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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

告白

2010-06-13 11:10:31 | 映画(か)
評価点:85点/2010年/日本

原作:湊かなえ
監督・脚本:中島哲也

告白される内容は、決して「本音」ではない。

シングルマザーの化学教師森口悠子(松たか子)は、年度末の三月、担任するクラスに衝撃の告白を始める。
一人娘の愛美が死んだ真相は、事故死ではなく、このクラスメイトに殺されたのだ、と。
衝撃が走るクラスは、騒然となり、該当する犯人A、Bを予想し始める。
そして、彼女の告白が終わる頃、その二人の牛乳にエイズウィルスに感染した血を混ぜたと、森口は告げる。

隣に座っている同僚が、是非見にいけと言うので、原作も読まないまま、前評判も知らずに見にいくことにした。
仕方がないので、原作も映画を見る前に購入して、これを書き終えた時点で読み始めようと思う。

監督は「嫌われ松子」の中島哲也。
僕はそれしか見ていないので、他との比較がしようがない。
主演は松たか子。
松たか子がどうしても好きになれなかったので、当初の見にいくリストにはリストアップされていなかった。
脇を木村佳乃、岡田将生らが固める。

同僚から言われたのは、「この映画は物語とかそんなんじゃなく、映像の世界観がおもしろい」ということだった。
中島哲也は確かに映像の世界観を大切にする監督なので、告白という原作をどのように映像化するのか、という点に着目しながら見た。

なにやらすごく売れているという話だが、この映画はおもしろい。
原作を読んでいなくても十分に楽しめるだろう。
今月の一本というよりは、今年の一本だ。
何かと話題の(いや、フジテレビの番宣先行の)「踊る」の出来はわからないが、ひょっとしたら、出る幕はないかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

先にも書いたが、僕は原作を読んでいない。
この批評を書く前に、原作を読もうかと思ったが、それはやめた。
少なくとも、映画人としてこの映画を作った中島監督に対して、単なる原作との比較をしても、無意味だろうと考えたからだ。
あるいは失礼だと言い換えてもいい。
原作を読んでから、この映画を見ることと、この映画を見てから原作を読むのでは、ずいぶん印象が違うだろう。
少なくとも僕はまっさらな状態でこの映画に触れたのだから、その印象を記すべきだろうと考える。

よって、原作での設定は無視して以下の批評を書く。
ここでは、この映画単体として扱い、〈解体〉することを改めて断っておく。

告白、というタイトルを見ながら、そしてパンフレットをぱらぱらめくりながら、ぼんやりと思い浮かべていたのは、柄谷行人の「近代文学の起源」にあった「告白という制度」だった。
近代文学における告白は、自分の中にある本音や本心、あるいは真実なるものを語ることから始まったわけではない。
告白という制度は、まさに制度であって、まず告白するべきものを探し出すことから始まった。
つまり、告白するための告白という〈転倒〉したあり方がそこにはあった。
確かそんな主旨だった気がする。
その意味では彼のお得意(だった)〈風景〉論と同じ軸にある。

そんなことをぼんやり思い浮かべながら、小説という媒体と、映画・映像という媒体の違いをどのように演出するのか、と考えていた。
冒頭の森口の告白を見ていたとき、この映画はもしかして全然おもしろくないのではないかと疑った。
そこに出てくる人間たちは、どれも薄っぺらく、どこにでもいると言われる、ステレオタイプの人間ばかりだったからだ。
ワイドショウで出てくるようなありきたりな人間性しか描かれておらず、よくある凡作の日本映画なのかと思った。

だが、そうではなかった。
語り手が一人二人と増えていく内に、この映画は俄然おもしろくなってくる。
同じ事件を描きながら、それぞれの視点を持たせることで、全く違った様相を呈してくる。
なぜそんなことになるのか。
それはこの映画が「告白」という形態をとっているからだ。
つまり、告白するということは、独白ではない。
独り言でもない。
語りでもない。
誰かに、一定の意図を持って自分の考えを語るという形態である。
そこには嘘が含まれる。
思い込みが含まれる。
自分の最も言いたいことを言っているつもりでも、本当に言うべきことが欠落してしまう。
そうした告白という〈制度〉や特性をよく熟知して展開されているのだ。

だから、同じ事件でも全く違う様相が見えてくるし、告白されるたびに、どんどん人物が浮き彫りにされていく。
どこにでもいるステレオタイプで、のっぺらぼうだった修哉や直樹は、〈個〉を描き始める。
〈個〉と〈個〉のぶつかり合いの中で事件が起こり、事件を受け止めていく姿が描かれる。
そこには悲しすぎる偶然と、痛すぎる必然がある。
まるで同じルートのように見える螺旋階段を、どんどん掘り下げていくかのような暗さがある。
だから、おもしろい。

具体的に指摘しておこう。
例えば、森口悠子は、白血病の未婚の夫、桜宮の血を牛乳に混ぜた、と嘘の告白をする。
例え本当でも血を飲んでエイズに感染することはまずない。
血液感染するエイズでは、血液どうしがふれあうことで感染するものだからだ。
だが、そんな常識も知らない中学生(まあ、大人もだろうが)は、二人の生徒をまるで病原菌のような扱いをする。
嘘の告白により、二人はクラスから孤立してしまうのだ。
彼女には教師として、大人としての強い動機があり、また計画性もあった。
その強さや計画性そのものが、復讐の重みであり、悲しみの深さを示している。
直接的に語られる事はなくとも、観客は十分にその大きさを知ることができる。

直樹には自分がいない。
自分の存在意義を自己確認する方法が是非必要だった。
修哉に認められることは、あるいは修哉を乗り越えることは、彼には命題だったのだ。
だから、目を覚ました愛美ちゃんを殺害するという能動的な行動に出る。
だが、自分がいない彼は、殺人では自己確認できないと言うことを、森口悠子に指摘されて初めて気づく。
木村佳乃が演じる母親の庇護下にあっては、彼は永遠に自分を見いだすことはできない。
母親を殺すのは、必然だったわけだ。
母親が息子と、息子が母親と未分化の状態では、存在意義など見えてこないのだ。

だが、そこには森口悠子が求めたはずの、絶対的な母子愛がある。
二人の家族を壊すことは、要するに自分を壊すことであると、森口悠子はどこかで知っていたに違いない。

同様に、修哉もまた母子愛に支えられている。
彼には母親以外の〈個〉がいない。
母親以外に人間はいない。
母親だけが唯一人間であり、それ以外は何者でもない。
退屈しのぎだと北原美月とつきあうようになるが、彼女をあっさり殺せるのは、修哉にとって人間ではないからだ。
彼は自分が自分でわかっているつもりでも、母親と自分しか世界にいないということを、自認していない。
だから、美月にそれを指摘されて、退屈しのぎの美月を殺してしまうのだ。

彼はエディプスコンプレックスの典型として描かれている。
母親と結びつきたい、母親に認められたい。

彼を深く追っていけば追っていくほど、やはり復讐する相手は自分と同じ愛を持ちうるのだということを、森口悠子は知っていく。
ラストの体育館では、それをあざ笑うかのように、修哉の前で強い自分を演出して見せる。
だが、彼女は気づいているはずだ。
復讐している自分は、自分自身であり、自分の娘への愛であると言うことを。
だから、美月とファミレスで再会した後、泣き崩れるのだ。
おそらく、ラストで修哉と直樹に対しての復讐は完了する。
だが、それは悠子自身が母親を辞めてしまったのと同義だ。

彼らは、彼女らは、くどいように自分たちの心情や生き様を吐露する。
それは映像作品としては野暮な演出となりかねない。
だが、そうは感じない。
なぜだろう。
それは、彼らが何一つ自分では本当のこと、真実なるものを語ることができないという悲しみを抱えているからだ。
それを可能にしているのは、もちろん脚本だけではあるまい。

光を抑えた映像の力と、音楽の力だ。
「世界観をを楽しむ映画」という同僚の言葉は確かだった。
映画が映画であるゆえんを教えてくれるような、そんな映画だ。

最後に、ラストの「なんちゃって」がすごく気になる。
直前に言った「更正」なんて、望んでいないよ、ということなのか。
告白じたい、映画自体が「なんちゃって」なのか。
母親のところに爆弾を置いたことが「なんちゃって」で、実は母親を殺すまではしていないのか。
あるいは、自分の愛美への愛、娘への愛は捨てられないという復讐じたいに対する「なんちゃって」なのか。

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