secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

プレステージ(V)

2008-03-09 10:17:37 | 映画(は)
評価点:79点/2007年/アメリカ

監督:クリストファー・ノーラン

一流とそうでないマジシャンの違いは何か。

マジシャンのアンジャーは、瞬間移動のマジックをしようとしたが、失敗し、溺死ししてしまう。
たまたま居合わせたアンジャーのライバルのボーデンは、その殺人容疑で裁判にかけられる。
無実を主張するボーデンのもとに、アンジャーの手記が届く。
その手記には、それまでの二人の壮絶な争いが書かれていた。

インソムニア」や「メメント」の監督が、クリストファー・ノーランである。
タイトルを聞いて内容を思い出せる人ならば、この映画のノリも何となく想像がつくはずだ。
ストーリーとして書いてしまうと、わかりやすい話のようだが、実際に見るとある程度の予備知識がないとけっこうきついだろう。
時間が前後しているだけでなく、その操作されていることが示されずに唐突に組み替えられている。
それももちろん計算なのだが、そのノリがわかっていないのと戸惑うだろう。

とはいえ、この映画は昨年(2007年)公開映画の中でも屈指の作品であることは、間違いない。
サスペンス好きな人はもちろん、映画が好きな人ならすんなり楽しめるだろう。
複雑な映画が得意でないなら、字幕ではなく吹き替えで見ればいい。

ロンドンの「何が起こっても不思議じゃない」街並みや、活気あふれるマジックショウもこの映画の見所の一つだ。

▼ 以下はネタバレあり ▼

先にも書いたように物語時間(物語の中に流れる時間)と、表現時間(上映時間に沿った描かれる順序)が乖離しているため、物語が複雑であるかのように展開する。
表現時間に沿って語ることは僕の脳では不可能なので、説明するために、時間軸を整理しながら話を進めていこう。

(1)二人のマジシャンの出会い。
アンジャーとボーデンとが互いの腕を競い合うように、マジシャンとして出会う。
彼らはそれぞれにマジシャンとは何か、という理想を抱いていた。
彼らは水槽の脱出のマジックでサクラとして使われることで、舞台に立つ日を夢見ていた。

(2)アンジャーの妻の死
水槽の脱出マジックの際、強く縛りすぎたのか、アンジャーの妻が脱出できずに死んでしまう。
ボーデンの縛り方が悪かったのだと確信したアンジャーは彼を憎むようになる。

(3)アンジャーの復讐
かねてから考案していたボーデンは「弾丸つかみ」のマジックで名をはせようとしていた。
その舞台に現れたアンジャーはライフルに細工をして、指を吹き飛ばしてしまう。

(4)ボーデンの復讐
アンジャーは舞台人としての再起をかけ、新たにマジックを考案する。
その初舞台に変装して現れたボーデンは、細工を見破り、わざと失敗するようにし向ける。
観客にけがをさせてしまったアンジャーは、舞台を降板させられる。

(5)瞬間移動
ボーデンの策略にはまった後、アンジャーは、ボーデンの新しいマジックを知る。
それは、人間が瞬間移動するというマジックだった。
それはそっくりさんを使ったものだと考えたアンジャーは、自分も同じようにそっくりさんを使った「瞬間移動」のマジックをはじめる。
だが、そのそっくりさんと折り合いが合わなくなり、舞台の人気は落ちていく一方だった。

(6)ボーデンの日記とアメリカ
どうしてもボーデンの瞬間移動の秘密を探るために、恋人であったオリヴィアをスパイとして送り込む。
送り込まれたオリヴィアが持ってきたボーデンの日記には、アメリカで知り合った科学者の名前が書かれていた。
何ヶ月もかかって解読したアンジャーはテラスという科学者に装置を作ってもらうように依頼する。

(7)新・瞬間移動と殺人事件
だが、日記をすべて解読したアンジャーは、これがボーデンの恐ろしい陰謀であったことを知る。
つまり、嘘の日記を読ませてアメリカへ追いやったのだ。
憤るアンジャーだったが、テラスが用意した装置は、まさに悪魔の装置だった。
その装置はものを複製するという装置で、この装置により、アンジャーは瞬間移動のわざを舞台で公演するようになる。
その秘密を知りたがったボーデンは、舞台装置に忍び込み、その舞台をみようとした。
そのときに観たものは、アンジャーが別の舞台で使用するはずの装置の中で溺れてしまう現場だった。
溺死したのはボーデンによるものだとして、殺人事件になってしまうのだ。

(8)事件の真相
二人のトリックが明かされ、両者の対決の結末が明かされる。
アンジャーの瞬間移動は実はコピー・マシーンであり、自分と全く同じ自分を複製し、片方を殺すという手法で「移動」を見せていた。
一方、ボーデンの方は、双子であることを利用して「移動」しているように、見せていたいのだ。

物語は(1)~(7)の出来事をおおむね時系列に沿って展開されるが、所々時間を錯綜させることによって、観客を混乱させる。
そのため、真相が読みにくくなっている。

実際には、落ち(二人の瞬間移動の方法)は十分に読むことができるレベルだと思う。
僕はボーデンの落ちは読めた。
アンジャーの落ちは途中(猫のくだり)まで読めていたが、途中からボーデンの方が気になってしまって、考えなくなったころに、真相が明かされてしまった。
だから、どちらか一方を読むことは難しくないはずだ。
だが、両方いっぺんに読もうと思うとさすがに難しいだろう。
そういう映画だ。

そのバランスが絶妙なのだ。
そのバランスをとるために、時間を錯綜させているのもあるだろう。
メメント」ですばらしい時間操作を見せたクリストファー・ノーランド。
その手法を再び見せてくれた、という感じだ。
特に、お互いが手紙を受け取り、読んでいる時間軸がわかりにくい。
それがサスペンス効果をもたらし、「映画としての落ち」じたいがどこにあるのかを隠していた。
そしてなぞが「二人のマジックのネタ」であることがわかったときには、観客は気になって気になって仕方がない、というサスペンス効果を引き出している。
全体像が見えるに従って、一気に加速していく、そのフォーカスの仕方が非常にうまい。
単なる時間操作だけではない計算高さが伺える。

ラスト、最終的にはボーデン兄弟が勝つという結末で物語は終わる。
これにもきちっとした説明ができるようになっている。
なぜアンジャーは負けたのか。
シンプルな答えだ。

アンジャーは、マジシャンではなかったのだ。
ボーデンというライバルと「騙し合い」を演じるが、アンジャーは、名を馳せよう、観客を集めよう、としているだけであって、「観客を騙して楽しませよう」という発想がない。
マジックを自分で編み出したり、自分の生活やプライベートを壊してまでも、マジックに賭けようという気概はない。
すべてをなげうってアメリカに渡り、悪魔のマシンを手に入れる。
それはマジックにすべてを賭けているように見える。
だが、実際にはマシンを得ること、ライバルに勝つことに人生を賭けているだけであって、観客を騙して、楽しませてやろう、というマジシャン本来の哲学によるものではない。

対するボーデンが捧げたものは財ではない。
双子であることを隠し、プライベートも「半分」しかない状態でも、観客を楽しませることに徹したのだ。
楽しませること、あっと驚かせることに対して、貪欲なのだ。
だから弾丸つかみなどという暴挙をするのだ。

冒頭にある語りは重要だ。
「観客はマジックのネタが見たいのではない。騙されたいのだ」
アンジャーは「ネタ」を求めた。
だが、ボーデンは魅せるということを求めたのだ。
単純なネタをいかに本当のように魅せるか。
それを追求したのだ。

二人の明暗を分けたのは、その一点だ。
それを浮かび上がらせるために、あえてアンジャー側に感情移入させるように、視点をアンジャーに置いたのだ。
観客は二人のマジックに騙されるとともに、一見もっともらしい復讐を目指すアンジャーが「負けてしまう」ことに、騙されてしまう。
これもまた監督の仕掛けた「罠」なのだ。
監督からの二重の裏切りを浴びた僕たち観客は、一種の心地よさとともに、放心状態になる。
この映画の裏切りの気持ちよさはここにこそあるのだろう。

生き残った(勝った)ボーデンは果たして生きていけるだろうか。
片割れを失ってもなお、マジシャンとしてあり続けるだろうか。
それとも、マジシャンとしてのタクトまでも失ってしまうだろうか。
興味深い問題である。

(2008/3/5執筆)

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