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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

リリーのすべて

2016-04-29 10:08:28 | 映画(ら)

評価点:56点/2015年/アメリカ/120分

監督:トム・フーパー

閉じられた物語は身に迫るところがない。

1926年デンマーク、画家アイナー・ヴェゲネル(エディ・レッドメイン)は風景画で周りの評価を得ていた。
しかし、その妻ゲルダは肖像画を描いていたが、一向に評価を得ることができなかった。
ある日、妻の絵のモデルとなるダンサーが、急遽来られなくなったため、脚のモデルだけアイナーに頼んだ。
いやがるアイナーだったが、女性ものの下着を身につけると、ある感覚が芽生えはじめる。

「リリー・シュシュのすべて」ではない。
いや、笑うところなんですが。

実在した、画家の悲劇を描く。
今話題のLGBT性的マイノリティがもっとマイノリティだった時代に、自分の生き方貫こうとした一人の女性の話だ。
すでにさまざまなところで話題になっているので、今更紹介するまでもないだろう。
パトリシア・ハイスミス「キャロル」が同時期に公開されて、LGBTが映画界でも話題になっているようだ。
どちらも見ようと思っていたが、「キャロル」のほうはまだ原作を読んでいなかったので、「リリーのすべて」のほうを見ることにした。

監督は私と相性の悪い「英国王のスピーチ」、「レ・ミゼラブル」のトム・フーパー。
主演は最近話題作に立て続けに出演しているエディ・レッドメイン。
それよりも「コードネーム・UNCLE」に出ていた女優アリシア・ヴィキャンデルが最近のお気に入りなので個人的にはそっちがうれしかった。

とはいえ、やはり私は乗れなかった。

▼以下はネタバレあり▼

私はこの映画を評価しない。
なぜだろう。
しばらく考えていたが、おもしろくないのだ。
共感できる人物がいなかった。
ゲルダにも、アイナーにもそしてプーチン、いやちがったハンスにも共感できなかった。
こういう題材の映画で、共感できる登場人物がいないことは、致命的な結果を生む、そういういい例だ。

LGBTという言葉や、性的マイノリティという存在はかなり知名度が高まってきた。
ボーイズ・ドント・クライ」や「ブロークバック・マウンテン」などたくさんの映画も作られてきた。
私は性的マイノリティの存在を映画で知ったほどだ。
だから、私は「自分とは違う価値観を持つ者」という断絶によって物語を拒否するつもりはない。
問題は、やはり、共感できるように描かれていないことのほうだろう。
もちろん、史実に基づこうが、虚構であろうが、関係はない。
どこまでも私と監督の相性の問題の気がする。

アイナーは自分が女性ものの下着を着たとき、何か別の人格がいることに気がつく。
それはリリーと呼ぶもう一人の自分だ。
それまでは自分が何者であるかを疑う隙は無かった。
美しい妻をもち、自分の仕事を評価してくれる周りもいる。
アイデンティティは安定していたのだ。

しかし、自分にもう一人の自分がいることを自覚してしまう。
そして、それを求めるようになる。
それが周りからどのように見られるかという恥ずかしさがなかったわけではない。
それ以上に、しっくりと来たのだろう。
自分が女性の姿でいることのほうが、「自然」だったのだ。

そして水を得た魚のように、自分が何者であるかを自覚し始める。
自分は女性なのだ、女性として生まれるべき人間だったのだ、と。

理解はできる。
理解はできるが、共感はできない。
そして、なにより、申し訳ないが、リリーは美しくない。
執拗にリリーの姿に魅了されていく様子を描くが、どれもくどく、説明的だ。
描写が説明的であればあるほど、私はどんどん「自分とは違う存在だ」という意識が強くなる。
(おそらく、この描写(説明)の映像リズムは監督の特性なのだろう。
だから私はどの映画も共感できない)
そのために重要な人物が妻のゲルダだった。

しかし、妻のゲルダもよくわからない。
はじめは興味本位だったリリーの姿が本格的になるにつれて戸惑っていく。
男であるアイナーを求めながら、それでもリリーを肯定していく。
その揺れ動きがいまいち理解できない。
いや、頭では理解できる。
しかし、その反応はどこまでも説明的で、「ある結論」に至るための道筋のように感じてしまう。
ゲルダは結局誰を愛していたのか。
リリーだったのか、アイナーだったのか。
アイナーを愛するために、リリーを認めようとしたのか。

私にはその決定的な何かをつかめなかった。

映画は説明するものではない。
その決定的な何かを読み取らせるために、描写する。
決定的な何かを直接的に描けば、それは「説明」になる。
私の尊敬する今敏がそう言っていたし、私もそう思う。

ハンスもまた、彼の心を浮き彫りにするための視点人物としては役に立たない。
登場するのが遅いこともあるが、それよりも、ゲルダ、リリー(あるいはアイナー)との立ち位置が曖昧で中途半端だ。
そしてなにより、プーチンにしか見えない。
Yahoo!で検索すると予想キーワードに上がってくるくらい、似ている。

それはともかく、この映画はすべて結論に至るための筋を追っていくだけに見えてしまう。
結論が読めるかどうかではない。
作られたレールをただひたすらに進まされる印象を受けてしまう。
だから、泣くどころか心を揺れ動かされることがない。

終わってしまった物語、自分とは関係の無い遠い世界の物語、そういう印象をぬぐえない。
なぜだろう。

私にはこの監督と相性が悪いという以上に的確な指摘ができない。
少なくとも、私はこの映画が好きになれないし、「マイノリティ」を学ぶための話題性に富んだ映画だったから評価されたのではないかとうがった見方さえしてしまう。
そういう意味では「英国王」にしても「レ・ミゼラブル」にしても、脚本を見抜く力はあるらしい。

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