意が必要だろう。

▼以下はネタバレあり▼

主演三人の演技がとにかくすごい。
被害者の父親を演じているショーン・ペンは、娘の死体が見つかった現場で見せる嗚咽(おえつ)と絶叫は、観る者をその世界に一気に引き込み、涙さえ誘う。
事件の捜査を担当する刑事のケビン・ベーコンは、妻に突然家出をされてしまい、今では無言の会話だけが夫婦をつないでいるという、難しい役柄だが、見事に演じている。
子どもの頃の記憶をずっと封印してきたティム・ロビンスは屈折した人間性を、周りの空気から作り出している。

事件は、三人の幼なじみの一人、ジミーの娘が殺されるというところからはじまる。
当然ストーリーの中でも主軸はこの娘の殺害事件である。
その事件の担当者が幼なじみのショーン。
そして徐々に浮かび上がる犯人として誘拐された経験をもつデイヴである。

しかし、話はそれほど単純ではない。
そこにかかわるプロットとして、子どもの頃にあったデイヴの連れ去り事件がある。
さらに、ショーンは妻との関係、ショーンは刑務所帰りというプロットをもち、それらがたくみに交錯しながら、事件は紐解かれていく。

ジミーは、娘を愛するという純粋な気持ちを持つ一方、窃盗していたことをレイという仲間に売られ、刑務所にいたというくらい過去をもつ。
それは、レイの息子ブレンダンを嫌うという序盤のシーンに窺うことが出来る。
デイヴは、子どものころ誘拐されたとき、性的虐待をうけ、「ほんとうのデイヴ」をなくしてしまった。
そのため、事件の夜、同じ公園で、男の子に性的虐待をしていた男に対して逆上し、男を殺してしまったのである。

ジミーは昔レイを殺した「ミスティック・リバー」で、再び、娘殺しの犯人と確信したデイヴを殺害する。
デイヴは過去のトラウマと深いつながりがある男の殺人を、誰にも話すことが出来ないために、事件の夜の真相を誰にも語ることが出来ない。
下手なアメリカ映画なら、ここでデイヴは殺されなかっただろう。
しかし、クリント・イーストウッドはそんな大衆性は無視し、映画としての哲学を貫き通し、ジミーは幼なじみのデイヴを犯人と勘違いし殺してしまう。

全ての発端は、ショーンの言うとおり、デイヴだけが車で誘拐され、虐待を受けたことにあったのかもしれない。
そこで「全員があの車に乗っていれば」、これほど複雑で哀しい事態を避けられたかもしれない。
この「重さ」と複雑さがこの映画の全てである。

ジミーの妻の言葉が重く感じられる。
「あなたは王様なのよ。あなたが家族のためにすることはなんだって正しいわ。
間違いなんてないのよ。」
ここには美しい家族愛がこめられている。
しかしそれは同時に多くの憎しみや悲しみを生むという怖さを持っている。
自分を売ったレイを殺しながら、その家族にお金を送り続けるジミーのゆがんだ哲学もこの言葉と同じ重さがある。

家族を思う重すぎる命と、家族を傷つける者の軽すぎる命。
この対比がはっきり浮かび上がる。
それは人間の真実の側面を照らしていることは言うまでもない。
同じように強い感情が、全く別のベクトルに向かっているのである。

終幕のパレードのシーンでは、三者三様の人生模様が映し出される。
僕たち観ている側としては、どうしても美的な終局やハッピー・エンド(或いはバッド・エンド)を期待してしまう。
もっとはっきり言ってしまえば、ある種の「答え」が示されることを知らないうちに期待してしまっている。
しかし、この映画には、わかりやすい解答は用意してくれはしない。
決定的に違ってしまい、すれ違ってしまった友情を、説教くささや、物語への欲求を廃した上で描いているところにこの映画のすごさがある。

あの最後までかけなかったデイヴの名前と、デイヴのその後の運命はどうしても重ねられてしまう。

映画を観終わった後、その重さにため息を漏らし、言葉を失ってしまうだろう。
「ミスティック・リバー」とは果たしてなんだったのか。
あの川に沈んでいるのは、本当にデイヴとレイなのか。
難しい問いである。

このような映画がオスカー候補にあがり評価されることは、アメリカはまだまだ捨てたものではない。

(2004/1/19執筆)

この映画の批評を読み直していて、今思うのは、この映画の設定と「20世紀少年」の設定がどことなく似ていると言うことだ。
どちらの話にも共通しているのは、時の残酷さと、記憶の曖昧さだ。
なんども見直したい、そんな映画だ。

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