評価点:61点/2002年/アメリカ
監督:ブレット・ラトナー
「羊たちの沈黙」より前の「レクター」シリーズ。
捜査官ウィル・グレアム(エドワード・ノートン)は、精神分析医のレクター(アンソニー・ホプキンス)博士の助言で殺人事件の捜査を進めていた。
そしてその犯人がレクターであることを突き止め逮捕に成功した。
それから数年、その事件以来FBIを引退したグレアムの元へクロフォード(ハーヴェイ・カイテル)が捜査の協力のため訪れる。
連続一家殺人事件の被害が拡大するのを防ぐため、グレアムは再び現場へと戻る。
しかし捜査に行き詰ったグレアムは、刑務所にいるレクターに捜査協力を求めるのだった。
▼以下はネタバレあり▼
カニバル(人食い)・レクターというカリスマ性あるキャラクターがトマス・ハリスの小説に始めて登場した記念すべき作品。
しかし映画としては「三作目」であることにかわりなく、結果としてレクター頼みの映画になってしまった感は否めない。
これを「一作目」として観たとしたら、全然映画として成り立たなかっただろう。
レクターというキャラクターの魅力はその知性にある。
レクターという人物に何度も人々が捜査協力を依頼する理由はそこにある。
人を食うという恐ろしい嗜好の持ち主であるが彼はまさに天才なのだ。
また芸術的センスも持ち合わせているインテリジェンスな紳士だ。
紳士的な対応をしない相手には徹底的に反抗し、逆に聡明な人間には一目置く。
そういう毅然とした態度が観ている(読んでいる)人々に、ある種の憧れや好感を与えると言っていい。
しかしこの映画はそれがない。
レクターのキャラクターが全く描けていないのだ。
彼のお得意の「分析」も恐怖についてだけであるし、わかる人にだけわかるジョークをいうこともない。
この映画はレクターというキャラクターが、観ている人間に既にできていることを前提として撮られている。
それがいただけない。
レクターという人物を観客は望んで観にいく映画であるはずが、肝心のレクターはほとんど描かれずに「既にあるもの」として描かれている。
これではレクター・シリーズである意味がない。
このマイナス要素はさらに展開にまで影響する。
彼がどんなキャラクターであるか、不透明なまま捜査協力を要請するために、展開に無理が生じている。
クロフォードはレクターに協力要請するように、グレアムに言うが、それがどうも解せない。
あたかもグレアムにそう言わせるために彼に捜査協力を打診したかのような滑らかな展開である。
クロフォードとレクターの関係はそうとう険悪な仲であるから、(少なくとも「羊」と「ハンニバル」では)彼がレクターに頼もうというのはどうもおかしい。
悩みぬいた挙句に、ということならわかる。
しかしいかにもレクター頼みのクロフォードには、違和感を持たないわけにはいかない。
そして肝心の事件もきちんと描けていない。
犯人を途中でバラしてしまうという手法は、いかにも「羊たちの沈黙」的でいいが、彼のパートが大きすぎる。
だからグレアム側からの捜査が相対的に小さくなっている。
これによって事件が解決していくというプロセスが、スポイルされている。
後半はむしろレッドドラゴン(=ダラハイド)が、主人公のような比重で描かれる。
しかしそれだけ時間をかけたわりに、彼の深層心理を巧く描けているとはとても思えない。
彼が虐待を受けていたことで、「人間」を克服したいと願っていたことはわかるが
なぜそれが家族一家全員をあのように無残に殺す必要があったのか。
この心理についてはどうしてもレクターの分析を入れる必要がある。
だから彼に協力を仰いだわけでそれがないと、彼は捜査に混乱をもたらしただけになってしまう。
ダラハイドが着物を着ていたり「中」と刻んでいたりすることの
説明も全くない。中国や日本に詳しいのか、なぜ「レッドドラゴン」を麻雀にこめたのか。
そういう分析がどうしても必要だった。なぜならこれは「レクター」シリーズだからだ。
あらゆる狂気をその精神分析で解明してみせる、それがこのシリーズの醍醐味のはずだ。
それがないこのシリーズに求めるものがあるだろうか。
レクターとレッドドラゴンとの手紙を解析する場面は面白い。
しかしそのあとすぐにレクターにばれてしまうのはちょっともったいない。
ラスト15分も緊迫感あるように撮られている。
派手に爆発させることで死体が入れ替わっていることを読ませない。
多少、犯人がタフすぎると感じるが、筋肉を鍛えていたらしいからまだあり得るだろう。
どう考えてもこの映画は「三作目」ということを意識して撮られている。
途中で犯人側から描いたり、(「羊」の場合犯行から犯人を捉えるため「犯人」とわかるがあんな中途半端な場面から描いても犯人かどうか判らないから効果的だとはとても思えないが)、
ラストでクラリスの訪問を暗示したり(正直、このシーンもいらなかった)している。
しかしシリーズのツボを抑えていないために、二流の映画になってしまっている。
キャラクターに頼るなら頼るで、シリーズを思いっきり踏襲してほしかった。
なんとも中途半端になってしまいサスペンスとしても不満が残ってしまう。
「羊」とキャストを変えたのは良かったのかもしれない。
でもこれを観た後「羊」を観たら、きっとクロフォードの様変わりにビックリするだろうけど。
(2003/02/17執筆)
自分で書いておきながらなんですが、懐かしい作品ですね。
当時、劇場で観て以来、全然見直したりしていない……。
監督:ブレット・ラトナー
「羊たちの沈黙」より前の「レクター」シリーズ。
捜査官ウィル・グレアム(エドワード・ノートン)は、精神分析医のレクター(アンソニー・ホプキンス)博士の助言で殺人事件の捜査を進めていた。
そしてその犯人がレクターであることを突き止め逮捕に成功した。
それから数年、その事件以来FBIを引退したグレアムの元へクロフォード(ハーヴェイ・カイテル)が捜査の協力のため訪れる。
連続一家殺人事件の被害が拡大するのを防ぐため、グレアムは再び現場へと戻る。
しかし捜査に行き詰ったグレアムは、刑務所にいるレクターに捜査協力を求めるのだった。
▼以下はネタバレあり▼
カニバル(人食い)・レクターというカリスマ性あるキャラクターがトマス・ハリスの小説に始めて登場した記念すべき作品。
しかし映画としては「三作目」であることにかわりなく、結果としてレクター頼みの映画になってしまった感は否めない。
これを「一作目」として観たとしたら、全然映画として成り立たなかっただろう。
レクターというキャラクターの魅力はその知性にある。
レクターという人物に何度も人々が捜査協力を依頼する理由はそこにある。
人を食うという恐ろしい嗜好の持ち主であるが彼はまさに天才なのだ。
また芸術的センスも持ち合わせているインテリジェンスな紳士だ。
紳士的な対応をしない相手には徹底的に反抗し、逆に聡明な人間には一目置く。
そういう毅然とした態度が観ている(読んでいる)人々に、ある種の憧れや好感を与えると言っていい。
しかしこの映画はそれがない。
レクターのキャラクターが全く描けていないのだ。
彼のお得意の「分析」も恐怖についてだけであるし、わかる人にだけわかるジョークをいうこともない。
この映画はレクターというキャラクターが、観ている人間に既にできていることを前提として撮られている。
それがいただけない。
レクターという人物を観客は望んで観にいく映画であるはずが、肝心のレクターはほとんど描かれずに「既にあるもの」として描かれている。
これではレクター・シリーズである意味がない。
このマイナス要素はさらに展開にまで影響する。
彼がどんなキャラクターであるか、不透明なまま捜査協力を要請するために、展開に無理が生じている。
クロフォードはレクターに協力要請するように、グレアムに言うが、それがどうも解せない。
あたかもグレアムにそう言わせるために彼に捜査協力を打診したかのような滑らかな展開である。
クロフォードとレクターの関係はそうとう険悪な仲であるから、(少なくとも「羊」と「ハンニバル」では)彼がレクターに頼もうというのはどうもおかしい。
悩みぬいた挙句に、ということならわかる。
しかしいかにもレクター頼みのクロフォードには、違和感を持たないわけにはいかない。
そして肝心の事件もきちんと描けていない。
犯人を途中でバラしてしまうという手法は、いかにも「羊たちの沈黙」的でいいが、彼のパートが大きすぎる。
だからグレアム側からの捜査が相対的に小さくなっている。
これによって事件が解決していくというプロセスが、スポイルされている。
後半はむしろレッドドラゴン(=ダラハイド)が、主人公のような比重で描かれる。
しかしそれだけ時間をかけたわりに、彼の深層心理を巧く描けているとはとても思えない。
彼が虐待を受けていたことで、「人間」を克服したいと願っていたことはわかるが
なぜそれが家族一家全員をあのように無残に殺す必要があったのか。
この心理についてはどうしてもレクターの分析を入れる必要がある。
だから彼に協力を仰いだわけでそれがないと、彼は捜査に混乱をもたらしただけになってしまう。
ダラハイドが着物を着ていたり「中」と刻んでいたりすることの
説明も全くない。中国や日本に詳しいのか、なぜ「レッドドラゴン」を麻雀にこめたのか。
そういう分析がどうしても必要だった。なぜならこれは「レクター」シリーズだからだ。
あらゆる狂気をその精神分析で解明してみせる、それがこのシリーズの醍醐味のはずだ。
それがないこのシリーズに求めるものがあるだろうか。
レクターとレッドドラゴンとの手紙を解析する場面は面白い。
しかしそのあとすぐにレクターにばれてしまうのはちょっともったいない。
ラスト15分も緊迫感あるように撮られている。
派手に爆発させることで死体が入れ替わっていることを読ませない。
多少、犯人がタフすぎると感じるが、筋肉を鍛えていたらしいからまだあり得るだろう。
どう考えてもこの映画は「三作目」ということを意識して撮られている。
途中で犯人側から描いたり、(「羊」の場合犯行から犯人を捉えるため「犯人」とわかるがあんな中途半端な場面から描いても犯人かどうか判らないから効果的だとはとても思えないが)、
ラストでクラリスの訪問を暗示したり(正直、このシーンもいらなかった)している。
しかしシリーズのツボを抑えていないために、二流の映画になってしまっている。
キャラクターに頼るなら頼るで、シリーズを思いっきり踏襲してほしかった。
なんとも中途半端になってしまいサスペンスとしても不満が残ってしまう。
「羊」とキャストを変えたのは良かったのかもしれない。
でもこれを観た後「羊」を観たら、きっとクロフォードの様変わりにビックリするだろうけど。
(2003/02/17執筆)
自分で書いておきながらなんですが、懐かしい作品ですね。
当時、劇場で観て以来、全然見直したりしていない……。
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