secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ピエロがお前を嘲笑う(V)

2016-08-21 13:14:53 | 映画(は)
評価点:56点/2015年/ドイツ/106分

監督・脚本:バラン・ボー・オダー

大昔の二匹目のドジョウを狙った感が強い。

ベンヤミンは周りから誰も相手にされるようなタイプの人間ではなかった。
しかし、あることがきっかけになり、世界中から追われる人間となった。
「普通の人間に戻りたい」と考えて、彼は自首することを決意する。
取り調べの中で、彼がいかにしてネットの脅威になっていったかを語り始める。

ナイト・クローラー」を借りたら、この予告編が付いていて、観ることにした。
劇場でも公開されていたのは知っていたが、そのときはあまり食指が動かなかったのだが、ブログの更新のこともあったので、手に取った。
こういう映画は前評判を気にしてから観ていたのでは面白みはない。
もし観るつもりなら、何も知らずに借りて観てしまうのがいいだろう。

私は旧作レンタルくらいになってからで十分だと思うが。

▼以下はネタバレあり▼

容疑者が取調室に来て捜査官に悪事を暴露する。
映画の大半がこれに費やされる映画を、私たちはすでに経験している。
「ユージュアル・サスペクツ」である。
だから、この映画の始まりと、予告編だけで、自ずとそういう趣向の映画であろうことは分かってしまう。
わかっていても騙してくれることを願うわけだが、この映画はそれほど面白さを感じる完成度ではなかった。

いわゆるミス・ディレクションのタイプの映画である。
もうすでに何度も試みられている手法なので、いまさら驚くこともあるまい。
一つの真実に導くように伏線を張りながら、最後にその真実をひっくり返して驚かせるというものだ。
アザーズ」、「シックス・センス」、「ユージュアル・サスペクツ」、「ゲーム」あたりが代表的な作品だろうか。
もちろん、「SAW」の第一作もこれにあたる。
(他にもあるけれど、書きまくると観ていない人に申し訳ないので)

さて、そういう手法をとる全ての作品について重要なことは、ミスリードが上手くいくかどうかという点と、明かされた物語がそれまで見えていなかった伏線と上手くかみ合っているかどうかという点だ。
ミスリードされた真実と、作品のオチに落差が大きければ大きいほど、映画としての評価は高くなる傾向にある。
だって、そういう映画の多くはそれをうたい文句にしているわけで、その前提が崩れてしまうと評価は地に落ちてしまう。

ということで、この映画はミスリードとオチの落差が大きくない、というより、ミスリードの伏線があまりにも雑なので、面白みがないのだ。

クラッカー(悪意あるハッキングを繰り返す犯罪者)として名をはせようとしたクライの四人達は、ベンヤミンの悪戯から、殺人犯の濡れ衣を着せられてしまう。
伝説的ハッカーであるMRXをおびき出すことによって、その濡れ衣を晴らそうとするが失敗する。
メンバーの他の三人がそれによって死んでしまったとベンヤミンは元捜査官のハンネ・リンドベルクに語る。
それがきっかけでベンヤミンは司法取引によってMRXの逮捕と引換に証人保護プログラムを受けるようになる。

しかし、それらの話はすべてベンヤミンがねつ造した架空の話であるとハンネ・リンドベルクが見抜き、証人保護プログラムが解除される。
具体的にはベンヤミンが多重人格者であり、精神疾患を持っていたと分かったのだ。
これがミスリードで導き出された真実だ。
問題は、このミスリードがあまりに唐突で、それまでなんの伏線もないということだ。
薬くらいしかその伏線はなく、多重人格である素振りさえない。
だから、それが隠された真実でした、と明かされても、「え、そういう映画だったんだ」という驚きというより呆れのほうが大きい。
「だよね、やっぱそういうことだったんだよね」という真実でなければ、ミスリードにならない。

その後の真実の明かし方もよくない。
呆れてしまう気持ちを隠しきれない状況で、ふたたびそれがウソだったことが明かされる。
タイミングとして、ミスリード → 真実 がばたばたと明かされていく。
だから、おもしろくない。

「え、そういうことだったんだ」の前に、ミスリードの真実の方を消化できていない。
だから、「騙された」「やられた」という感覚よりも、映画の仕組みを理解する間にエンドロールが来てしまう。
ああ、ここでミスリードさせたかったけど、失敗してすぐに真実を明かしてしまったんだ、という「仕組み」である。
そうとしか感じられないのは、この映画がミスリードの真実を明かされたときから、物語に移入することができなくなるからに他ならない。

また、その違和感と同時に、この計画自体が、かなり無理があるのではないかという疑問がふつふつと沸いてくる。
捜査から外された一人の女性を罠にかけて、証人保護にかけられて、解除されてということがそう都合良くいくのか。
またそれを再び無にするようにハンネ・リンドベルクが手伝ってくれるように仕向けられるのか。
四人の運命がかかっているのに、そんな冗長で、不確定要素の多い方法をとるのか。
四人いたかどうかはすぐに分かるだろうし、そもそも州立図書館でネットをしていたときの防犯カメラの画像を確認すれば、四人であることはわかったはず。
いかにもドラマにありそうな多重人格なんていう発想をそうやすやすと思い込んでくれるだろうか。

密室劇のように見えて、実際にはいくつもの「冷静になるタイミング」がある。
その中で、彼女だけを孤立させるような計画が果たして上手くいくのか。

でも、問題はそこにはない。
やはり、そういう些末な矛盾に思いをはせさせるような展開にしてしまったことが、この映画の最大のミステイクだ。
ユージュアル・サスペクツ」を彷彿とさせる手法だったが、本家の方には遠く及ばない。

ヒロインがあまり好みでなかったことも、その一因かもしれないけれどね。

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