secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

君の名は。

2016-12-03 10:03:06 | 映画(か)
評価点:50点/2016年/日本/107分

監督・脚本:新海誠

こんなオチで、本当に良いのかという衝撃作。

田舎に住む、高校生の宮水三葉(声:上白石萌音)は、朝起きたとき違和感を覚えた。
翌日、周囲の反応から、昨日の自分の様子がおかしかったことに気づく。
そういえば、リアルな夢を見ていた気がした。
ノートを開くと、「お前は誰だ?」という書き込みがあった。
スマートフォンの日記には、見知らぬ記事があり、どこかの男子と入れ替わっていることに気づく。
立花瀧(声:神木隆之介)は、東京に住む高校生。
彼もまた、周囲の反応から、自分が三葉という女子高校生と入れ替わっていることに気づき始めたが……。

周囲の評価が頗る高く、映画批評家としては人肌脱がねばならぬという使命感により、無理に時間を作って映画館に向かった。
なかなかの強行スケジュールで、しかも、すでに一通り話題になったあとなので、そもそも劇場公開が終わっているものだと思ったが、館内はなかなかの入りだった。

私はラッキーなことに、周りに見たという人が多かった割に、予備知識をほとんど持たずに映画館に行くことができた。
また、周りの評価が高ければ高いほど、「穿ってみる」習慣がついていることから、期待値は驚くほど低かった。
そういう意味で、この映画を公開初日に見にいった人とはずいぶん違う見方になったことは言うまでもない。

どこかのアニメーターが作った映画でも議論になっていたが、私には私の見方がある。
広い心で下の批評を読んでほしい。
とっっても広い心で。

▼以下はネタバレあり▼

正直な感想から言えば、思った以上におもしろかった。
もっとひどい、もっと一本道な映画だと思っていたからだ。
この映画は、これだけ話題になったこともあって、私は二つの観点から鑑賞していた。
だから、この批評も二つの観点から切ることにしよう。

※なお、途中読まれている方が不快になる表現がある可能性があります。
私の主観的な批評に過ぎないので、個人攻撃をしたいわけではありません。
もちろん、議論には応じますが、その危険性があると判断した場合は、続きは読まずにいてください。
読む場合は、どうか広い心で、読んでいただきたいと思います。


【この作品について】

私はこの映画を見終わったとき、しばらく動けなかった。
もちろん、悪い意味で。
あまりにも予想外のオチだったので、本当に自分の読みが正しいのか、疑わしかったこともある。
途中まで、多少わくわくしていた自分が、奈落の底に突き落とされるかの如く、「え? ほんまに?これがオチでいいの?」と驚いた。

さて、その理由は後に書くことにしよう。
さきに、話を整理しておこう。

入れ替わるようになった三葉と瀧は、10月4日の彗星が近づく日、急に連絡が取れなくなってしまう。
瀧は電話をしようとするが、通じない。
業を煮やした瀧は、記憶を頼りに、三葉がいた町を目指すことにする。
飛騨にあることだけを頼りに、探し回るが一向に見つからない。
ふとしたきっかけでそれが糸守町であることを知った瀧は、そこが3年前に彗星の衝突で消滅した町だと知る。
つまり、瀧は3年前の三葉と入れ違っており、三葉はすでに死んでいた。
三葉になってご神体に近づいたことを思い出した瀧は、ご神体のあるカルデラに向かい、「半身」といわれる三葉のお酒を飲む。

あの彗星が落ちた日にもどった瀧(@三葉)は、この町が彗星によって消滅することをクラスメイトに伝え、大規模な作戦を立てる。
しかし、誰も信じてくれず、そのときを迎えてしまう……。
そこで同時に、三葉と瀧は、瀧の3年前に三葉が東京まで会いに来ており、そのとき渡された組紐がずっと瀧の手にあったことを思い出す。
ご神体のカルデラで再会した二人は、この彗星を止めるべく動き出す。

5年後、就職活動を向かえた瀧は、「スーツが似合わない」と周りに言われながら、何社も面接に臨んでいた。
すでに糸守町消失から8年が経っていた。
彼はすでに何があったのかを思い出すこともできず、しかし、何かを探し続けている感覚だけが残っていた。
東京の街で、二人は再会するのだった。

私は途中、そう、就職活動の「現在」に至るまでは、なかなかおもしろい映画だと思っていた。
そして、どういう着地点に落とし込もうとしているのか、半ば期待しながら見ていた。
しかし、オチはとんでもないひっくり返しだったのだ。

このオチは、つまり、二人は〈出会っていなかった〉ということになる。
誰の記憶からも消し去られた「もう一つの歴史」は、なくなってしまった。
本人の二人ももう、覚えていない。
つまり、そもそも、そんなやりとりはなかったのだ。

この物語は、22歳(大学4年生?)の瀧が作り出した、壮大な妄想だった。
この映画はそういうオチだ。
彼は自分を探している。
自分は何か何者かになれなかったのか、自分には別の運命がなかったのか。
そういう自分探しをしていくうちに、壮大な妄想に行き着いた。
糸守町を救ったり、三葉という少女と入れ替わったりなど、していなかったのだ。
そうあってほしい、と強く願っていたにすぎない。
まさに、この物語が夢であったことを、オチでは明かされてしまう。

私はこの映画をみて、脱力感に見舞われたが、それは、最終的に「何もなかった」ことが示されるからに他ならない。

瀧は、だから「スーツは似合わない」。
現在の瀧が課題として示されているのは、この点だけだ。
なぜなら、彼は「就職活動生」ではないから。
いつも、何か、別の可能性、別の世界の自分を夢見ている。
だから、〈いま〉〈ここ〉で生きることができない。
何かを無くしてしまったと思うことで、本当の自分を肯定したいと熱心に思っている。

ラストで、瀧は〈運命の人〉に出会ったのかもしれない。
けれども、それはわからない。
それがたとえ三葉だったしても、それは昔に体が入れ替わったからではない。
それは〈いま〉の瀧が求めている〈何か〉を持っているという程度の出会いでしかないのだ。
だって、すでに二人はその記憶、手立て、歴史性、過去を、全て失ってしまったのだから。
ただ二人にあるのはある特殊な〈確信〉だけだ。
その〈確信〉は、ふつうに私たちが日常生活で恋に落ちる〈確信〉となんら違いはない。

そう考えると、この映画はすべてすっきりする。
なぜあれほど東京の街並みは美しいのか。
なぜ入れ替わってしまう男女が、気持ち悪い(私みたいな)中年ではなく、同じ世代の男女なのか。
〈運命〉だからではない。
それが瀧の願望だからだ。

そして、それは私たち観客の願望でもある。
その点については後に述べよう。

私はこの映画があまりにも美しく描かれることに対して、はじめから違和感があった。
いや、東京も、糸守も、そしてその中に生きる人々も、すべての光景が美しすぎるのだ。
しかし、映画のオチを考えるとそのはずだ。
美しくないものは、彼の中に存在してはならないのだから。
すべての日常は、きらきらと輝いてなければならない。
なぜなのか。
今の瀧には、すべてが灰色に見えているからだろう。

過去の瀧には〈他者〉がいない。
唯一の〈他者〉だったはずの、三葉は、入れ替わる=同化することによって〈他者〉ではなくなる。
すべては彼の世界になってしまう。
それを象徴するのが、瀧と三葉の出会いをめぐるパラドックスだ。
瀧は三葉から彗星衝突の前日に組紐をもらう。
この組紐は、三葉と瀧とが入れ替わるきっかけにもなるが、結果にもなる。
入れ替わることによって、三葉は瀧に会いに行こうとするが、瀧にその組紐を渡すことで、3年後の瀧と入れ替わる。
これは典型的な時間的なパラドックスである。
だが、これはパラドックスではない。
全くこれには違和感はないのだ。
なぜなら、結果と原因は一致している=瀧の中で完結しているのだから。

瀧の世界では、全く矛盾することなく納得されてしまう。
組紐というモティーフに仮託しているが、実際にはモティーフは、カルデラのような〈円〉だ。
因果関係が一致することで、瀧という自己に〈他者〉が入り込む余地を完全になくしてしまう。

もう一度書こう。
この物語の9割は、瀧の妄想にすぎず、その瀧の内面にあるのは、社会とコミットできないというはじき出された自己のためだ。
そして、やっと運命の人と予感させる人と出会う。
それを人は〈恋〉という。
そこに、数百人の人を救うといった社会性や使命感はないのだ。

→「その2」に続く

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