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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

12人の怒れる男(V)

2009-09-13 22:05:42 | 映画(さ)
評価点:86点/1957年/アメリカ

監督:シドニー・ルメット

人と向き合うとはどういうことなのか。

スラムに住む青年が、父親殺しの罪に問われ、裁判にかけられた。
陪審員は12人。いよいよ判決が決定される。
その審議のために、12人はお互いの名前も知らずに一つの部屋に閉じこもり、議論を交わすことになる。
一人が言う。
「これは絶対にあの青年がやったのだ」
判決は容易に決定されるように見えたが、全員の一致が必要な決議に、一人の男が疑問を提出する。
「無罪である可能性も捨てきれない」
驚く11人を相手に、一人の男が持論を展開し始めるが…。

古い映画ではあるが、非常に有名な映画なので、きっと見たこともあるだろう。
もし、まだ見ていないのなら、見るべき映画だ。
日本でも裁判員制度が導入されるにあたって、この映画は観ておいて損はない。
制作年度をみて、閉口する人もいるだろうが、そんなことはまったく気にする必要はない。
良い映画はどれほど時が経っても色あせることはないことの良い手本だ。

気をつけるべきは、彼らの論の展開の仕方、ひっくり返し方のみならず、部屋などの事物描写だ。
これほどまでに緻密に計算された映画は少ない。
しかも、単純な話ときている。これは骨の髄まで楽しんでほしい。
 
▼以下はネタバレあり▼

僕がいまさら、ここでこの映画について何かを語ると、どこからから怒られそうだ。
それくらい有名な映画で、言い尽くされているのだろう。
(僕は全くこの映画について論じたものを読んでいないけれども)
しかし、あえて、今僕の視点から語るとしたら、こういうことだろう、ということを書いてみよう。
何十回も観たことがある人なら、別に読まなくて良い批評かもしれない。

この映画は全編を通しての「密室劇」だといっていい。
劇中では一つの裁判をめぐって12人の陪審員が有罪か無罪かの決断を下すための
審議が行われる。
わずかに部屋から出るシーンがあるが、ほとんどは蒸し暑い一室でのやりとりが全てである。
ストーリーは非常に単純で、一人をのぞく11人にとって有罪だと思われた審議が、一人の疑問から無罪へとひっくり返されるという展開である。
最終的な終着点は誰もが見えてしまうが、先読みできない楽しみよりも、たった一人が、全員の論拠を覆していくという展開が非常に面白い。

この映画を観ていて、京極夏彦のことばを思い出す。
事件と関わると言うことは第三者として体験することはできない、というようなことを登場人物に言わせていた。
この映画はまさにその点をついている。
ほとんどの陪審員にとっては「単なる青年の殺人事件」であり、自分は客観的に判断していると思いこんでいる。
だが、議論を続けていくとそれは幻想であり、自分という立場、生い立ち、主観からは逃げられないことに気づかされる。
人種差別、親子の関係、スラムへの偏見など、知らぬ間に事件を主観で見つめ、そして自分の結論は客観性ある結論であると、思いこんでしまっているのである。

日本でも始まる裁判員制度の難しさを浮き彫りにするという意味でも、この映画は非常に興味深い示唆をみせてくれるだろう。

その一個の人間性をあぶり出す手法・展開がまた巧みである。
固有名詞が一切出てこないことに気づいた人は多いだろう。
それなのに、驚くほど個性的な人物たちが議論を展開するのだ。
だれが、どんな人で、どんな考えをもっているのか。
それが手に取るようにわかるのは、密室劇だということが影響している。
僕ら観客は、情報を制限されると細かい情報でも注目しようとしてしまう。
肌の色、年齢、服装、表情、話し方、しぐさなど、全てが彼らの人物設定を補強するのである。
もちろん、それらを完璧に演じきった役者には脱帽するしかない。

それだけではない。
話が不自然にならない程度に、事件の全容を観客にも説明する。
だから、密室劇でも議論についていくことができる。
また、モノクロ映画でありながら、時間経過などを示す演出により、だれた印象がない。
特に、こまめに決をとることによって、映画的な進行具合がわかる。
一人が二人になり、やがて過半数を超えていく。
議論に説得力があることと相まって、単なる議論にメリハリとリズムが生まれている。

だが、この映画で僕が最も感動したのは、人物描写以外の事物描写である。
雨が降る。日が暮れる。雨が止む……。
これらは議論の中身とがっしりとかみ合っている。
彼らのイライラが最高潮に達するとき、暑さもピークを迎える。
彼らの服装が次第にラフになり、どんどん「自分」をさらけ出していく。
カメラワークもアップになりその影には事物描写がある。

扇風機のくだりはこの映画の根幹を支えている。
一見壊れているようにみえる扇風機は実は電灯と連動したスイッチだった。
これはこの事件全体を暗示している。
すなわち、通常の状態なら、気づけるかもしれないささいな仕組みに、ちょっとした思いこみによって見えなくなっていたのである。
裁判のやりとりも、だれが気づいてもおかしくないような不自然さに、誰も気づかず、最終の陪審員の議論まで矛盾が見逃されていたのだ。
そして、それは時間をかけることによって必然的に気づくのである。
時間が経過し、周りが暗くなる。
電灯を付けると、扇風機も連動して回る。
まさに裁判(映画)全体を暗示したシークエンスなのである。

そこまでは読み過ぎかもしれない。
だが、少なくともそれを観ている僕たちは、知らぬ間にそれを目にしている。
さりげない描写こそが、僕たちの無意識に訴えかけ、映画の展開の必然性を生み出していくのである。
まさに映像的サブリミナル効果とでも言うべきものである。

彼らの結論は「無罪」。
最後の男は自分と事件を照らし合わすことにより泣き崩れてしまう。
自分という存在と切り離して裁判に参加することはできないのである。
彼らはようやく家路につく。
外は暗いが、雨は既にあがり、密室から解放されるのである。
これほどのカタルシスはなく、またこれ以上の終幕もない。

1957年の映画だが、まったく古くさくない。
強いて言うなら、陪審員に女性が居ないことと、(アフリカ系の)黒人が見あたらないことくらいである。

(2007/4/24執筆)

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